第301話.役目
しばらくの間、沈黙が流れた。
天幕の外から虫の鳴き声が聞こえてくる中、俺とドロシーは見つめ合った。もちろん2人の間に色っぽい雰囲気は一切無い。むしろ戦場にいるような緊張感が漂う。
「女神教の経典の中には……」
ふとドロシーが口を開いた。
「あらゆる幻獣の伝承が書かれている」
「幻獣か」
「現実には存在しない化け物や妖怪、魔物などのことだ」
ドロシーは冷静な声で説明を続ける。
「そして幻獣の中でも、赤竜は特に危険な存在だそうだ。巨大な胴体は真っ赤な鱗に包まれ、4本の足と2本の翼と1本の尾を持ち、頭には角が生えていて、口から炎を吐く。凶暴で強大で、天地をも喰らい尽くす残酷な化け物……それが『赤竜』に関する一般的な描写だ」
「確かにとんでもない化け物だな」
俺は苦笑した。そしてある日見た夢を思い出した。
夢の中で俺は、ドロシーが説明した通りの赤竜と対峙した。不思議なくらいに臨場感のある夢だった。
「しかし……いくら凶暴な化け物でも、結局架空の存在なんだろう?」
「まあな。女神教の経典でも、幻獣に関する伝承はあくまでも説話……また何かの比喩だと説明している。だが『異端の経典』は違う」
ドロシーの綺麗な瞳が鋭く輝く。
「『異端の経典』によると、赤竜はただの幻獣ではない。地獄を司る悪魔の化身、または悪魔そのものであり……人の世に地獄を具現化する存在だそうだ」
「へぇ、偉いやつなんだな」
「しかも赤竜は……もう何度も人の世に降臨したことがあるらしい。人間の形を借りて、な」
ドロシーが俺を直視してきたが、俺は何の反応も見せなかった。
「……そして赤竜に関する最後の文献が『赤竜降臨の予言』だ」
ドロシーは自分の懐から革水筒を取り出して、水を1口飲んだ後、話を再開する。
「今から約100年前、ある男が異端の指導者を努めていた。その男は普段から様々な予言をし、それが的中したせいで『預言者』と呼ばれていたそうだ」
異端の率いた預言者の男……これもヘレンさんから聞いた話だ。
「預言者は長い逃亡生活の途中、過労と病で死んだそうだが……死ぬ前に最後の予言を残した」
「それが『赤竜降臨の予言』なんだな」
「そうだ」
ドロシーは少し間を置いてから、再び口を開く。
「『100年くらい後、この王国に赤竜が降臨する。彼は人の形をしているが、人ではない。自分に立ち塞がる者を喰らい尽くす悪魔だ。しかし赤竜に対抗してはならん。赤竜が自分の役目を終えるまで、誰にも彼を倒すことはできない』……という予言だったらしい」
「役目だと……?」
俺は首を傾げた。
「赤竜にも役目があるのか?」
「そうみたいだ」
ドロシーは軽く頷いた。
「『異端の経典』によると……赤竜が人の世に降臨するためには、人の世が憎悪と怒りに満ちていなければならないらしい」
「憎悪と怒りか」
「ああ、赤竜は人間の憎悪と怒りを自分の力にすると言われているからな。これを言い換えれば……赤竜は『人々の憎悪と怒りを代弁する役目』を持っているとも言える」
「ほぉ」
俺は自分の顎に手を当てた。
「つまり赤竜がその役目を終えるまでは、誰もやつに勝てない……まさに無敵ということか」
「『異端の経典』にはそう書かれている」
「面白い経典だな」
俺は笑った。
「で、結局あんたは……俺がその赤竜だと思っているのか?」
「私だって……こんな荒唐無稽な話を丸呑みするつもりはない。でも……」
ドロシーが視線を落とす。
「王都でお前の噂を聞いた時は、ただ面白い偶然だと思った。でもお前の戦いを間近で目撃した今は……不安を感じている」
ドロシーは顔を上げて、再び俺を直視する。
「王国最大の権力者である公爵が、2人も集まって攻撃したのに……お前を倒せなかった。いや、倒すどころか……ちゃんとした被害を与えることすらできなかった。お前の力は、もう人間にはどうしようもないのかもしれない」
「いやいやいや」
俺はまた笑ってしまった。
「第一、俺は今まで必死に戦ってきた。何度も命を掛けてきた。もし俺が本当に『赤竜』なら、ここまで必死になる必要があると思うのか?」
「それは……」
「それにさ、赤竜降臨の予言は『異端の経典』に書かれているんだろう? 騎士のあんたが異端の話を信じてもいいのか?」
「……私は別に女神教の信者ではない」
ドロシーが冷静な声で答えた。
「私にとって、『正統か異端か』は別に大事ではない。『真実か否か』……それが大事だ」
「なるほど、そこは現実的なんだな」
俺は苦笑した。そして理解した。
3年ぶりに再開した日から、ドロシーはどことなく俺のことを警戒していた。真面目に王国の未来を案じている彼女としては、不安だったんだろう。俺が……予言された赤竜かもしれないと。
「……これだけは言っておく」
俺は無表情に戻って、ドロシーと見つめ合った。
「もし俺が本当に赤竜だとしても……俺の生き方は俺が決める」
「どういう意味だ?」
「女神教の話が本当なら、赤竜の生き方や役目も結局女神が決めたものなんだろう? 聖職者たちは、女神がこの世の全てを決めたんだと言っているからな」
俺は座ったまま背伸びしてから、話を続けた。
「女神だろうがなんだろうが、他人が勝手に決めた生き方に従うつもりはない。俺はあくまでも俺の意志で動く」
「ふっ……お前らしい答えだな」
ドロシーが微かに笑い、俺も笑った。
「それに、俺は無意味な破壊と殺戮は好きじゃない。俺が好きなのは、強敵との戦いだ」
俺の答えを聞いて、ドロシーは何も言わなかった。ただ俺の顔を凝視するだけだ。
「……分かった」
やがてドロシーが席から立ち上がる。
「夜中に邪魔して悪かった。では、私はこれで」
そう言い残して、ドロシーは俺の天幕を出た。俺は仰向けになって、天幕の天井を見つめた。
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あの夜以来、ドロシーは『赤竜』のことを口にしなかった。俺もこれ以上その話をする必要はないと思った。
俺と『レッドの組織』の6人、ドロシー、そして30人の騎兵たちは……涼しい秋の風に当たりながら、北への道を走り続けた。
北へ進めば進むほど、道路の状態が良くなっていく。ウェンデル公爵がしっかり管理しているからなんだろう。そして出発から3日後……。
「ボス!」
茶色の軍馬に乗って走っていたレイモンが、急に声を上げる。
「向こうに、見えました!」
「ああ、俺も見たよ」
俺は頷いた。地平線の向こうから……青色の城が見えてきたのだ。あれが……グレーアム男爵領の本城に違いない。ついに目的地に辿り着いたのだ。




