第151話.5月の進軍
5月1日の午後……執務室でエミルが俺に報告書を上げた。
「堅パン、堅果、塩漬け肉の確保は順調です」
「ふむ」
俺は報告書を読んで頷いた。
「遠征はもちろん、数ヶ月なら籠城も問題ないでしょう」
「よくやった、エミル」
支出は大きいけど、備蓄食糧の確保は大事だ。兵士たちが飢えると、どんな強軍でも一瞬で崩壊する。
「これで戦争準備も一段落か」
「はい、後は『金の魔女』の宣戦布告を待つだけです」
エミルが疲れた顔で頷く。
「……エミル、今日は早めに休め」
「私は大丈夫です」
「無理するな。お前はどう見ても過労気味だ」
「ですが……」
「これは命令だ」
「……分かりました」
エミルは報告書を片付けて、執務室で出た。
俺はしばらく1人で書類と戦った。そして午後3時頃……誰かが扉をノックした。俺が「入れ」と言うと、小柄の少年が入ってきた。俺の副官であるトムだ。
「総大将、城壁の見回りが完了しました!」
「異常は?」
「ありません」
トムが真面目な顔で答えた。
先月から、トムは城壁とその周辺の見回りをしている。結構退屈な仕事なのに……この小柄の少年は誠実に隅々まで見回りしているのだ。
「……トム」
「はい!」
「俺が何故お前に見回りを命じたのか……その理由が分かるか?」
「そ、それは……」
トムが戸惑う。
「お前にこの城を任せるためだ」
「……この城を、ですか?」
トムが目を丸くする。俺は「ああ」と頷いた。
「もうすぐ『金の魔女』が宣戦布告をしてきたら、俺は軍隊を率いて同盟のアップトン女伯爵を助けに行かなければならない。しかしそれこそが敵の狙いだ」
俺とトムの視線が交差する。
「『金の魔女』は……俺のいない間に、陸路と海路を同時に使ってこの城を襲撃するはずだ。俺の基盤を崩すためにな」
「それはつまり……」
「ああ、お前がこの城を守るのだ」
トムの顔が緊張で強張る。
「そ、総大将……自分は……」
「心配するな」
俺は席を立って、トムに近づいた。
「お前は俺と一緒に数々の戦場を経験してきた。それに、最近のお前は……指揮に関して並大抵のやつらより上手い」
「総大将……」
「この城の強みと弱点を把握して、冷静に対処しろ。それだけでも、お前なら必ず勝てる」
「……かしこまりました!」
トムが片膝をついて頭を下げる。
「自分の命に変えても……この城を死守してみせます!」
「命は変えるなよ」
俺は笑った。
「お前は生きろ。生きて俺の物語を最後まで見届くんだ」
「はい!」
トムの声には揺るぎない決意が込められていた。
それから1週後……『銀の魔女』から援軍要請が届いた。
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「頑張って準備してきたんだから、派手にやろう」
援軍要請を受けた俺は、すかさず軍隊を招集した。
歩兵2000、弓兵1000、騎兵800……総数は約3800だ。騎兵の比率が高いのは俺の好みだ。
城には約1000の守備兵を残して、トムに指揮を任せた。エミルも情報部の指揮のために城に残った。俺と一緒に遠征に出るのはシェラとカレンだ。
「レッド、出陣の準備が終わったよ!」
シェラが革鎧姿で報告した。俺とシェラは各々の馬に乗り、一緒に城門に向かった。
「レッド様!」
ふと若い女性の声がした。振り向いたら、それは……。
「シルヴィア」
それはシルヴィアだった。彼女は俺とシェラに近づいて、まるで小動物のような表情で見上げてくる。
「レッド様とシェラ様のご健勝を祈念いたします」
シルヴィアはとても真面目な口調だった。俺が「ありがとう」と答えると、シェラも「あ、ありがとうございます」と答えた。
俺とシェラはシルヴィアと別れて城門を出た。そして整列している軍隊の先頭に立った。
「進軍を開始する」
俺が命令を出すと、3800人が歩き始める。
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北西への進軍は順調だった。
俺はケールに乗って軍隊の先頭を歩いた。暖かい日差しと涼しい風が気持ちいい。こういう言い方はちょっと変だが、戦争するには最適な天気だ。
道路は綺麗に整備されている。日頃の内政の成果だ。これなら予定通りアップトン女伯爵と合流できるだろう。
やがて空が暗くなり始めた頃、我が軍は広い湖に着いた。
「今日はここで野営する」
初日から無理する必要はない。俺の兵士たちは湖を囲んで天幕を張り、焚き火に火をくべて、食事を済まし、体を洗って、休憩に入った。
俺も指揮官用の天幕でシェラと一緒に横になった。
「ふう」
シェラが疲れた顔でため息する。
「流石に3800人もすると、進軍が遅いわね」
「軍隊の規模が大きければ大きいほど遅くなるのさ」
「そうだね」
シェラが頷く。
「でもやっぱり不思議」
「何が?」
「こんなに多くの人々が、レッドのことを信じて動いているのがね」
シェラは俺に体を密着させる。
「レッドって、ついこないだまで何の権力もない平民だったのに……いつの間に領主なんかになってしまって」
「へっ」
俺は笑ってシェラの頭を撫でた。
「俺が領主になってから結構時間が経ったじゃないか。もう慣れたんだと思っていたけど」
「私の中のレッドは、どんなに時間が経っても『格闘技の教師』だよ」
「なるほど」
俺は頷いた。シェラはあの時の俺を愛しているのだ。
「じゃ、今の俺は?」
「今のレッドも、私にはあの時のレッドと同じよ。でも……」
シェラが目を伏せる。
「でも今のレッドは偉い人になりすぎて……何か手の届かない場所にいるような感じがする」
「心配するな。ちゃんと届いているさ」
「……うん」
シェラが俺の手を掴む。
「私、決心したことがあるの」
「何だ」
「その……城に帰還したら、シルヴィアさんと友達になってみる」
「そうか」
「うん」
俺は少し間を置いてから、シェラの額にキスした。




