第265話.魔女との交渉
涙を流すデイナを見て、俺はしばらく沈黙した。彼女が泣き止むまで待った方が良さそうだ。
「ううっ……うっ……」
しかしデイナは泣き止むどころか、どんどん大声で泣く。
「どうして私がこんな目に遭うのよ……!」
デイナは俺の言葉に刺激されて泣いているわけではない。自分の秘密を他人に話したことによって、今まで抑えてきた気持ちが爆発したようだ。
「全部お母様のせいなのに……!」
デイナが細い手でテーブルを叩く。自分が『男性恐怖症』になってしまったことに対して、母を恨んでいるようだ。ま、確かに母のせいである可能性が高いけど。
「何が一族のためよ……! こんなゴミみたいな一族、滅びなさいよ! うえええええん!」
デイナはなりふり構わず、まるで子供みたいに泣き叫ぶ。もう俺が目の前にいることも忘れたようだ。明らかにヒステリー状態だ。
「落ち着け、デイナ」
俺がそう呼びかけると、デイナは涙目で俺を見上げる。そしてその直後、悲鳴を上げる。
「ひいいいいいっ!?」
デイナは青ざめた顔で俺との距離を広げようとするが、ソファーに座ったままだから、足をバタバタ動かすだけだ。
抑えてきた気持ちが爆発したことで、痩せ我慢していた『男性恐怖症』も爆発したようだ。まるで戦場で俺に出会った敵兵士みたいな反応だ。
これは……危ない。恐怖で失神するかもしれない。
俺はゆっくりと後ろに下がって、自らデイナとの距離を広げた。そして淡々とした口調で話を始めた。
「落ち着け、深呼吸するんだ」
「ううっ……」
「息を深く吸い込み、ゆっくりと吐くんだ」
デイナが怯えた眼差しを送ってきたが、俺は何の反応も見せなかった。こういう時、俺が慌てたり怒ったりしては駄目だ。あくまでも冷静にデイナの気持ちを落ち着かせる必要がある。
数秒後、デイナが俺の指示に従って深呼吸をする。それで一気に状況が好転する。
「……ご、ごめんなさい」
デイナは自分の胸に手を当てて、俺に謝る。
「私としたことが……取り乱してしまいました」
「いいんだ」
俺は苦笑した。
確かにデイナの変貌っぷりは普通じゃない。でもデイナは子供の頃からずっと男性恐怖症を抱えていたし、それを痩せ我慢してきたわけだから……理解できなくもない。
「レッド様」
デイナが疲れた顔で俺を見つめる。
「どうかこのことは秘密にしてください」
「秘密にしてやることもできるけど……もう遅いみたいだ」
そう答えてから、俺は応接間の扉を開いた。扉の外には……カーディア女伯爵が立っていた。
「立ち聞きしないで、入ってくれ」
「あら」
カーディア女伯爵はニヤリと笑って応接間に入り、扉を閉める。
「立ち聞きするつもりは毛頭ありませんでした。仕事が予定より早く終わっただけです」
「そうかい」
嘘だ。カーディア女伯爵はずっと前から俺とデイナの会話を盗み聞きしていた。
「それにしても……流石レッド様です」
カーディア女伯爵はデイナの後ろに立って、彼女の肩に手を乗せる。
「この娘の病を制御するなんて、感嘆を禁じ得ません」
「……あんた、デイナの男性恐怖症について知っていたのか?」
「はい、つい最近知りました」
母の言葉を聞いて、デイナは目を丸くする。
「お、お母様?」
「私の可哀想なデイナ……」
カーディア女伯爵がデイナの頭を優しく撫でる。
「貴女がこうなってしまったのは、昔の事件が原因なのよ」
「昔の事件……?」
「そう、貴女が4歳の頃の事件」
カーディア女伯爵は優しい笑顔で話を続ける。
「当時の私は、2人の男性と同時に付き合っていたわ。ところである春の日、あの2人はこの応接間で喧嘩を始めた」
「この応接間で……喧嘩……」
デイナは目を丸くしたまま母の話を聞く。
「喧嘩は徐々に激化し、結局あの2人は互いを刺し殺した。大量の血が流れて、本当に無惨な光景だった」
「わ、私は……」
「何も知らなかった貴女は、ちょうどその時この応接間に入ってきて……男性たちが流した血を浴びてしまったの」
「うっ……!」
デイナは顔が真っ青になり、嘔吐し始める。でもカーディア女伯爵は動じない。
「あの時のことは、もう忘れたと思っていたのに。まさか男性恐怖症になっていたなんて」
「うげっ……!」
「可哀想なデイナ……」
嘔吐を続けるデイナを撫でてから、カーディア女伯爵は俺に笑顔を見せる。
「レッド様はこの娘を背負うと仰いましたね」
「ああ」
「具体的にどうなさるおつもりですか?」
「デイナは俺が連れて行く」
「あら、本当にそれでよろしいですか?」
カーディア女伯爵が暖かい眼差しで俺を見つめる。まるで聖女のようだ。
「自分の娘に対して、こういうことを言うのも何ですが……デイナは本当に役立たずなんですよ」
「そうかい」
「はい」
カーディア女伯爵は優しい顔で自分の娘を見下ろす。
「わがままで、外交にも内政にも才能がなく、軍隊を率いることなんて到底無理。それがデイナです」
「なるほど」
「顔は可愛いから性欲の道具としての価値があるかもしれませんが……男性恐怖症だからそれも無理です」
「実の娘に対して、本当に酷い言い方だな」
「でも事実なんです」
カーディア女伯爵の顔に笑みが浮かんだ。今までとは違う、冷たい笑みだ。
「指導者たる者……たとえ家族だとしても冷静に才能を見極めて、適材適所に配置するべきだと思います」
「確かに一理ある言葉だ。しかし……」
俺はカーディア女伯爵を直視した。
「指導者だって人間だ。表では冷静に接しても、2人でいる時は家族として話し合うべきなんじゃないのか?」
「家族として……?」
「ああ」
俺は頷いた。
「もしあんたが娘と忌憚なく話し合っていたら、もしあんたが娘の悩みを聞こうとしていたら……娘も自分の男性恐怖症について素直に話したはずだ。もしそうだったら、デイナも今よりはずっと前向きで生きていたはずだ」
「さあ……?」
カーディア女伯爵が肩をすくめる。
「たとえレッド様の仰る通りだとしても、もう関係ありません。レッド様がデイナを連れていくと宣言した時点で、もう私の目的は果たされました」
「確かにそうだ。結局のところ、得したのはあんた1人かもしれない。だがな……」
俺は『金の魔女』に近づいた。
「この城を出る前に、これだけは言っておく。もう嘘や小汚い真似は止めろ」
「……とおっしゃいますと?」
「俺があんたと協力関係を築こうとするのは、それが1番効率的かつ合理的だからだ。だがあんたの嘘や小汚い真似を我慢し続けられるほど、俺はお人よしではない」
俺が『金の魔女』を睨みつけた。彼女は仮面のような笑顔のままだが、息が荒くなる。
「その気になれば、俺はいつでもあんたを力で排除できる。俺がいつまでも合理的に動くと思うな」
「……かしこまりました」
『金の魔女』の声は少し震えていた。
「では、私の愚女をよろしくお願い致します」
「ああ」
俺はまだ震えているデイナを見つめた。
「デイナ、ここを出るぞ」
俺の声を聞いて、デイナはよろけながら立ち上がる。
「私……洗いたい」
「洗ってこい。待ってやる」
「うん」
デイナがふらつきながら応接間を出ると、メイドたちが来て彼女を支える。
俺はソファーに座って、デイナを待った。カーディア女伯爵はそんな俺をじっと見つめる。
「……誠に残念ですわね」
女伯爵が微かな笑顔で口を開く。
「私があと10年若かったら、どんな手を使ってでも貴方を私の男にしたはずなのに」
「そいつは勘弁だ」
俺は目を閉じてそう答えた。




