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第304話.父と娘

 俺は今も、あの日のことを鮮明に覚えている。


 12歳の秋、空気が冷たくなり始めた頃……俺は裏路地でごみ溜めを漁っていた。当時の俺は貧民で孤児だったから、そうでもしないと冬に生き残ることができなかった。


「道を空けろ! 公爵令嬢様のお出ましだ!」


 大通りの方から、いきなり誰かの叫び声が聞こえてきた。当時の俺は『公爵令嬢』という言葉の意味すら知らずに、ただ好奇心に導かれて大通りに向かった。


 大通りでは多くの人々が並んで、1台の馬車を眺めていた。黒色と金色の、見たことのない華麗な馬車だった。そして馬車の中には……1人の少女がいた。


 この世の存在とは思えないほど美しい少女の姿に、俺は見惚れてしまった。


「……ん?」


 運命のいたずらなんだろうか、少女も俺の方を見つめた。


「何、あれ?」


 しかし少女の美しい顔に浮かんだのは、嫌悪の表情だった。


「気持ち悪っ……」


 少女は馬車の窓を閉じて、そのまま町の外へと去っていった。


 あの時、俺は気付いた。俺と少女の間に、絶対に超えられない壁があることを。


「っ……」


 俺は貧民で、少女は貴族だ。俺は醜くて、少女は美しい。俺は孤児で、少女には家族がいる。一体何なんだ、この差は? 


「っ……!」


 一体何なんだ、お前は? 生まれた時から全てを持っているくせに……生まれた時から絶望しかない俺を侮辱するお前は一体何なんだ!?


 経験したことのない、激しい熱気が俺の全身を包んだ。傷の痛みや飢えの苦しみをも超える、怒りと憎悪が俺の心を満たした。


 お前にも……この屈辱感と絶望感を味わわせてやる! その派手な馬車をぶっ壊して、お前の白いドレスを破ってやる……! お前の綺麗な肌を汚して、俺のいるどん底に落としてやる! いつかは必ず……必ずだ!


 いつの間にか俺は拳を握りしめて、歯を食いしばって、心の中で叫んだ。それが12歳の俺の……人生最初の怒りだった。


---


 そして8年後……貧民から伯爵になった俺の前に、あの時の少女が立っている。


 俺は別に驚かなかった。公爵たちの人柄や家族関係などについては、もう数ヶ月前、エミルが報告書を作成して提出したのだ。


 あの報告書によると……3公爵の中で娘がいるのは、ウェンデル公爵とアルデイラ公爵だ。しかしアルデイラ公爵の娘は20代後半だと聞いたから、答えは1つしかない。ウェンデル公爵の娘である『オフィーリア・ウェンデル』こそが、俺を侮辱したあの少女なのだ。


 今日ウェンデル公爵が縁談を持ち出すことも、もう予想していた。つまり……俺はあの少女との再会を予想していた。驚くことはない。


 問題は……俺と再会した『オフィーリア・ウェンデル』が、果たしてどういう反応を見せるか……その点だ。あの時のように嫌悪の表情を浮かべるんだろうか、それとも……。


「オフィーリア」


 ウェンデル公爵が自分の娘を呼んだ。


「こちらのお方が、私の同盟でありケント伯爵領の領主である『レッド・ロウェイン伯爵』だ」


 俺は何の反応も見せずに、何の表情も浮かべずに、『オフィーリア・ウェンデル』の方を見つめた。オフィーリアは自分の白いドレスのスカートの端を持ち……丁寧な態度で頭を下げてから、俺を見つめる。


「お初にお目にかかります。私は……」


 俺とオフィーリアの目が合った瞬間……彼女は急に口を噤む。そして……そのまま倒れてしまう。


「お、お嬢様!?」


 メイドたちが慌ててオフィーリアを支える。だがオフィーリアはもう完全に気を失っている。


「オフィーリアを連れていけ」


 ウェンデル公爵が冷静な声で指示すると、メイドたちはオフィーリアを支えたまま食堂から出る。


「……これはどういうことだ、ウェンデル公爵?」


 俺が質問すると、ウェンデル公爵が眉間にシワを寄せる。


「申し訳ない、ロウェイン伯爵。娘が少し緊張しすぎたようだ」


「緊張だと?」


「ああ、心配しないでくれたまえ。娘は至って健康だ。ただ内気なだけだ」


 もちろん俺はウェンデル公爵の説明を信じなかった。


 女の子が俺を見て恐怖を抱くのは、ある意味自然なことだ。何しろ俺は並外れた巨体と赤い肌を持っていて、『赤い化け物』とか『悪魔』とか呼ばれているのだ。戦場慣れした兵士たちも俺を見て怯えるんだから、普通の女の子が泣き出したり逃げ出したりするのは別に珍しくない。


 だが……流石に『気を失う女の子』は滅多にない。しかもオフィーリアの場合、もう俺のことを知っていたはずだ。ある程度覚悟はしていたはずだ。驚くくらいならまだしも……気を失うのは普通じゃない。


 それに何よりも……ウェンデル公爵の態度が気になる。


「ウェンデル公爵」


「何だ」


「いいのか? 娘の状態を確認しなくても」


「言ったはずだ。問題ない」


 ウェンデル公爵が無表情で答えた。


 自分の娘が急に倒れたのに、慌てたり驚いたりもしない。ウェンデル公爵は『面倒くさいトラブルが起きた』くらいの態度だ。実の父なのに……これは普通じゃない。


「時間も遅いし、今日はこの辺にしよう」


 ウェンデル公爵が席から立ち上がる。


「必要なものがあるなら、メイドたちに言ってくれたまえ」


「分かった」


 俺も席から立ち上がった。それで今日の会談は終わった。


---


 俺はメイドたちに頼んで、自室で食事を済ませた。そして付属のシャワー室で体を洗った後、ベッドに仰向けになった。


 柔らかいベッドは久しぶりだ。ここ最近、ずっと軍事要塞や野営地で生活したのだ。俺はどこでもすぐ眠れる体質だけど、柔らかいベッドの感触が嫌いなわけではない。


 ふとさっきの光景を思い出した。オフィーリアはどうして気を失ったんだろうか? ウェンデル公爵はどうして娘の心配をしないんだろうか?


 ま、今の時点では何とも言えない。何しろ、俺はオフィーリアについてあまり知らない。どういう人間なのかも……分からない。


「ボス」


 ノックの音と共に、部屋の外から声が聞こえてきた。レイモンの声だ。俺はベッドから起き上がって、扉を開けた。


「遅い時間に、申し訳ございません」


 レイモンが頭を下げてから、報告を始める。


「城内の様子を探りましたが、怪しい気配はありませんでした」


「組織員たちはどうしているんだ?」


「みんな兵舎で休憩を取っています」


「そうか」


 俺は頷いてから、レイモンを見つめた。


「レイモン」


「はい」


「今回の会談が終わったら、組織員たちを連れて南の都市に帰還してくれ。エリザさんとエイミが待っているんだろう?」


「ありがとうございます、ボス」


 レイモンが頭を下げる。俺はちょっと間を置いてから、また口を開いた。


「そう言えば……エイミももう1歳か」


「はい」


 レイモンが笑顔を見せる。娘を思う父親の笑顔だ。それを見ていると、こっちの心も和む。


「最近は簡単な言葉が喋れるようになりました。『パパ』とか『ママ』とか」


「それは素晴らしいな」


「1歳だから普通のことですけど……時々驚きます」


 レイモンが嬉しそうに笑った。


 そう、これが普通だ。娘のいる父の普通の態度だ。俺はそれを確認して、少し安心した。

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