story2 名探偵記憶喪失 2
「──と、いうわけなんです」
できるだけ詳細に、エリスンはいまに至る経緯を話した。
丸メガネの高齢な医師、ドクター・ヤブは、シャルロットの診察を終えたようだった。ふむう、とうなる。
「それは、フィクションですかのう?」
「ノンフィクションです」
気持ちは痛いほどわかったので、エリスンは真っ向から否定する。信じてください、そんな人間もいるんです。
「話が長すぎて、ところどころ聞きとばしたんじゃが……ここから落ちて骨の一本も折ってないというのは、めでたいのう」
こいつ大丈夫か、とエリスンは思ったが、医者は医者だ。
二階から落ちたというのに、シャルロットの怪我といえば見た目には派手な擦り傷、切り傷ぐらいだった。ちょうど、植木がクッションになったようだ。落ちた後、気を失っていたのも一瞬のことで、駆けつけたエリスンにはっはっはといつもの高笑いを返し、二階の探偵社まで自力で戻ってきたパワフルさ。脳だけじゃなく、いろいろ鈍いに違いない、とエリスンは思っている。
「それで、あのう……問題は、怪我じゃなくてですね」
エリスンは言葉を濁し、ベッドの上の上司をちらりと見た。ストライプ柄の寝間着に着替えたシャルロットは、診察のために上半身を起こしている。なにも考えていないような、爽やかな笑顔。
事務所の奥にあるシャルロットのプライベートルームは、実にすっきりと片づけられていて、エリスンを不安な気持ちにさせた。掃除や洗濯の折りには入るものの、こうして座って、じっくり見ることなどほとんどないのだ。まるで、知らない誰かの部屋のようで、落ち着かない。もし、彼がずっとこのままだったら──嫌な予感が胸をよぎる。
「自分のことも、あなたのことも、全部忘れてしまっている、と……まあ、一時的な健忘、記憶の混乱、ということだと思いますがのう。こればっかりは、経過を見ないことにはなんとも。元気そうだし、大事には至らんでしょうて。それに、なんというか……うぅむ」
ドクター・ヤブは、眉根を寄せると、考え込んでしまった。沈黙が落ちる。
ひょっとして、なにか大変な症状が……──胸中の不安を大きくしながら、エリスンはそっとヤブの様子をうかがった。
彫りの深い顔。真っ白な口ひげと、眉。閉じられた瞳。船をこぐ身体。
「ぐぅぅぅ」
寝てた。
スパァァン、と軽快な音が響いた。エリスンが自らのヒール靴でヤブの頭を叩いたのだ。
「──は! 待って、おばあちゃん!」
老医師が目を見開く。いっそそっちに行っても良かったのにとチラリと思いながら、何食わぬ顔で靴をはき直し、エリスンはわざとらしく咳払いをした。
「ではとにかく、このまま様子を見ろ、ということですわね?」
「あ、ああ、ええ。そうですのう」
ごにょごにょとうなずきながら、ヤブはもう一度患者に向き直った。指で目蓋を押し開けるようにして、シャルロットの緑色の瞳をのぞきこむ。
「まあ、探偵さんですから、調査とかいろいろ、お仕事もあるんでしょう。この目が、ちょっと気にはなるんですがのう。最近、麻薬の調査とか、そういったことを?」
「まさか」
エリスンは即答した。マヤクノチョウサなど、シャルロットの仕事から遠いにもほどがある。
遅れて、その意味するところに気づいた。
「な、なにか、良くない薬がどーの、ってことですか?」
「ああ、いやあ……まあ、風邪のせいかもしれませんがのう。まあ、様子を見て、また考えるっちゅーことでね。この人の好きな食べ物を用意するとか、思い出話を語るとか……そんな単純なことで、ふと記憶が戻ることもありますからのう、がんばりんさいの」
そういい残して、ドクターヤブは立ち上がった。それだけでもう帰るのか、と思いつつも、専門家にそういわれてしまったのではどうしようもない。エリスンは示された代金を手渡し、玄関まで腰の曲がった老医師を見送った。
扉を閉めて、息を吐き出す。
なんということだろう。なーんちゃって、ぜんぶ冗談でしたー、みたいな展開を多少は期待していたのだが。いまだかつてない状況に、エリスンは静かに混乱していた。まず何をすべきなのか、それすらわからない。
「ちょっといいかな、エリスン、さん?」
不意に、背後から声がかけられた。寝間着姿のシャルロットが、部屋から出てきていた。
さん、という響きに無性に悲しくなる。エリスンは、きゅっと唇を噛んだ。渦巻く感情を悟られないように、笑顔を作る。
「なあに、寝ていなくちゃだめじゃない。熱があるし、ケガだって」
「空腹でね、寝られそうにない。何か、食べるものはないのかな」
物いい自体は、変わらず偉そうだ。エリスンは苦笑して、応接テーブルの上に置いたままだったクッキーを指した。
「どうぞ。それ、あなたの分よ。それとも、夕飯にする? 何か作った方がいいかしら」
「……ふむ」
シャルロットは、顎に指をあてた。彼がよくやる仕草だ。考えるようにゆっくりと、応接ソファに腰を下ろす。しかし、クッキーには手を伸ばさず、エリスンを仰ぎ見た。
「失礼だが、私と君は、一緒に暮らしているのかね? 兄妹、夫婦、もしくは、恋人?」
エリスンは言葉に詰まった。まさか、そんな質問をされるとは。
だが考えてみれば、エリスンの名前はおろか、自分のことすら何もわからないというのだから、当然のことだろう。
「探偵と助手、上司と部下──それから、大家と下宿人といういい方もできるかしら。あなたは、ここの探偵社の社長、シャルロット=フォームスン。その助手があたし、エリスン=ジョッシュよ。この二階が、探偵社とあなたのプライベートルーム。私は三階の部屋を使わせてもらっているわ。もう、四年になるわね」
「なるほど。君はこうして、いつも、菓子や食事の用意を?」
「……そうね。家賃とか払ってないし、そういう約束なのよ」
改めて問われると、あたりまえだと思っていた様々なことが揺らぎそうだった。エリスンは瞳を伏せて、それからキッチンに向かう。
「食事を用意するわ」
「いや、ここに座ってもらえないかな。大変興味深い。じっくり、話を聞きたい気分だ」
穏やかな口調だったが、否といわせない何かがあった。エリスンは片眉を上げ、記憶を失いつつも、確かに偉そうな上司を見下ろす。彼は悠然と笑んで、手のひらで向かいのソファを指していた。どうぞ、というかのように。
「空腹じゃなかったの」
「知的好奇心の前には、そんなものは意味を成さない。私は、名探偵なのだろう?」
吐き捨てた言葉に、さらりと返される。エリスンはため息を吐き出すと、いわれるままにソファに座った。
「何を聞きたいの?」
諦めたような口調で、問う。シャルロットは満足そうにうなずいて、すべてを、と告げた。
「私と君の出会いから、いまに至るまでを。やがて日が暮れる。長い夜を、思い出話に費やすのも、おもしろいのではないかな」
「…………出会い、ね」
それはもう、ほとんど思い出したことのない、遠い昔の記憶だ。エリスンは正面の緑の瞳から目を逸らし、窓の向こうの、暮れゆく赤い空を見た。太陽が、沈んでいく。
あの日もこうして、夕陽を見たのだ──目を閉じるようにして、幼いころの、柔らかい記憶に思いを馳せた。