第267話.小さな一歩
広い道路を1時間くらい進んだ後、俺は部下たちに休憩を指示した。ちょうど湖についたし、昼食を取る時間なのだ。
100人の騎兵たちは軍馬に水を飲ませてから、木の下に三々五々集まって携帯食を食べる。干し肉と干し果物……一般的な軍隊の携帯食だ。
俺も馬車の座席に座って、革袋から干し肉を取り出した。そしてまず向こうの席のデイナに渡した。
「これは……?」
デイナは干し肉を受け取って、目を丸くする。
「干し肉だ。知らないのか?」
「知らないわけではありませんが……」
デイナは慌てていた。俺は苦笑した。
「お前はこれから先、俺の軍隊と同行することになる。もちろん、軍隊の食事メニューには柔らかいケーキも高級チョコレートもない。干し肉と干し果物、そして堅パンが基本だ」
「うっ……」
デイナは眉をひそめてから、干し肉を一口食べる。その直後、彼女はしかめっ面になる。
「塩辛すぎる……!」
「腐らないように、たっぷり塩漬けしたからな」
俺は笑った後、干し肉を食べた。
俺の婚約者であるシルヴィアも貴族のお嬢さんだけど、彼女の場合、苦労して生きてきたから軍隊の生活にもすぐ慣れた。でもデイナは……結構時間がかかりそうだ。
食事の後しばらく休憩していたら、長身の男が馬車に近づいてくる。カーディア女伯爵の部下、ダニエルだ。
「レッド様」
「ダニエルか」
俺は馬車から降りて、ダニエルと向き合った。
「何の用だ? まだあんたの道案内が必要な時ではないけど」
「別に用というわけではありませんが……もしデイナお嬢様が馬車酔いで気分を害されたなら、私が常備薬を持ってきましたので」
「デイナが馬車酔い?」
俺はデイナの方を振り向いた。デイナは無表情で首を横に振る。
「デイナは大丈夫みたいだ」
「そうですか。私の取り越し苦労だったみたいですね。失礼いたしました」
ダニエルは丁寧に頭を下げてから、騎兵隊の方に足を運ぶ。
俺は再び馬車に乗って、デイナを見つめた。
「どうやらダニエルはお前のことが心配みたいだ」
「なるほど」
デイナが微かに笑う。
「流石にダニエルさんも何か様子がおかしいと勘づいたんでしょうね」
「そうだろうな」
俺はいきなりデイナを城から連れてきた。予定にはなかったことだ。しかもデイナの護衛もメイドも同行していない。ダニエルからすれば、何かおかしいと思うのが自然だ。
「……その様子だと、どうやらレッド様はもうご存知のようですね。ダニエルさんとお母様の関係を」
「ああ、本人から聞いた。2人は腹違いの姉弟だと」
ダニエルは元々海の傭兵として活動していたが、今はカーディア女伯爵に雇われている。でもそれはあくまでも表面的な関係で、実はダニエルとカーディア女伯爵の腹違いの姉弟なのだ。
「事情を知らない人々は、ダニエルをお母様の愛人だと思っているんです」
「俺もそうじゃないかと思ったことがあるな」
「ま、お母様の男性関係は本当に派手ですからね。もう少し若かったら、レッド様も誘惑しようとしたはずですよ」
実は、もうカーディア女伯爵は俺のことを誘惑しようとした。でもデイナにそんなことまで話す必要はないだろう。
「……ダニエルさん、私のことをお母様よりも心配してくださっています」
「お前にとっては叔父に当たるからな」
「はい」
デイナが頷く。
「『家和して万事成る』……か」
俺はふとダニエルから聞いた言葉を思い出した。ここ最近、その言葉が身に染みる。
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休憩を終えて……また数時間くらい広い道路を進んだ。
途中に小雨が降ってきたが、すぐ止んだ。そして気温が上がり始める。もうすぐ8月だし、まだまだ夏は続く。
道路は濡れているけど、元々よく整備されているから、馬車は速度を落とすことなく進み続ける。
「そろそろヘルマン要塞だな」
外の風景を見ながら俺はそう呟いた。デイナも窓の外を眺めていた。
「デイナ」
「はい」
「自分の立場、理解しているな?」
「はい、理解しております」
デイナは無表情で話を続ける。
「お母様は既に『レッドがデイナに一目惚れして、城から連れ出した』という噂を流しているはずです。つまり私は、世論的にはもうレッド様の女になったも同然です」
「……何だ、頭いいじゃないか」
「流石にこれくらいは分かりますよ」
デイナは無愛想に言ったが、少し嬉しい顔をしている。
俺は内心笑ってから、デイナを見つめた。
「お前が俺の女として認識されるのは仕方ないことだろう。でももう話した通り、俺はお前に何かを強要するつもりはない。だから安心しろ」
「ふふ……いやらしい言い方ですね」
「しかし俺の軍隊の一員になった以上、人並みには働いてもらうぞ」
「かしこまりました」
デイナは素直に頷いた。それくらいはもう覚悟済みという顔だ。
「そう言えば……ヘルマン要塞には、レッド様の婚約者の方々もいらっしゃいますよね?」
「ああ」
「では、あの方々への説明は私がいたします。誤解が無きように、ね」
「分かった、任せる」
俺があっさりと答えると、デイナは俺の顔を注視する。
「……私のこと、簡単に信用なさっていいんですか? あの『金の魔女』の娘なんですよ」
「この状況でお前が俺を騙しても、お前が損をするだけだ。それに……母は母、お前はお前だ」
俺の答えを聞いたデイナは口を噤み、窓の外へと視線を移した。
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やがて夕べになり、 俺たちはヘルマン要塞についた。
薄暗い空の下に、黒色の壁が見えてきた。軍事要塞らしい頑丈な壁だ。
「総大将がお戻りになられた!」
要塞の櫓から兵士が叫んだ。すると巨大な正門が開かれ、俺の乗った馬車と100人の騎兵隊を要塞の内部に招き入れる。
「レッド!」
建物の中から2人の女性が出てきて、俺の乗った馬車に近寄る。もちろんその2人はシェラとシルヴィアだ。
「シェラ、シルヴィア」
俺は馬車から降りて、婚約者たちに近づいた。
シェラとシルヴィアは革鎧を着ている。つまり普通の女兵士とまったく同じ服装だけど……何故か2人とも気品を匂わせる。不思議なことだ。
「カレンはどうしている?」
「カレンさんはまだ仕事中よ。補給計画を見直しているみたい」
「そうか。黒猫と白猫は?」
「白猫さんは偵察に行ったの。黒猫ちゃんは……ほら、あそこに」
シェラがシルヴィアの後ろを指さした。そこには……黒猫が長いハルバードを手にして、真面目な顔で周りを警戒している。
「あの娘、この要塞でもずっとシルヴィアさんを守っている」
「なるほどね」
俺は笑った。黒猫としては真剣に任務に当たっているわけだけど……小柄の少女があまりにも真面目に周りを警戒しているから、逆に可愛い。
「黒猫さんのおかげで、本当に心強いです」
シルヴィアも笑顔でそう言った。
「ところでレッド、どうして馬車に乗っていたの? しかもあれ貴族の馬車でしょう?」
「それは……」
俺がシェラの質問に答えようとした時、デイナが馬車から降りた。
「え……?」
デイナの姿を見て、シェラは目を丸くする。シルヴィアも顔には出さないが、驚いた様子だ。
「あの人……誰?」
シェラが俺を見上げる。その直後、デイナが声を上げる。
「お初にお目にかかります、私は『デイナ・カーディア』と申します」
デイナの自己紹介を聞いて、シェラとシルヴィアは困惑する。
「カーディアって……レッド、あんたまさか……」
「誤解しないでください」
デイナが俺たちに近づき、冷静な口調で言った。
「私はレッド様に助けられただけです」
「助けられた……?」
「ご説明いたしますので、まず場所を移りましょうか」
シェラは困惑した顔でシルヴィアを見つめた。するとシルヴィアは「ここはカーディアさんの説明を聞いてみましょう」と言った。
それで俺たちは一緒に要塞の建物に入った。黒猫は真面目な顔のまま俺たちの後ろについてきた。
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要塞の内部の東側には多数の部屋が並んでいる。女兵士たちの宿舎として使われている区画だ。そしてこの区画の一番奥にはシェラとシルヴィアの部屋がある。
俺たちはその部屋に集まって、デイナの説明を聞いた。
「つまり、全てはお母様の罠だったのです」
デイナは冷静な口調でありのままのことを話した。分かりやすい説明だ。シェラとシルヴィアは真面目な表情でデイナの話に耳を傾ける。
「……というわけで、私がレッド様の女になったという噂が流れているはずです。しかしそれもお母様の策に過ぎません。本当の私は男性恐怖症で、レッド様と手を取ることすら無理です」
デイナの説明が終わった。俺は1歩前に出て、シェラとシルヴィアを見つめた。
「俺がデイナを連れてきたのは、カーディア女伯爵との協力関係を維持するため……そして何よりも、あの『金の魔女』のやり方が気に入らなかったからだ」
「それは……理解できなくもないけど……」
シェラが俺を見つめる。不満があるようだ。シルヴィアは何も言わなかったが、シェラと同じ気持ちのようだ。
「伯爵就任の夜、俺は皆の前で『弱者にも強くなれる機会を与えたい』と言った。その弱者ってのは、ただ平民だけを意味しているわけではない。デイナは大貴族の長女だが、実の母から不当な扱いを受けている。だから俺はデイナに機会を与えたいんだ」
「それも理解できるけど……」
「すまない、これは俺の独断だ。だが……力を貸して欲しい」
シェラとシルヴィアは互いを見合ってから、同時に溜め息をつく。
「……分かったよ。レッドって本当に無茶なんだから」
シェラがそう言うと、シルヴィアが頷く。
「レッド様のご意向は理解いたしました。私たちは、デイナさんのために何をすればいいんでしょうか?」
「別に大したことではない。デイナにメイドとしての仕事を教えて欲しいんだ」
「メイドの仕事を、ですか?」
「ああ」
俺はデイナの方を見つめた。
「デイナが母の力を借りなくても1人で生活できるようになれば、それでいいのさ。その後、どう生きるかは……デイナ自身が決めることだ」
「かしこまりました」
シルヴィアが頷いた。
シェラは家柄が家柄だから、人に指示を出すことに慣れている。シルヴィアは一応貴族のお嬢さんだし、メイドの仕事についても詳しい。2人に任せれば問題ないだろう。
「デイナ」
「はい」
「これからは、シェラとシルヴィアに仕事を教わりながら生活するんだ。分かったか?」
「はい」
デイナは無表情で答えた。
デイナのことを婚約者たちに任せて、俺は部屋を出た。部屋の外には黒猫が周りを警戒していた。
「熱心だな」
俺は手を伸ばして黒猫の頭を撫でた。黒猫は満足した顔で「任務を続行します」と言った。
「さて……」
要塞の執務室に向かいながら、俺は気持ちを切り替えた。いつまでもデイナのことを考えているわけにはいかない。指導者としての仕事に集中するべきだ。何しろ……俺の一歩一歩には、多くの運命がかかっているのだ。




