第174話.梅雨の中で
奇襲戦に勝利した後、俺たちはまず敵の野営地とその周辺で休憩に入った。夜間戦闘で兵士たちも疲れているのだ。
俺とシェラはお湯で洗ってから、天幕で一緒に横になった。もう朝が近いけど……少しでも寝ておかないといけない。
シェラはとても疲れた様子だ。俺は彼女を後ろからそっと抱きしめて、目を閉じた。そしてすぐ眠りについた。
「レッド」
ふとシェラの声が聞こえてきた。俺は目を覚ました。
「……シェラ? 寝ていたんじゃなかったのか?」
「うん」
シェラは小声で言った。
俺はシェラの背中をもう1度抱きしめた。
「早く寝た方がいい。朝になったら進軍だ」
「分かっている。でも……眠れない」
シェラはそれ以上何も言わなかった。俺も何も言わないまま、ただシェラを強く抱きしめた。
---
俺の軍隊が崖の敵を撃破した時、同盟の軍隊もそれぞれの戦いに勝利した。
「これで道路を確保できましたね」
作戦会議でハリス男爵が言った。
「梅雨になる前に、早く山脈を渡るべきです」
彼の発言にみんな頷いた。何しろこちらも1万に至る大軍だ。険しい山道の途中、梅雨の大雨に会うと被害は免れない。
結局我々は部隊を細かく再編成して、狭い山道を急いで進んだ。幸い進めば進むほど道が広くなっていった。
「いい景色だな」
ケールに乗って山脈を渡る中……俺はふとそう呟いた。高い崖の上から見える景色は、俺でも少し感動を覚えるほどだ。
地平線の向こうまで広がる青い空、人間の侵入を許さない荘厳な山々、深い森と湖……眺めているだけで心が浄化されそうな景色だ。
このブルカイン山脈は、王国の中央に近い。それなのにまだ大自然のままだ。その事実を嬉しく思うべきなんだろうか。
「……アイリン」
ふと小さな少女の笑顔が思い浮かんだ。アイリンもこの山脈を渡って旅をしたはずだ。一緒にこの景色を眺められたらよかったのに。
俺は山道に視線を戻した。数千の兵士が俺の後を追って歩いている。感傷的になっている暇などないのだ。今は前を見て進むべきだ。
---
我々は無事に山脈を超えて『メリアノ平原』に進入した。そして間もなく梅雨が始まった。
青かった空は灰色になり、眩しかった太陽も雲の中に隠れてしまった。雨が数日も降り続いて、軍隊の行く手を阻んだ。
結局広い空地に臨時要塞を構築して、梅雨が終わるまで耐えることにした。こんな天気じゃ、無理して進んでも兵士たちが病にかかるだけだ。
臨時要塞の構築が完了した後、各軍隊の指揮官たちは天幕に集まった。これからの方針を決めるためだ。
最高指揮官のアップトン女伯爵、その配下のハリス男爵とグレン男爵、そして同盟の俺は一緒にテーブルに座って……互いの顔を眺めた。
「敵軍……つまり『カーディア女伯爵』の軍隊は、平原の反対側に布陣しています」
若いグレン男爵が現状を説明する。
「たぶんカーディア女伯爵はこの平原で決戦に臨むでしょう。ここが突破されたら、彼女の領地は無防備になりますからね」
みんな頷いた。
この『メリアノ平原』はカーディア女伯爵にとって最重要地だ。ここを抑えたら、カーディア女伯爵の各領地は分断される。そうなるといくら『金の魔女』といっても降伏するしかない。
「敵の数は?」
俺が質問すると、グレン男爵が鋭い眼差しを送ってくる。
「約1万前後だと推測される。要はこちらとほぼ同等だということだ」
「よくもそんなに残っているな」
「カーディア女伯爵も必死だからな」
グレン男爵は冷たく言った。
「勝算は我々にあります」
ハリス男爵が明るい声で言った。
「戦争が始まってから、こちらは勝ち続き……敵軍は負け続きです。士気の差は明白でしょう」
確かにその通りだ。俺の軍隊はもちろん、同盟の軍隊も全部士気が高い。
「でも油断は禁物です」
そう言ったのはアップトン女伯爵だ。彼女の美しい顔は、相変わらず無表情だ。
「我々は敵地の奥まで侵入しています。ゆえに補給線が長くなり、梅雨のせいで病人も出ています。地理的な利点は敵の方にあると言えます」
「女伯爵様の仰る通りです」
ハリス男爵が頷くと、アップトン女伯爵はみんなの顔を見渡す。
「補給線の防備を強化し、梅雨による被害を最小限に抑える……それが当面の課題です」
アップトン女伯爵が話をまとめた。
それから詳細を話し合った結果、アップトン女伯爵とグレン男爵は臨時要塞の管理を、ハリス男爵は補給線の防備を、俺は偵察を担当することになった。
「レッドさん、ご存知でしょうか。この地方の梅雨は、どうやらブルカイン山脈のせいだそうですよ」
「そうか」
時間が余って、俺はハリス男爵と少し雑談をした。
「はい、学者たちの話によると……山脈が雲の進行を妨げているらしいです。それでこの地方では……」
ハリス男爵が笑顔で話を続ける。
この太った男爵は、俺に対して最初から親しい態度だ。こういう人は決して多くない。普通は恐怖を感じるか軽蔑するかの2択だ。
「そう言えば、レッドさんのご出身はどこでしょうか?」
話の途中、ふとハリス男爵は聞いてきた。
「俺は……」
グレン男爵の方をちらっと見てから、俺はゆっくりと答えた。
「俺は『南の都市』の北に位置する、『グレン男爵領』の貧民街で育った」
「あ……」
ハリス男爵が少し驚いて、グレン男爵の方を見つめる。
グレン男爵は無言でこちらを見ていた。俺は微かに笑った。
「ま、別にグレン男爵と面識があるわけではないさ。何しろ俺があそこに住んでいた時は、別の人が領主だったからな」
「……私の父親だな」
グレン男爵が口を開いた。
「私は3年前に父親から爵位と領地を相続した」
「そうか」
俺は頷いた。
少し不思議な気持ちだ。あの貧民街に住んでいた時は、領主なんて雲の上の存在だった。でも今はこうして対等に話しているのだ。
「確かに聞いたことがある」
グレン男爵は俺に冷たい視線を投げる。
「小さな街に『赤い肌の怪物』が住んでいるとな。幼い頃の私は、1度見てみたいと思っていた」
「そうか」
「でもその時出会わなくてよかった。もし会っていたら、たぶん部下に命令してお前を殴り殺したはずだ」
「へっ」
俺は苦笑した。
「皆さん」
アップトン女伯爵が冷たい声で割り込んできた。
「今日の作戦会議はここまでにしましょう。各々の役目を果たしてください」
最高指揮官の彼女の言葉に従って、会議は終わった。
俺は天幕を出て、自分の軍隊に向かって歩いた。まだ外は小雨が降っていた。
「レッドさん!」
ふと後ろから声が聞こえてきた。振り向いたら、ハリス男爵が汗を流しながらこちらに駆けつけてきている。
「れ、レッドさん……!」
ハリス男爵は俺の近くまできて、荒い息をする。俺はそんなハリス男爵に笑顔で質問した。
「どうした? 何かあるのか?」
「そ、それが……」
ハリス男爵は息を整えてから話を始める。
「その、さっきのグレン男爵の話は……あまり気になさらないでください」
「そのことか」
俺は笑った。
「その程度の話は、もう聞きなれているさ。別に気にしていない」
「ありがとうございます」
「あんたに感謝される筋合いはないんだが」
俺はもう1度笑ってから、ハリス男爵を見つめた。
「あんたは他の貴族とは少し違うな」
「そうでしょうか」
「ああ、貴族特有の高圧的な態度が見られない」
その言葉にハリス男爵は笑顔になる。
「貴族といっても、いろんな人がいますからね。それに……私にもいろいろありましたから」
ハリス男爵が少し視線を落とす。
「ま……太った中年男性の過去なんて、あまり面白いものではありませんけど」
「いや、割と興味あるけどな」
「そうですか」
俺とハリス男爵は一緒に笑った。
「では、今年中に私の城にぜひご訪問ください。私もレッドさんのような英雄からいろいろ話が聞きたいと思っています」
「ああ……そうするよ」
俺はハリス男爵と約束を交わしてから、その場を去った。




