第175話.決戦を前にして
俺は黒い軍馬『ケール』に乗って、メリアノ平原を走った。
今日は久しぶりに天気がいいけど……先日までの雨のせいで、メリアノ平原の所々には泥濘がある。おかげで騎兵が走りづらく、偵察もままならない。しかしケールは疾風のように走りながらも、深い泥濘をちゃんと避けている。
「本当に凄いな、お前」
ただ強くて素早いだけではなく、周りの環境を一瞬で把握して最善の動きをする。こんな曲芸ができる軍馬はケールだけだ。それで総大将自らが偵察に参加しているわけだ。
とてつもなく広い平原を走りながら周りの地形を確認し、敵の痕跡を探す。異常がなかったら次の場所に移動する。その繰り返しだ。
「……ん?」
南に進んでいる途中、俺は地面の上で何かを見つけた。
「足跡……」
俺はケールから降りて、足跡を調査した。
「3人か」
痕跡からして……3人の兵士がこの周りを1周した後、東に向かったに違いない。
「敵の偵察兵だな」
ここは敵の本陣から結構離れている。つまり敵も相当遠くまで偵察を送っているわけだ。どうしても情報が欲しいんだろう。
その時、微かな音が聞こえてきた。俺は地面から目を外して周囲を警戒した。すると東の地平線の向こうに……小さな人影が見える。
俺は素早くケールに乗り、人影の方を見渡した。3人の兵士だ。敵がもう1度偵察兵を送ってきたのだ。
「……お前らも運がないな」
俺はケールを走らせた。ケールはまだ濡れている地面の上を疾走し、瞬く間に敵偵察兵との距離を縮める。
敵偵察兵の方も、俺に気付いて逃げ出そうとする。しかし徒歩でケールから逃げることは無理だ。
青い空の下で、しばらく追撃戦が続いた。そして15分くらい後……俺は背中から大剣を取り出した。ケールが獲物に追いついたのだ。
「ぬおおおお!」
雄叫びを上げながら大剣を振るう。それで敵偵察兵の上半身が両断され、血を噴出しながら死んでしまう。
「ひ、ひいいいっ!」
残り2人が悲鳴を上げる。元々偵察は危険な任務ではあるけど……まさかこんな形で死を迎えるなんて、想像もしていなかったんだろう。
「はああああっ!」
俺は大剣を振るい続けて、残り2人も両断した。茶色の地面が真っ赤に染まってしまい……追撃戦は終わった。
偶然とはいえ、敵偵察兵と遭遇して瞬殺した。なかなかの成果だ。しかし俺は顔をしかめた。
「剣が……」
大剣の切れ味が悪い。度重なる戦いで刃に損傷を受けたせいだ。何度か職人に修理させたけど……もう寿命かもしれない。
特別に注文した武器とはいえ、別に名のある剣ではない。激しく使ったから寿命が来るのは仕方ないか。
「お前もご苦労だったよ」
俺はそう呟いてから、別の敵が来る前にその場を去った。
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本陣に帰還して、俺は少し休みを取った。
体を洗ってから天幕で横になり、目を閉じるとすぐ眠りについた。『どこでも寝れる』のは、戦争時には本当に便利な特徴だ。
1時間くらい寝たんだろうか。ふと足音が聞こえてきた。俺の天幕に誰かが入ってきたのだ。
「……シェラ?」
そっと目を開けると、シェラの姿が見えた。
「レッド、起きて」
「……何かあったのか?」
俺は上半身を起こして、シェラを見つめた。
「アップトン女伯爵からメッセージが来たの。話したいことがあるってね」
「そうか」
たぶん作戦について相談したいことがあるんだろう。俺は席から立ち上がり、革鎧を着た。
「……あの女伯爵、妙にレッドと親しいのね」
シェラがそう言った。俺は首を傾げた。
「親しい? 別にそんなことないと思うけど」
「そう?」
シェラの視線が冷たくなる。
「相当美人なんだよね、あの女伯爵」
「いやいやいや……」
俺は笑った。
「何を勘違いしているんだ? まったくそういう話じゃないから」
「ふーん」
シェラが薄目で睨んでくる。
「ま、信じてあげる。今はね」
「へっ」
俺は苦笑したが、同時に少し安心した。
ブルカイン山脈での奇襲戦以来、シェラはどこか疲れているように見えた。でも時間が経つに連れて、少しずつ元気を取り戻している。
これからもシェラはどんどん強くなっていくだろう。そして俺の傍にいてくれるはずだ。その事実がとても嬉しい。
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俺は臨時要塞の中央に向かい、1番大きい天幕に入った。そこでアップトン女伯爵が俺を待っていた。
しかし天幕に踏み入った途端……俺は疑問を覚えた。天幕に中にはアップトン女伯爵しかいないからだ。
「他の2人はどうした?」
俺はテーブルに座って、アップトン女伯爵を見つめながら聞いた。
「其方しか呼び出していない」
アップトン女伯爵が冷たい声で答えた。俺は腕を組んだ。
「何か密かに話したいことでもあるのか?」
その質問を聞いて、アップトン女伯爵は少し間を置いてから答える。
「其方は……現時点での勝算をどう見ている?」
「現時点での勝算か」
俺はいろいろ考えてみた。
「……たぶん五分五分だな」
「どうしてそう思う?」
アップトン女伯爵がもう1度聞いた。俺は淡々とした口調で説明を始めた。
「今までの勝利によって、こちらの士気は高まった。それだけ見ればこちらが有利だが……カーディア女伯爵は、ケント伯爵とは違う」
俺とアップトン女伯爵の視線がぶつかった。
「カーディア女伯爵はちゃんと部下たちの信頼を得ている。危機を前にして彼らは団結し、必死になって戦うだろう。そういうやつらは強いのさ」
アップトン女伯爵の顔が強張る。
「それが人間の底力ってもんだ。侮れない」
「……人間の底力か」
アップトン女伯爵が視線を落とす。
「意外と冷静に見ているんだな、其方は」
「へっ」
俺は笑った。
「見た目はこんなんだけど、俺はちゃんと頭使っているんだよ。部下たちの犠牲を最小限にするためにな」
「そうか」
アップトン女伯爵が頷く。
「もしこの戦いに負けてしまい、全てを失ったら……其方はどうする気だ?」
意外な質問だ。俺は彼女の美しい横顔を見つめながら口を開いた。
「もし負けて、今の地位を失っても……俺はまた立ち上がる。それだけだ」
「……理解しがたい」
アップトン女伯爵は首を横に振った。
「現実を知らないわけでもなく、知った上で無謀な戦いに挑み続ける人間がいるなんて」
「じゃ、あんたは止めたいのか?」
俺は冷たい声で聞いた。
「何もかも止めて、楽に生きたいのか? 確かにそれも悪くはないだろう。しかし……指導者には許されない生き方だ」
「分かっている」
アップトン女伯爵が小さな声で答えた。
「私も前国王みたいになりたくはない。でも……時々……」
彼女はそれ以上言わなかった。しかし俺は彼女の気持ちを理解した。
誰も導いてはくれない。指導者は自分で考えて、自分で選択しなければならない。その結果、多くの人間が犠牲になっても……誰のせいにすることもできない。全て自分自身のせいだ。
ゆえにいくら冷酷な指導者でも……時々不安になる。『果たして私の選択は正解だったのか?』と。たとえ『銀の魔女』といっても例外ではない。
配下のグレン男爵やハリス男爵には、こんなことは話せないんだろう。だから俺を呼び出した。その気持ちは理解できるけど……。
「別に俺もあんたに助言できる立場ではないさ」
俺は席から立った。
「でも……あんたにも大事な人がいるんじゃないか? きっとその人があんたの心の支えになるはずだ」
アップトン女伯爵は口を噤んだ。俺は彼女を残して、天幕から出た。




