第217話.不安や恐れ
シェラが風邪を引いてしまった。
俺は朝早からベッドの隣に座って、仰向けになっているシェラを見つめた。シェラの顔は熱で赤くなっている。これではまるで俺だ。
「レッド」
シェラがか細い声で俺を呼んだ。
「何だ? 何か必要なのか?」
「水……」
「ああ」
俺は素早くコップに水を注いで、シェラの口元に当てた。シェラはゆっくりと水を飲んだ。
「ありがとう」
シェラが俺の顔を見つめる。
「でも……いいの? 仕事あるんでしょう?」
「今日くらいいいさ」
俺はシェラの頭を撫でた。
「もうエミルに必要な指示を出した。今日はお前と一緒に過ごすよ」
「……ありがとう」
シェラが笑顔を見せると、俺も自然に笑顔になる。
「シェラ、お前……冬になるとよく風邪を引くんだな」
「本当そうね。いつもは誰よりも元気なのに」
シェラが笑顔で頷く。
シェラは健康美に溢れている。ずっと体を鍛錬してきたおかげで、スリムな体型だけど決して軟弱ではない。体力と瞬発力なら1流の戦士たちにも後れを取らない。
しかしこの健康で可愛い女の子は、何故か冬になると風邪をよく引く。不思議なことだ。
「……いつも元気だから、冬にもつい無理してしまうんじゃないのか? 子供みたいに」
「何よ、その言い方」
シェラが口を尖らせる。
「レッドは病にかかったことなんてないんでしょう? だから普通の人々の苦労が分からないのよ」
「まるで俺が本当の化け物みたいに言うな」
俺は笑ってしまった。
「それに、俺だって小さかった頃は風邪を引いたりしたさ」
「何か想像できないね」
シェラは笑顔で俺の手を掴む。
「でも……こうしてレッドが傍にいてくれると、凄く安心できる」
「安心……か」
「うん」
シェラの指が俺の手を撫でる。
「カーディア女伯爵との戦争中、レッドが1人で城に帰還した時……兵士たちはみんな不安になったの」
「そうか」
「それでみんなギスギスになってね、小さなことで喧嘩したりした。カレンさんが収拾して大事には至らなかったけどね」
なるほど。
「数日後、レッドが帰ってきて……一気に空気が変わった。みんな安心して任務に集中できるようになった。それがレッドの本当の力かもね」
俺は何も言わなかった。
しばらく沈黙の後、俺はシェラの額に優しくキスした。
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翌日……俺は執務室の席に座って、エミルから報告を聞いた。
「青鼠が出発しました」
エミルが無表情で俺を見つめる。
「2週くらい後、つまり来年の1月初に帰還する予定です。もちろん『ルシアン』と共に、ですね」
「うむ 」
俺は頷いた。
俺の暗殺を企んだ『ルシアン』という男……エミルと青鼠はそいつを捕獲する作戦に入った。まあ、この2人なら問題ないだろう。
「アップトン女伯爵の方はどうだ?」
「女伯爵の方はこれといった動きがありません。もう少し監視する必要があると存じます」
「分かった」
報告が終わると、エミルは自分の席に戻って書類仕事を開始する。
「……なあ、エミル」
「何でしょうか」
エミルは書類に目を向けたまま答える。
「ちょっとお前の意見が聞きたい」
「何に関する意見を……?」
「『不安』についてだ」
俺がそう言うと、エミルは顔を上げて俺を注視する。
「不安? 総大将にはまるで似合わない言葉ですね」
「俺が聞きたいのは……不安が人間を狂わせる要因になり得るのか、という点だ」
「なるほど」
エミルが頷いた。
「そのことに関しては、大昔のある哲学者が残した言葉があります」
「哲学者?」
「はい、『アルデイア』という共和国の哲学者です」
エミルは無表情で説明を始める。
「『アルデイア』は豊かな共和国でしたが……隣国らの戦争に巻き込まれ、やがて衰退するようになりました。しかも共和国の中で内紛が起こり、まさに風前の灯火みたいな状態だったんです」
「ふむ」
「そんな中、 ある哲学者が現れて……『争いが終わらないのは、人々が不安や恐れを感じているため』と主張しました」
俺はエミルの説明に耳を傾けた。
「不安や恐れに侵食されると、目の前の全てが悪意に見える。1度そうなったら……人間はいとも容易く理性を失い、他人を攻撃する。それが彼の主張の要旨でした」
「なるほどね」
「だからこそ彼は『人々を安心させる存在』を見つけ出そうとしました。例えば宗教や強い指導者みたいなものですね」
「……で、その哲学者は成功したのか?」
「いいえ」
エミルが首を横に振る。
「ある日、彼は一部の市民に掴まれ……『祖国の秩序を乱した』という名目で殺されました」
「悲しい結末だな」
「まあ、たぶん混乱を利用して得した連中が指示したはずですがね」
エミルが冷笑する。
「結局数年後、『アルデイア』は滅びましたが……あの共和国の最後に関する記録は、今もいろんな研究の素材になっています」
その言葉を聞いて、俺は少し不思議な気持ちがした。俺の戦いも……数百年後の学者たちの研究素材になるかもしれないのだ。
「人々を安心させる存在か……」
「そういう観点からすれば、総大将は上手くやっています。強くて信頼できる指導者ですからね。ただし……」
エミルが冷たい視線を送ってくる。
「不安な要素もありますよ」
「分かっている」
俺は苦笑した。
「俺がいつも直接動くからだろう?」
「はい」
「でもそれは仕方のないことさ」
俺とエミルの視線がぶつかる。
「後ろに座って指示ばかり出すのは、俺の性に合わない。みんなを率いて敵陣に突撃することこそ俺の本望だ」
「……ま、味方の士気を高める効果はありますけどね」
エミルが軽くため息をついた。このことに関しては、俺を説得するのは不可能だと思ったのだ。
その時、執務室の扉が開いて2人が入ってきた。白い眉毛の美人と幼い少女……『白猫』と『黒猫』だ。
「城下町の調査が終わったよ」
白猫が俺に近寄って、数枚の紙切れを渡してくれた。報告書だ。
「ほぉ」
俺は思わず感心した。意外にちゃんとできた報告書だ。
城下町の構造、侵入しやすいルート、警備の薄い場所などが詳細に書かれている。敵の諜報活動を防ぐのに相当役立ちそうだ。
「今のところ、城下町とその周辺に怪しい人物はいなかった。私たち以外はね」
「よくやった」
俺は大きく頷いた。
「この調子で他の村や拠点の調査も頼む」
「うん、お姉さんに任せてね」
白猫は妹と一緒に執務室を出ようとした。
「ちょっと待って」
俺が呼び止めると、猫姉妹は俺の方を振り向く。
「どうしたの?」
「もうすぐ新年パーティーだ。任務に出る前に、お前たちもパーティーに参加してくれ」
俺の言葉を聞いて、猫姉妹は驚いた顔になる。
「……分かった」
白猫が笑顔を見せる。
「いいドレスがないか、シェラたちと相談してみるわ」
「ああ」
俺が頷くと、白猫は妹の手を握って執務室から出た。




