第300話.赤竜……
10月中旬の夜は、なかなか寒い。俺は天幕に座ってそう感じた。
『南の都市』にいた時とは違う。あの時は、11月にもそこまで寒くなかった。市民たちも短い服を着てパーティーを開いたりしたくらいだ。しかしここは『王都地域』だ。 南の都市に比べて気温が低い。
こんな寒い夜に野営をしていると、時々子供の頃を思い出してしまう。5歳の頃の俺は……飢えに苦しみながら、潰れた教会の冷たい床で寝た。本当によくも生き残ったもんだ。
他の孤児たちは、潰れた教会に入って来なかった。天罰が下るとか何とか、そう言いながら恐れていた。でも俺にはどうでもよかった。天罰という、存在するかしないか分からないものより……生き残ることの方が大事だった。
そんな底辺の中の底辺だった俺が、今は伯爵だ。数十の側近たちと数千の兵士たち、数十万の市民たちを率いている。王国で1番偉い公爵たちを撃破し、天下を掴めようとしている。こんなこと……誰にも予想できなかっただろう。
「ふ……」
俺は雑念を追い払い、ランタンの光に頼って地図を見つめた。このまま北へ進むと、3日後にはグレーアム男爵領に辿り着く。あそこでウェンデル公爵と会談を……。
「レッド」
天幕の外から女性の声が聞こえてきた。今この野営地で、俺をそう呼べる女性は1人だけだ。
「少し話したいことがある。時間はいいか?」
「ああ、入ってくれ」
俺が答えると、金髪の女性が天幕の中に入ってくる。ウェンデル公爵の配下の女騎士、ドロシーだ。
「うっしゃ」
俺は少し動いて、ドロシーが座れるようにした。ドロシーは早速敷物の上に座って俺を見つめる。
「話したいこととは何だ?」
俺はそう聞いたが……ドロシーは答えなかった。ただ俺をじっと見つめながら、何かを考えていた。いつも冷徹で事務的な彼女としては珍しい行動だ。
小さい簡易天幕の中だから、俺とドロシーは1メートルも離れていない。互いの息がはっきりと聞こえる距離だ。こんな近くで美人と見つめ合っているんだから、少し変な雰囲気になってもおかしくないけど……俺とドロシーの間には、冷たい空気が流れているだけだ。
「……レッド」
ドロシーが無表情で口を開いた。
「お前は自分自身のことをどう思っている?」
「……何?」
俺は眉をひそめた。
「どういう意味だ?」
「自分自身が特別な存在だと思ったことがあるか?」
「特別な存在って……」
俺は思わず笑ってしまった。
「そういうことについては、あまり深く考えたことがない」
「深く考えたことがない……と?」
「ああ」
軽く頷いてから、俺は話を続けた。
「俺は外見が明らかに人と違うし、本当に化け物なのかもしれない。でもそんなことは、深く考えたところでどうしようもないだろう? 結論が出るわけでもないし、時間の無駄だと思う」
「お前らしいな」
ドロシーは微かに笑ってから、また無表情に戻って口を開く。
「レッド、お前もまだ覚えているだろうな? 3年前の……『天使の涙』の事件を」
「もちろん覚えているさ」
俺は腕を組んだ。
「3年前……俺とあんたが協力し、南の都市に薬物『天使の涙』を広げていた『黒幕』を討伐した事件だ。忘れるわけないさ」
「ふっ……そうだな。手強い戦いだった」
ドロシーの顔が少しだけ緩くなる。彼女もあの時のことを思い浮かべているんだろう。
「あの時、お前は事件の黒幕である『アンセル』を倒した。それで事件は解決され、私は王都に戻った」
「どうして今更あの事件のことを話すんだ? 何か新しい事実でも分かったのか?」
俺が聞くと、ドロシーは少し間を置いてから話を続ける。
「王都に戻った私は、アンセルの身元を調査した。他に共犯者がいるかもしれないからな」
「なるほど」
アンセルの組織は、一介の犯罪組織としては規模が大きすぎた。他に共犯者がいてもおかしくない。
「やつは確か……半分貴族だと聞いたけど」
「そうだ。アンセルはある貴族男性と平民女性の間の庶子だと知られている。それで王都のアカデミーに入学することができた。問題は……」
ドロシーが顔をしかめる。
「問題は……アンセルの父親が誰なのか、その正体が分からないということだ」
「何?」
俺は首を傾げた。
「やつは父親の力を借りてアカデミーに入学したんだろう? だったら父親の正体が分からないはずがないじゃないか」
「まだ生きていた頃のアンセルが、もう手を尽くしておいたのだ。アンセルの入学に関する書類は火事で燃やされ、彼の身元について証言してくれる人も既に殺されていた」
「『夜の狩人』の仕業か」
俺は頷いた。
アンセルは『夜の狩人』の一員である『フクロウ』と『白蛇』を雇い、自分の正体に関する手掛かりを全て隠滅した。アカデミーの書類や証人も、彼らの手によってもう隠滅されていたのだ。
ところで、その後……俺が『夜の狩人』の頭領になってしまった。このことについては、まだドロシーには話せない。何しろ『夜の狩人』は、この王国からすれば重犯罪者たちだ。もちろん『夜の狩人』はもう『暗殺集団』ではなく『防諜機関』だけど……そういった事情をドロシーが理解してくれるかどうかは未知数だ。まだ話すのは早計だ。
「じゃ、アンセルの身元に関する手掛かりは掴めなかったのか?」
「いや……1つだけ、手掛かりがある」
ドロシーの美しい顔から執念が感じられる。
「アンセルの本拠地で見つかった記録から、彼の過去をある程度把握することができた」
「王都から追放されたとか、そういう話だったな」
「そうだ」
ドロシーは軽く深呼吸した後、説明を続ける。
「アカデミーに入学したアンセルは、3年後、危険な人体実験を行ったことが発覚された。どういう実験なのかは、今の時点では分かりにくいが……たぶん薬物に関する実験だったと思われる」
俺はドロシーの説明に耳を傾けた。
「それで結局アンセルは王都から追放された。しかし彼はその後、ある団体から受け入れられたみたいだ」
「ある団体……か」
「私はそれが『女神教の異端』だと推測している」
ドロシーが強い口調で言った。
「レッド、お前と私が究明した通り……アンセルは『女神教の異端』が作った『隠し通路』を使っていた。それに……異端の中には、医学や薬学に関して専門的な知識を持っている者もいると聞いた。もしかしたらアンセルは、異端からあらゆる知識を学んだかもしれない」
ドロシーは鋭い視線で俺を見つめる。
「つまり私は……『女神教の異端』がアンセルの共犯者だと推測した」
「……それはたぶん違う」
俺がそう言うと、ドロシーが眉をひそめる。
「どういう意味だ、レッド?」
「実はな……俺は『女神教の異端』の人に会ったことがあるんだ」
「何……?」
ドロシーが目を丸くする。
「それは本当か?」
「ああ、本当さ。そして俺はその人からアンセルに関して聞いた」
アンセルの事件が解決した後……俺は『ヘレン』という女性に会った。『女神教の異端』に属する彼女は、俺にアンセルに関する情報を話してくれた。
「あんたの推測通り、アンセルは王都から追放された後『女神教の異端』と接触した。そして異端から知識を盗み、脱走したらしい」
「脱走……?」
「それで異端の方もアンセルを追跡したが、やつに攻撃されたそうだ。この話が真実だとすると、アンセルと異端は共犯の関係ではない。むしろ敵対の関係だ」
「信じられないな」
ドロシーが冷たく言った。
「もしお前が会ったのが本当に『異端の人間』だったとしても……その話を全部信用することはできない」
「それは……否定できないな」
ヘレンさんが嘘をついているようには見えなかった。でも……彼女の言葉が全部真実とは断言できない。
「レッド……お前が会った『異端の人間』が今どこにいるのか、知っているか?」
「いや、知らない」
俺は嘘をついた。何故なら……『女神教の異端』も、この王国からすれば重犯罪者たちだからだ。ドロシーに彼らの居場所を話したら、間違いなく戦いが起こる。
正直に言って、『女神教の異端』がどうなろうと俺の知ったことではない。でも今、俺の家族たちが……『鼠の爺』と『アイリン』が『女神教の異端』と一緒にいる。王国の東北の山で、俺を待っている。
2人の安全のためにも、ドロシーに真実を話すわけにはいかない。
「……そうか」
ドロシーは一瞬残念そうな顔をしたが、すぐ無表情に戻る。
「とにかく、私は『女神教の異端』がアンセルの共犯者だと推測した。だから上層部の許可を得て、異端に関する資料を調べた」
「収穫はあったのか?」
「いや、残念だけど……資料はどれも古すぎて、現在の異端に関する情報を掴むことはできなかった」
「そうか、残念だな」
俺は内心安堵した。
「しかし……」
ドロシーの目つきが鋭くなる。
「しかし『女神教の異端』に関する資料の中で、興味深いものを見つけた」
「興味深いもの?」
「ああ……『赤竜降臨の予言』だ」
ドロシーと俺の視線がぶつかった。




