第224話.やりたいようにやるさ
2月半ば、寒波がまだ続いていた。
執務室の暖炉から暖かい光が出ている。おかげで室内は寒くない。まあ、俺としてはちょっと寒い方が気持ちいいけど……仕方ない。今執務室の中にはエミルとシルヴィアもいる。
俺は席に座って、報告書を読み始めた。俺が担当した裁判の執行に対する報告書だ。
「……エミル」
15分くらい後……報告書を読み終えて、俺は左の席に座っているエミルを呼んだ。するとエミルは書類から目を外して、俺を見つめる。
「どうしましたか?」
「1つ聞きたいことがある」
俺は報告書を机の上に置いて、エミルを見つめた。
「お前は以前……『完璧な社会は存在できない』と言ったな」
「はい」
「じゃ、『完璧な判決』は存在できるか?」
「できません」
エミルが即答する。俺は肩をすくめた。
「即答するんだな。どうして存在できないんだ?」
「それには2つの理由があります」
エミルは無表情で説明を始める。
「まず1つ目の理由は、裁判官も所詮は人間で……法も人間が作り出したものだからです」
「完璧な人間は存在しないから……裁判官も法も完璧ではない、という意味か」
「はい」
エミルが頷く。
「いくら有能な裁判官だとしても、いくら精密に作られた法だとしても……くだらないミスをしたり、他の誰かに悪用されたりすることはよくあります」
「なるほど。じゃ、2つ目の理由は?」
「2つ目の理由は……万人が満足する判決なんて存在できないからです」
エミルの声が更に冷たくなる。
「これは私の故郷で実際にあったことですが……ある軍隊の士官が敵国のスパイだと告発されました」
「ほぉ……それで?」
「実際に疑わしい点があったから、あの士官は警備隊に逮捕され、人々からあらゆる非難を浴びることになりました。しかし……いくら調査しても彼が敵国のスパイだという決定的な証拠は見つかりませんでした」
エミルは淡々とした口調で話を続ける。
「それで事件を担当した法務官は悩んだ結果……士官を無罪放免しようとしました。でもその時、領主の命令によって無罪放免が取り消されました」
「領主の命令?」
「はい」
エミルが無表情のまま頷いた。
「領主は『今あいつを無罪放免すれば、人々が不満を感じて……やがて私の統治に反感を持つようになる。それならいっそ処刑してしまった方がいい』と言ったんです」
「なるほどね」
「法務官は必死に反対しましたが……結局士官は処刑され、法務官も追放されました」
エミルの冷たい視線が俺に向けられる。
「たとえ真実だとしても、必ずしも人々に受け入れられるわけではありません。真実と民心が衝突する時はいくらでもある。そういう時、どうすればいいのか……指導者は決断を下さなければなりません」
「そうだな」
俺は頷いてから、右の席に座っているシルヴィアを見つめた。
「シルヴィア」
「はい」
「今の話、どう思うんだ?」
俺の質問に、シルヴィアは目を丸くする。
「レッド様……私の意見がお聞きになりたいのでしょうか?」
「ああ、そうだ。シルヴィアならどっちを選ぶんだ? 真実か? それとも民心か?」
「私は……」
シルヴィアは少し考えてから口を開く。
「……真実を選ぶと存じます」
「シルヴィアらしいな」
俺が頷くと、シルヴィアは笑顔を見せる。
「レッド様なら、どちらをお選びになりますか?」
「俺は……俺がやりたいようにやる」
その答えを聞いて、シルヴィアが笑った。
「レッド様らしいですね」
「悪いか?」
「いいえ、素敵だと存じます」
俺も笑ってしまった。
「実は先日、ふと思ったんだ。国王だって、1人で成り立つわけではない。民がいないと、国王も成り立たない……とな」
俺は腕を組んで、話を続けた。
「しかしだからといって、民の意思に振り回されたくはない。それでは俺が指導者になった意味がない。俺はあくまでも俺のやり方で、俺の判断で動く」
「……ごもっともです」
そう言ったのは、エミルだった。エミルは口元に微かな笑みを浮かべていた。
「あの時の領主は……処刑や追放も自分の意志でやったわけではありません。ただ他人に振り回されただけです。だから私は彼を軽蔑しました」
「エミル……」
「他人の助言に耳を貸すことは大事ですが、自分の意志が無いと指導者失格です」
まさか……。
その時、いきなり執務室の扉が開かれて……誰かが急ぎ足で入ってきた。
「総大将!」
その誰かは俺の副官、トムだ。トムは上気した顔で俺を見つめる。
「総大将、大変です!」
「どうした、トム?」
「火災です! 城下町で火災が起きました!」
トムの言葉を聞いて、俺は無言で執務室から飛び出た。そして階段を全速力で降りて、城を出た。
「ちっ!」
城下町の方から大量の煙が出ている。早く現場に行かなければ……!
俺は精神を集中し、全身の筋肉を動かした。それで俺の体は放たれた矢の如く疾走し……瞬く間に城下町に進入する。
「あれか!」
火災現場は2階建ての民家だった。俺はもう1度全力で走り、大量の煙に包まれた民家に辿り着いた。
「領主様!」
民家の前には数人の警備隊が集まって、火災を鎮圧するために動いていた。彼らは俺の出現に驚いて、一瞬動きが止まる。
「手を止めるな! 火が燃え移る前に垣根を壊せ!」
「はっ!」
警備隊は急いで民家の周りの垣根を壊し始める。
「りょ、領主様……」
1人の老人が、呆然とした表情で俺に近づく。
「領主様……妻と孫がまだ中に……」
その言葉を聞いて、俺は歯を食いしばった。そして民家の扉に近づいて、そこに立っている警備隊に一喝した。
「どけぇ!」
驚いた警備隊が道を空くと、俺は全力で扉を蹴り飛ばした。すかさず民家に入ると、煙で視野が悪くなる。
「ちっ!」
煙は危ない。俺は呼吸を止めて民家の奥に向かった。すると地面に倒れている老婆が見えた。老婆は……子供を抱いていた。
俺は老婆と子供のいるところまで突進し、2人を抱き上げた。その瞬間、天井が崩れ落ちて……火のついた板が俺の背中を強打した。しかし俺は痛みを無視して、扉の方に突進した。
「うおおおお!」
扉が崩れる直前、俺は家から飛び出た。警備隊たちと老人が驚愕の表情で俺を見上げる。
「早く医者を呼べ!」
「は、はっ!」
警備隊の1人が走り出す。
「ゴホッ、ゴホッ……!」
俺の腕の中から、老婆と子供が咳を始める。これなら……助かる。
「おお……」
老人が涙を流した。俺は安堵のため息をついた。




