第298話.怯える必要なんてないさ
午後1時……書類仕事が大体終わり、俺は昼食を取ることにした。
執務室を出て階段を降り、1階に行く。そして1階の東の廊下を少し歩くと、広い部屋がある。主塔で勤務する兵士のための食堂だ。
食堂では担当の兵士たちが昼食を配っていた。といっても、もう1時だからほとんどの兵士たちは食事を終えたし……食堂の中は閑散としている。
「総大将」
1人の兵士が近づいてきて、俺に大きなお皿を渡す。お皿には堅パンや干し肉、水の入ったコップなどが載せられている。俺は「ありがとう」と言ってから、近くのテーブルに座って食事を始めた。
軍事要塞での食事って、お世辞にも美味しいとは言えない。でも量は十分だ。何しろこの要塞には3千の兵力が1年以上耐えられる食料が備蓄されている。
ところで堅パンを1つ食べ終えた時、後ろから「レッド様」と呼ぶ声がした。振り向いたら……2人の美しい少女の姿が見えた。
「お前たち……」
それは俺のもう1人の婚約者であるシルヴィアと、『金の魔女』カーディア女伯爵の娘であるデイナだった。
2人は担当の兵士からお皿をもらってから、俺に近づく。
「レッド様、ご同席させて頂いてもよろしいでしょうか?」
シルヴィアが笑顔で聞いてきた。俺が「もちろんだ」と答えると、シルヴィアとデイナは俺の真正面に座って食事を始める。
シルヴィアとデイナは、仕事用の地味なドレスを着ていた。しかしそれでも2人の気品と美貌は隠せない。まるで小動物みたいに可愛いシルヴィアと、傲慢な態度だけど綺麗なデイナは、2人とも美少女で……いい対照だ。
そう言えば……俺は何度かこの食堂で昼食を取ったけど、この2人の姿を見るのは今日が初めてだ。この2人は、いつも少し遅い時間に昼食を取っているんだろうか。
「お前たちは、いつもこの時間に昼食を取るのか?」
俺が質問すると、シルヴィアが頷く。
「はい、大体午後1時に昼食を取っています」
「どうしてだ?」
「それは私のせいです」
冷たく答えたのは、デイナの方だった。
「12時だと、食堂に人が……男性兵士が多すぎる。だからわざと1時に食べるのです」
「なるほど」
俺は頷いた。
デイナはいわゆる『男性恐怖症』だ。昔の事件がきっかけで、男性を畏れるようになり……普段は我慢しているけど、なるべく男性の多い場所は避けている。
不思議なことに、俺にはデイナの男性恐怖症が適用されないらしい。彼女が俺のことを『男性』じゃなく『化け物』と認識しているからだろう。
「それにしても……デイナも軍隊の食事に慣れてきたみたいだな」
「仕方ありません。慣れるしかありませんから」
デイナは不満げな顔でそう言うと、シルヴィアが笑顔を見せる。
シルヴィアとデイナは2人とも貴族のお嬢さんだけど、育ち環境はまったく違う。シルヴィアは名ばかりの貴族で、裕福な生活とは無縁だったけど……デイナは権力者の長女として贅沢な生活をしていた。同じ貴族でも、共通点はあまり無いわけだ。
それなのに、2人は仲良くしている。もう親友と言ってもいい。たぶんシルヴィアの包容力のおかげなんだろう。
「俺は軍隊の食事も嫌いじゃないけど……たまにはシルヴィアの手料理が食べたいな」
俺がそう言うと、シルヴィアの顔が明るくなる。
「かしこまりました。いい食材が購入できたら、ぜひとも腕を披露させて頂きます」
「そいつは楽しみだな」
シルヴィアはの料理の腕は確かだ。昨年、皆で旅行した時……シルヴィアは簡単な食材を使って、まるで魔法のように美味しいシチューを作った。
「なるほど……」
デイナが微かな笑顔で呟く。
「シルヴィアさんって、男から愛される方法を知っていますね」
「デ、デイナさん……?」
シルヴィアが慌てて赤面になるが、デイナは淡々と話を続ける。
「私には到底真似できない。正直に言えば、あまり真似する気もありませんけど」
「別にいいじゃないか」
俺はニヤリとした。
「人それぞれ長所があるんだ。無理矢理他人を真似する必要はない」
「さあ……? 本当にそうなんでしょうか?」
デイナはいたずらっぽい笑顔を見せる。
それから俺たちは、軽い雑談をしながら食事を続けた。以前にもそう思ったけど……デイナには少し毒舌家の器質がある。母似なんだろうか。
やがて食事が終わり、俺たちは一緒に食堂を出て廊下を歩いた。
「レッド様」
廊下の途中、デイナがそっと俺に近寄って……シルヴィアには聞かれないように小さな声で話す。
「2人で話したいことがあります。夕べ、私の部屋で」
話……? 俺はデイナを見つめたが、彼女は何もなかったような顔をしている。
「まあ、分かった」
俺は苦笑してから、小さな声で答えた。
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夕べ、俺は女兵士たちの兵舎に行き……1番奥の部屋を訪ねた。
「入ってください」
扉をノックすると、女性の声が聞こえてきた。デイナの声だ。俺は扉を開けて部屋に入った。するとあまり広くない空間と素朴な家具が視野に入ってきた。
「レッド様」
デイナはベッドに腰掛けたまま、余裕のある態度で俺を眺める。
「どうぞ椅子に座ってください」
「ああ」
俺はベッドの近くの椅子に座って、デイナを見つめた。
デイナは灰色のドレスを着ていた。素朴なドレスだが……逆にそれが彼女の美顔と透明な肌を強調する。流石クレイン地方一の美少女だ。
「……やっと戦闘が終わりましたね」
デイナが呟いた。
「こんなに近くで戦闘を目撃するなんて、私には初めての経験です」
「そうだろうな」
デイナはついこの間まで貴族の箱入り娘だった。軍事要塞で戦闘を目撃する機会なんてなかったはずだ。
「で、戦闘を目撃した感想はどうだ? 怖かったか?」
俺がそう聞くと、デイナは微かに笑う。
「正直に話せば、怖くて死にそうでした。もしシルヴィアさんがいなかったら、耐えられなかったはずです」
「ああ見えてもシルヴィアは大胆だからな。いざという時は本当に頼りになる人だ」
「同意します」
デイナは頷いてから、綺麗な瞳で俺をじっと見つめる。
「でも……どうやら噂は本当だったみたいですね」
「噂?」
「はい、レッド様が悪魔みたいに強いという噂」
デイナが微かに笑う。
「私は戦争についてはあまりよく分かりませんが……9倍の敵軍に勝つなんて、普通はあり得ないことではありませんか?」
「さあな」
俺は肩をすくめた。
「公爵たちは俺のことをあまりにも舐めていた。それに俺の側近たちと兵士たちは、敵の大軍にも怯まず勇敢に戦ってくれた。俺が勝ったのはそのおかげだ」
「部下たちが勇敢に戦うかどうかは、指導者の力量にかかっていると思いますけどね」
デイナは嘲笑うような顔でそう言った。俺は苦笑するしかなかった。
「雑談はここまでにして、本題に入ろう。話したいこととは何だ?」
俺の質問に、デイナは少し間をおいてから口を開く。
「実は……ここ最近、私には疑問があります」
「疑問?」
「はい。どうして解決できない疑問です。でもレッド様なら……解決できるかもしれないと思いまして」
俺は眉をひそめた。
「どういう疑問なんだ? 言ってみろ」
「それは……お母様に対する疑問です」
デイナの母は『金の魔女』カーディア女伯爵だ。クレイン地方の支配者で、40代の女性だが今もクレイン地方一の美人と呼ばれている。
「……レッド様と同行するようになってから、私は自分の人生についていろいろ考えてみました」
「そうか」
「それである日……突然気付きました。お母様が……私のことをとても嫌っていることに」
デイナの美しい顔が暗くなる。
「最初は私が無能だから……学問も何もできないから、お母様が私のことを嫌っているんだと思いました。しかし……それだけでは説明がつかない。もっと……根本的な理由があるに違いありません」
デイナの瞳が涙に濡れる。
「何度も何度も考えましたけど、私にはその根本的な理由が何なのか分かりません。だから……」
「だから俺に聞くのか」
「レッド様はお母様と直接話したことがある。それに……信頼できる。だからどうしても相談したくて……」
デイナは俺を見上げる。もう彼女は、ついさっきまでの華麗な美少女ではない。実の母に捨てられた娘だ。
「……残念だけど」
俺は首を横に降った。
「残念だけど、俺だって『金の魔女』の心理を全部把握しているわけではない」
「……そうですか」
「たが」
俺はデイナの顔を直視した。
「心当たりならある」
「心当たり……?」
「ああ」
少し間を置いてから、俺は説明を始めた。
「お前の母であるカーディア女伯爵は、今もクレイン地方一の美人と呼ばれている。俺も彼女と何回か話したけど、とても40代とは思えなかった」
「まあ、そうですね」
デイナが力なく笑う。
「私と一緒にいると、母娘ではなく姉妹に見えますからね」
「その美貌こそが……カーディア女伯爵の武器だ」
「……確かに」
デイナが目を細める。俺は淡々として口調で説明を続けた。
「カーディア女伯爵は今まで多くの男を美貌で魅了してきた。そして男たちを利用して、自分の権力を拡大してきた。言葉通り、自分の美貌を武器にしたわけだ」
カーディア女伯爵は、俺も自分の男にしようとした。ある意味1番恐ろしい敵だった。
「しかし……『金の魔女』の美貌だって、決して永遠ではない。いずれその武器を使えなくなる時が来る。その事実はカーディア女伯爵本人が最もよく知っているはずだ」
「それじゃ、もしかして……」
「ああ、カーディア女伯爵は……実の娘であるお前を嫉妬しているのかもしれない」
俺の言葉を聞いて、デイナは衝撃を受けた顔になる。
「お、お母様が……私のことを?」
「お前も自分がどう呼ばれているか知っているだろう? 『クレイン地方一の美少女』……つまり、時が経てば『クレイン地方一の美人』はお前だ」
「私のことを……嫉妬……」
デイナが視線を落とす。俺はしばらく彼女を眺めてから、また口を開いた。
「もちろんこれはあくまで俺の推測だ。真実はたぶん誰にも分からない。下手したら、カーディア女伯爵本人も分からないかもしれない」
人間は時々、自分自身の感情も分からなくなる。俺もそうだ。
「大事なのは、お前が母の意志に振り回されずに生きることだと思う。『金の魔女』だって結局1人の人間に過ぎない。怯える必要なんかないさ」
デイナは何も言わなかった。
今のデイナには、1人で考える時間が必要だろう。俺はそう判断し、そっと部屋から出た。




