第268話.正真正銘の人間
俺の軍隊がヘルマン要塞に駐屯してから数日が経ち……やがて8月になった。
俺は要塞の執務室の窓辺に立ち、外を眺めた。暑い夏の日差しが照らしている中、兵士たちが水の入った大きな樽を手押し車に載せている。
「やっぱり今年の夏は特に暑いな」
俺がそう呟くと、隣で筋肉質の女性が頷く。
「はい、このまま進軍するのは得策ではないと思います」
「やっぱりカレンもそう思うのか」
俺はカレンの方を見つめた。成人男性を軽く超える身長と筋肉を持っているカレンは、俺が今まで見てきて女戦士の中で最強だ。しかも彼女は武勇に優れているだけではない。『錆びない剣の傭兵団』のリーダーとして長年活動してきたおかげで、軍隊の統率にも優れている。
「実は10年くらい前、まだ『錆びない剣の傭兵団』が小規模だった時……南方大陸の領主に雇われたことがあります」
「ほぉ、そうだったのか」
「はい。あそこはこの王国より気温が高いから、進軍も戦闘も大変でした。今年の夏は、あの頃を思い出させますね」
「なるほど」
俺は腕を組んで頷いた。
「暑さに備えるための訓練もやったし、無理して進むこともできるけど……ここは少し待った方が良さそうだ」
「食料にもまだ余裕がありますから、急ぐ必要はないかと」
カレンの言った通り食料は十分だ。先日、『金の魔女』カーディア女伯爵が更に大量の食料を支援してくれたのだ。
表面的には、カーディア女伯爵の長女であるデイナは『俺の女』になった。つまり俺とカーディア女伯爵の協力関係は『一応』強固になったわけだ。その証として、女伯爵は色んな支援を約束してくれた。
だがいつまでもここに止まっているわけにはいかない。来週には進軍を再開せねばならない。
「それにしても……南方大陸か」
俺はカレンの顔を見つめた。
「ここからだと結構遠いんだろう?」
「はい」
カレンが微かな笑顔で頷く。
「港湾都市『ハベルン』で船に乗り、1ヶ月くらい航海すれば中継地点の島に到着します。そこから更に1ヶ月くらい航海すれば、南方大陸です」
「本当に遠いな」
あまり海路で移動したことがない俺としては、海の上で2ヶ月も過ごすということが不思議に思える。ま、熟練の船員たちは半年も航海することもあると聞いたけど。
「レッド!」
その時、シェラが執務室に入ってきた。
「では……団長、自分は兵舎を視察してきます」
カレンは俺に頭を下げた後、シェラに目配せしてから執務室を出る。
「カレンさん、私たちのこと気を使ってくれているよね」
シェラが笑顔で俺に近寄る。俺は手を伸ばしてシェラの頭を撫でた。
「最近、愛情表現が足りなかったからな」
そう言ってからシェラの唇にキスすると、シェラはびっくりする。
「い、いきなりは止めて!」
「いきなりだからいいじゃないか」
「もう!」
シェラが赤面になる。たぶんこのやり取りは、いくら時間が経っても変わらないだろう。
俺とシェラはしばらく他愛のない話をした。別に目的もなく、ただ互いの声に耳を傾けて、ありのままの考えや気持ちを話し合う時間……特別じゃないけど大切な時間だ。
「あ、そう言えば……」
シェラがいきなり手を叩く。
「伝言頼まれたの」
「伝言?」
「うん、デイナさんからレッドへの伝言。レッドに何か話したいことがあるそうよ」
その言葉を聞いて、俺は眉をひそめた。
「どうして俺に直接言わないんだ? デイナの部屋はここからすぐそこじゃないか」
「それがね……」
シェラは珍しく苦笑いする。
「あの人、女兵士宿舎から出たくないみたい」
「あ……そういうことか」
俺は頷いた。
デイナは男性恐怖症があるから、女兵士宿舎の真ん中の部屋で暮らせるように手配した。それは正しい判断だったが……どうやら彼女はその禁男の場所から出たくないみたいだ。
総大将の俺なら、デイナに会いに行けるけど……面倒くさいな。
「分かった。仕事が終わったら立ち寄ってみるよ」
「うん」
シェラは頷いてから、俺を半開きの目で見つめる。
「レッドさ、あの人との間に何もないよね?」
「お前が心配するようなことは何もないさ」
俺は笑ったが、シェラは真面目だ。
「デイナさんも凄い美少女だよねー」
「へっ」
俺はシェラを抱きしめた。
「キャー!」
シェラは慌てる。
「だからいきなりは止めて! 声が聴かれちゃうわよ!」
「お前が大声を出さなきゃ、聴かれないさ」
俺は赤面のシェラにもう1度キスした。
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数時間後……仕事を終えた俺は要塞の東側に行って、真ん中の部屋の扉をノックした。すると中から「お入りください」という声が聞こえてきた。
扉を開けて入ると、清潔な部屋が見えた。広くも狭くもない、ちょうど1人が生活できるような部屋だ。タンスとベッド、テーブルと二つの椅子……一応必要なものは揃っている。
普段着を着ている金髪の少女が椅子に座って、無表情で俺を見つめている。綺麗だが気の強そうな顔をしているこの少女が『デイナ・カーディア』だ。
俺はデイナの向こう側に座った。俺には小さい椅子だが、仕方ない。
「ここの居心地が気に入ったみたいだな」
「まあ、想像よりは悪くないです」
デイナは無表情まま答えた。
大貴族の長女として豪華な生活をしていたデイナに、軍事要塞での生活が気に入るわけがない。でもその割には順調に適応しているようだ。
「仕事も意外に頑張っていると聞いたよ」
俺がそう言うと、デイナが微かに笑う。
「人並みには働きたいだけです。洗濯、掃除、料理……どれもまだまだ未熟ですけどね」
「大貴族のお嬢さんには厳しいだろうさ」
俺は笑った。
デイナはシェラとシルヴィアからメイドの仕事を教わっている。『大貴族のお嬢さん』という檻から脱出するためには、まず必要最低限の生活力を身に付ける必要があるからだ。
「で、俺に話したいこととは何だ?」
「少し報告しておきたいことがありまして」
「報告?」
「はい」
デイナは少し真を置いてから、真面目な顔で話を始める。
「実は……私の男性恐怖症の仕組みが分かりました」
「男性恐怖症の仕組みだと?」
「はい」
デイナは両手を交差させて、自分をそっと抱きしめる。
「お母様の仰った通り、4歳の頃の事件が私の男性恐怖症のきっかけだったのは間違いないでしょう。でもそれだけではなく、やっぱりお母様の派手な男性関係が影響しているみたいです」
デイナは少し震える声で話を続ける。
「あんな悲惨な事件が起こったのは、お母様が男性と付き合っていたから。つまり私が男性と付き合ったら、またあんな事件が起こるかもしれない。幼い頃の私は……そう思ったみたいです」
「そういうことがあるのか……」
俺が首を傾げると、デイナが苦笑する。
「馬鹿馬鹿しい考えでしょう? でももうその考えは私の心の中に深く植え付けられたようです。もう私自身では……どうしようもない」
「なるほど」
俺は腕を組んで頷いた。
「じゃ、これからどうするつもりだ?」
「どうするも何もありません」
デイナは首を横に振る。
「お母様から離れて、私はやっと少しだけ平穏になりました。でも男性恐怖症は一生治らないと思います」
「そうか」
「しかし……やっぱり不思議ですね」
デイナが俺を直視する。
「レッド様に対する恐怖心は、大分弱まりました」
「それは確かに不思議だな」
俺は肩をすくめた。
「俺は普通の男性より怖い外見のはずだが」
「これは仮説ですが……たぶん私はレッド様のことを普通の男性と認識していないと思います」
「普通の男性と認識していない?」
俺は眉をひそめた。
「じゃ、俺のことを何だと認識しているんだ?」
「……化け物?」
その答えを聞いて、俺はぷっと笑ってしまった。
「なるほどね。普通の男性ではなく化け物と認識しているから、逆に怖くないというわけか」
「あくまでも仮説です」
デイナも笑った。笑っていると可憐な少女にしか見えない。
「けれど、レッド様も人間ですよね」
「まあな。化け物とか悪魔、人食い赤竜とか言われているけど……俺は結局1人の人間さ」
俺がそう答えると、デイナは少し考えてから口を開く。
「……レッド様」
「ああ」
「レッド様も人間の子なら、ご両親がいるはずですよね」
デイナの綺麗な瞳が俺を注視する。
「どういう方なんですか? レッド様のご両親は」
「俺にその質問をしてきたのは、婚約者たちしかいないけど……」
俺は苦笑いした。
「正直に言えば、何も覚えていないさ」
「そうですか?」
「ああ。俺は5歳の頃から貧民街で1人で住んでいた。その以前の記憶はない」
「5歳の頃から……」
デイナが視線を落とす。
俺は肩をすくめてみせた。
「もし俺以外に肌の赤い人間がいたら、そいつが俺の血縁かも知れないけど……今まで見たことがないし、聞いたこともない」
「そうですか」
「そう考えると、もしかしたら俺には最初から親が存在していないのかもしれないな」
その言葉を聞いてデイナが目を丸くする。
「最初から存在していない、となると……」
「俺は正真正銘の悪魔で、地の底の地獄から出てきたのかもしれない」
俺は冗談のつもりで言ったが、デイナは真面目な顔だ。
「レッド様、もしご自分が本当に悪魔なら……どうなされますか?」
「それこそどうするも何もないさ」
俺は笑った。
「実は俺の正体が悪魔だったとか、赤竜だったとか……そんなことはどうでもいい。俺は俺の考えで行動するだけだ」
「……ふふふ」
デイナが笑った。
「私がレッド様なら、たぶん一生悩むと思います」
「悩むのも悪くないさ。ただ、悩むだけでは何もできないし何も変わらない」
その言葉を聞いて、デイナは考えにふける。俺はしばらくデイナの顔を見つめてから、そっと部屋を出た。




