第275話.激しい雨
デイン男爵領での盗賊討伐を終えて……俺の軍隊は東への進軍を再開した。
3000人の兵士が道路を歩き、山を越え、川を渡る。赤竜の旗の下で、隊列を乱すことなく進む。もう本拠地から相当遠く離れたのに、兵士たちは高い士気と規律を維持している。他人の領地でも大きな問題を起こさずに進軍を続けている。
もちろん3000人もいるから、些細な事故が起こることはある。作業中に兵士が怪我をするとか、進軍中に体調を崩す兵士が出るとか、野営地に野生動物が入ってくるとか……そういった事故は軍隊の宿命みたいなものだ。完璧に避けることはできない。
だからこそ事故が起こった後の対応が大事になる。特に今は本拠地から遠く離れているから、予備人員にも補給物資にも余裕がない。こんな状況で事故による戦闘力の損失を抑えるためには、指揮官たちの的確な対応が必須だ。
今のところは順調だ。カレンとトムとシェラは各々の役割を十二分に果たしている。些細な事故ならあの3人が上手く対応してくれているから、総大将の俺が気にするまでもない。
だが……8月28日、総大将の俺が気にするべき事態が起こる。
「雨か」
ケールに乗って道路を歩いていた俺は、灰色の空を見つめながらそう呟いた。
正午にいきなり空が暗くなり、午後から雨が降ってきたのだ。しかも雨はどんどん強くなっていて、すぐには止みそうにない。これでは進軍に支障が出る。
「トム!」
俺が呼ぶと、トムが白馬に乗って俺に近寄る。
「お呼びですか!」
「進軍を停止する」
俺は南の方を指差した。
「地図によると、ここから南に森がある。これからあそこに移動して野営地を作る。カレンとシェラにも知らせておけ」
「はっ!」
トムは素早く動いて、士官たちに俺の指示を伝える。それで1500人の本隊は進軍方向を変え、南に向かう。そして俺の動きをカレンの先鋒部隊とシェラの後方部隊に伝えるために、伝令兵が馬に乗って走り出す。
30分くらい後、俺の本隊は森に辿り着いた。雨は強くなるばかりだ。今年の夏は旱魃の可能性があるほどの暑さなのに、いきなりこんな大雨が降ってくるとは。やっぱり天気というものを完璧に予測することはできない。俺は内心舌打ちした。
ま、気まぐれな天気に足止めを食らうのは仕方ない。余計な被害が出ないように迅速に対応するべきだ。俺の兵士たちは早速森の中で野営地を構築し始めた。
まず周りの木々を利用して大きな天幕を張り、食料庫にする。そして食料庫の周りに兵士たちの野営天幕を設置する。それで野営地の大体の形が出来る。
今頃カレンの先鋒部隊とシェラの後方部隊も野営地の構築に急いでいるはずだ。雨の勢いが更に強くなっているけど……彼女たちなら上手く対処できるだろう。
野営地の完成後……俺は指揮官用の天幕に入って、タオルで顔と首筋を拭いた。俺はこれだけでも問題ないけど、兵士たちの中には体調を崩す人が出てくるかもしれない。
それから俺はテーブルの上に地図を広げて、しばらく眺めた。進軍計画を練り直す必要がある。
「レッド君」
妖艶な声と共に、細い体型の女性が天幕に入ってきた。白猫だ。
白猫の綺麗な顔は雨に濡れていた。俺は新しいタオルを白猫に渡した。
「ありがとう」
白猫はタオルで自分の顔と首筋を拭いた。俺がつい視線をそらしてしまうと、白猫は「ふふふ」と笑う。
「時々可愛いよね、レッド君って」
「……何しにきた? 白猫」
「支援物資が到着したわ」
白猫は俺にタオルを返して、話を続ける。
「デイン男爵からの支援物資よ」
「ブランドンからか」
「うん」
白猫が意味ありげな眼差しで俺を見つめる。
「念の為、私とトムちゃんが調査したけど……支援物資に異常はなかったわ」
「そうか」
俺が頷くと、白猫は俺に1歩近づく。
「不思議なことだよね。先日はレッド君のことを殺そうとしたのに、支援物資はちゃんと送って来るなんて」
「やつも頭では分かっているのさ。俺に協力するのが1番だということを」
俺の答えを聞いて、白猫は腕組みをする。
「頭では分かっていても、心では納得できなかった。だから兄の仇であるレッド君のことを殺そうとしたんだね」
「そんなとこだろうな」
しばらく沈黙が流れた。天幕の外から激しい雨の音が聞こえてくるだけだった。
「……本当の家族って、そういうものかしら」
ふと白猫が言った。
「レッド君はもう気付いているはずだけど、黒猫ちゃんと私は……実の姉妹じゃないわ」
「そうか」
やっぱりそうだったのか。
歳の差はともかく、2人はあまり似ていない。白猫は長身で鋭い印象の美人で、黒猫は小柄で可愛い少女だ。
「私も黒猫ちゃんも、互いを姉妹だと思ってはいるけど……結局本当の姉妹ではないかもね。だって、血の繋がりがないんだもの」
白猫は寂しい顔でそう言った。普段の彼女からは想像もできない表情だ。
「私……最近わざと黒猫ちゃんのことを避けているの。あの子が自立するためには、こうするのが1番だと思ってね。でもこれって……結構冷たい仕打ちだよね」
「そうかもな」
「デイン男爵は……兄の仇を取るために、絶対に勝てない相手に戦いを挑んだのにね。それに対して私は……黒猫ちゃんのことを冷静に見ている。これはやっぱり本当の家族ではないから……かな」
「それは違うさ」
俺は首を横に振った。
「熱くなるだけが、家族のためではない。時には冷静な目で見る必要もある」
「そう?」
「ああ、それに……これは血が繋がっているかいないかの問題ではない。互いを大事に思っているかいないかの問題だ」
俺は白猫の顔を直視した。
「もう忘れたのか? あんたと黒猫が俺に戦いを挑んだ時……2人は自分の命よりも互いの命を守ろうとした。紛れもなく互いを大事に思っている証拠だ」
白猫が視線を落とす。
「血が繋がっていても、互いを大事に思っていない場合もある。それに比べたら、あんたと黒猫は立派な家族だ」
「……ありがとう」
白猫は顔に微かな笑みを浮かべる。
「レッド君は強いわね、本当に。体だけではなく心までも」
「さあな」
俺は肩をすくめた。
「もしあんたの言う通りだとしても、それは俺の強さじゃない。俺の家族の強さだ」
「レッド君の……家族」
「もうずいぶん会っていないけどな」
再び沈黙が流れた。俺と白猫は一緒に雨の音を聞いた。
「私……」
数秒後、白猫が口を開く。
「私、実はね」
俺は口を噤んで白猫の言葉を待った。
「……ごめん」
白猫が首を横に振る。
「まだちょっと心の整理が必要みたい」
「そうか、分かった」
俺は頷いた。
「話したいことがあるなら、いつでも来い。聞くから」
「ありがとう」
白猫は安心したように笑顔を見せた。そして俺の天幕から出ていった。




