第185話.新たな足場
8月の暑い時期……俺と側近たちは仕事に邁進した。
領主として、処理しなければならない仕事はたくさんある。裁判を行って領民たちの紛争を調停し、戦争で破損した城壁や道路の補修工事を監督し、シルヴィアと一緒に予算を編成する。
今日も4件の裁判を終え、西の城壁の工事を監督していたら日が暮れてしまった。俺はシェラと一緒に領主のベッド室に戻り、体を洗った。
「あーあ、疲れた……」
体を洗ってから、シェラはベッドに腰掛ける。
シェラは秘書として俺と一緒に裁判に立ち会い、工事の現場を見回ったのだ。疲れるのも無理ではない。
「本当にご苦労だった、シェラ」
俺は手を伸ばしてシェラの頭を撫でた。するとシェラが頭を振る。
「夜も暑いし、止めて」
「あ……悪い」
俺が急いでシェラの頭から手を離すと、シェラはクスッと笑う。
「レッドって面白い」
「面白い? 俺が?」
「うん」
シェラが笑顔で頷く。
「1万の敵兵も怖がらないくせに、私に対しては時々弱気だからね」
「まったくだ」
俺は苦笑した。
「それはお前のことを愛しているからさ」
「うん、ありがとう」
シェラが俺の顔に手を当てる。
「レッドが騎兵隊と共に出陣した時……他のみんなはまるで神でも見ているような顔をしたけど……私は怖かったの」
「それはお前が俺のことを愛しているからさ」
「うん、そうだね」
シェラが頷く。
「できればそんな怖い思いはしたくないけど……」
「これからも戦争は起こる。それは避けられない」
俺はシェラを抱きしめた。
「お前が強くなって、俺は心強い」
「ありがとう。でも……」
「でも?」
「暑い」
「へっ」
俺は笑ってから、シェラの細い体をもっと強く抱きしめた。
---
やがて8月末になり、仕事も少し落ち着いてきた。
特に城壁の修理工事が完了して、みんな安心できるようなった。流石に領主の城が破損したままだと、人々は不安を感じる。
そして完璧に修理された城に、1台の馬車が入ってきた。それに乗っているのは……エミルだった。俺は執務室の席に座って、彼と2人きりで話した。
「予定より早く戻ってきたな」
「はい」
「長い旅だったし、少し休んだらどうだ?」
「大丈夫です」
エミルは冷たい表情でそう答えた。この男は、自分に対する配慮の言葉を本気で面倒くさがっている。
「これが交渉の結果です」
エミルが懐から手紙を取り出して、俺に渡した。俺はそれを読んでみた。
「……相当な金額だな」
その手紙はカーディア女伯爵が直接書いたもので、戦争賠償金の具体的な金額が書かれていた。俺の予想よりも大きいお金だ。
「アップトン女伯爵の副官、トリシアさんと私が直接調査して……現実的な最大値を算出しました」
「トリシアさんと共同作業したのか」
「はい、おかげで予定より早く終わりました」
「なるほど」
俺は頷いて、30代の小柄の女性を思い出した。あのトリシアという人も結構有能そうだった。
「これほどの大金なら……経済面の問題は解決できそうだな」
「はい」
エミルが無表情で頷く。
「カーディア女伯爵は3回に分けて支払うと約束してくれました。3日後、彼女の使者がお金を持ってここを訪ねるはずです」
「ご苦労だった、エミル」
「戦争は総大将の役目、外交は私の役目ですから」
「へっ」
俺が笑うと、エミルが眉をひそめる。
「それより……クレイン地方に滞在中、いくつか情報を掴みました」
「情報?」
「はい、王都の情勢に関する情報です」
その言葉を聞いて、俺は少し目を見開いた。
クレイン地方は王都から割と近い。何か大事な情報でも掴んだだろうか。
「言ってみろ」
「どうやら『3公爵の抗争』で……最初の脱落者が出そうです」
「脱落者……」
俺は自分も知らないうちに拳を握った。
前国王が死んだ後、3人の公爵が王位をめぐって戦争を起こした。それが『3公爵の抗争』だ。そしてこの3人の勢力には大した差がなくて『三つ巴の戦い』になり……なかなか決着がつかなかった。
しかし今、状況が変わった。長い『三つ巴の戦い』から脱落者が出るかもしれないのだ。
「誰だ、その脱落者は?」
「ウェンデル公爵です」
エミルの答えを聞いて、俺は記憶を探ってみた。
「確か……前国王の従兄弟で、40代の男性だったけ?」
「はい」
エミルが小さく頷く。
「ウェンデル公爵は……王都の北側に位置する『ウェンデル公爵領』、そしてその周辺の都市をいくつか統治している人です。規則正しい人だという評判で、人々からの人望も厚いと言われています」
規則正しい大貴族か。珍しい存在だな。
「で、そいつが脱落しそうだと?」
「はい。今年の7月から王都で数回の戦闘がありましたが、ウェンデル公爵の軍隊は大敗したそうです」
「なるほど、戦争はあまり得意ではないのか」
「いいえ」
エミルが首を横に振る。
「むしろ彼は軍才があるとの噂で、敗因は側近の寝返りだそうです」
「寝返り?」
俺は首を傾げた。
「さっきウェンデル公爵は人望が厚いと言わなかったか?」
「人望が厚いからって、裏切られないわけではありません。逆に人望が厚いからこそ……側近たちを信頼し過ぎたようです」
「そうか……」
人を信頼し過ぎた結果、逆に裏切られる。ちょっと可哀想な話だ。
「よくも貴族社会で生き延びてきたな、ウェンデル公爵」
「今までは生まれつきの地位と権力でどうにかしてきたんでしょう。でも……もうそんなものだけで生き残れる時代ではない」
「そうだな」
乱世とはそういうものだ。大貴族も貧民も……小さなミスで命を失う。そこには善も悪もない。
「エミル」
「はい」
「ウェンデル公爵と連絡を試みろ」
俺の指示を聞いて、エミルの顔が明るくなる。
「もちろんです。これは逃せない機会ですから」
「ああ」
俺はカーディア女伯爵の大軍を真っ向勝負で撃破した。もう大貴族たちの耳にも『レッド』という名前が届いたはずだ。
戦場で得た名声……それを足場にして、もっと広い戦場に向かう。頂点に立つまで……俺は止まらない。




