story2 名探偵記憶喪失 1
「君は、だれだね?」
邪気のない声で問われ、エリスンは絶句した。
普段は無意味に高圧的な名探偵は、興味津々といった様子で、自らの城であるはずの探偵社を見回す。素敵な部屋だ、などとつぶやいた。
シャルロットは、いまや傷だらけだった。顔は赤く、表情はどこかぼんやりしている。
「お医者さまを……呼んでくるわ」
これはお手上げだ、とエリスンは判断した。馬鹿具合をいっそう増したシャルロットを一人残し、早々に探偵社を出る。
診療所への道を急ぎながら、なぜこんなことになってしまったのかと、頭の中で情報の整理を試みた。医者を呼んだら状況の説明をしなくてはならないだろう。できるだけ、詳しく。
とはいえ、そもそもなにが発端だったのか。それすら、エリスンにはわからないのだ。
*
「空を……飛べるのではないだろうか」
それは、いつもの昼下がり、いつもの探偵社。
いつもどおり絶賛暇持て余し中の名探偵シャルロット=フォームスンは、パタン、と本を閉じ、遠い目をしてつぶやいた。
沈黙。
ちょっとどうしようもない沈黙。
「なんの話?」
気の利いたツッコミは思いつかず、名助手エリスン=ジョッシュが、ただ純粋に疑問を口にする。ティーカップが空になっていることに気づくと、新しくハーブティーを注いだ。今朝、やっとの思いで手に入れた、話題のハーブティー『ウマスギルン』だ。いつどこで見ても売り切れている、大人気の一品。
しかし、彼は応えない。
肘掛け椅子に深く座り、腕を組んで、どこか遠いところを見ている。
エリスンは、デスクの上に置かれた本に視線を落とした。朝からずっと、つい先ほどまで、上司が熱心に読んでいた本だ。題名を見て、愕然とする──『人類の進化』。
ということは──エリスンは考えた。
先の発言の主語は、鳥とか虫とか、そういう空を飛ぶ類のものではなく、まさか、人類ということなのだろうか。
夢溢れるロマンチックな発言ととるべきか、どこまでも阿呆な発言ととるべきか。考えるまでもなく後者だ。エリスンは首を左右に振った。
「いいえ、シャルロット。飛べないわ」
ぴしゃりと、優しさゆえの正論。
シャルロットはエリスンを見て、それから窓の外を見やる。
「空を……飛べるような気がする」
「なんなの、なんでさっきから『空を』、で溜めるの? イライラするわ。熱でもある?」
事実、いらついたので、発言そのものよりも妙に酔った口調に突っ込む。最後の一言は冗談だったのだが、シャルロットの瞳がトロリとしているのを見て、額に手をあてた。
「あっつ!」
すぐに離した。どうやら、本当に発熱しているようだ。
「シャルロット、あなた、風邪?」
「はっはっは、なにをいうんだね。天才は風邪など引かないのだよ」
「そりゃあ、あなたは引かないでしょうけど」
バカだから。一応病人だということで、後半は飲み込んだ。ちょっと待って、考えましょう──自分にいい聞かせるようにつぶやいて、エリスンはオロオロと、行ったり来たりし始める。探偵社に勤めて四年になるが、シャルロットが熱を出すなど初めての経験だ。
とはいえ、自らが寝込んだことぐらいなら何度かある。そういうとき、この頼りない上司はなにをしてくれただろう──記憶を懸命に掘り起こした。そうだ、医者を呼んでくれたはずだ。
「シャルロット、あなた、とりあえず横になった方がいいわ。あたし、お医者さまを呼んでくるから。すごい熱だもの、風邪どころじゃないかもしれない」
自らの声に動揺を感じ取って、それが余計に不安感を煽る。こういうときに限って、ピンクと白の客人もいないのだ、と歯がみしながら、まずなにを優先すべきかを思案する。シャルロットを自室まで運ぶべきかもしれない。タオルを冷やして、額に乗せてやった方がいいだろうか。それとも、なにか食べるものを用意して──いや、やはり医者を呼ぶのが先決か。
ふいに、冷たさを帯びた風が入ってきた。窓は開けていなかったはずだ。ほとんど無意識に、そちらを見やる。
「────!」
エリスンは息を飲み込んだ。悲鳴をあげたいが、声にならない。
「こうは考えられないかね、エリスン君」
シャルロットは、窓枠に腰を下ろし、悠然と足を組んでいた。運動不足の上司らしからぬアクティブさだ。風が吹き込んでくる。
「人は、本当は飛べるのだ。ただ、飛べないという思いこみが、翼を幻にしてしまっているのだよ。こうして、ここから飛び立てば、私も飛べるのかもしれない」
「ちょ……、やめなさい、シャルロット!」
こいつなら本当にやりそうだ──冗談でもなんでもなくそう判断し、エリスンが慌てて制止する。
「シャレじゃすまないわよ。ここは二階よ? と、飛べるかもしれないけど、だとしても、練習が必要だわ。物語の魔女だって、修行をしてやっと飛べるようになるのよ、そうでしょう?」
自分でもいったいなにをいっているのかと思いつつも、それでも必死に説得する。頭が残念なわりに、顔の造形は異様にいい名探偵は、青空を背景に、実に鮮やかに微笑んだ。
「私が飛び立つ瞬間を、見ていてくれたまえ」
すっくと立ち上がる。エリスンに背を向ける。
「とう!」
かけ声と共に、飛び立った。
真っ逆さまに。
「シャルロット────!」
エリスンの悲痛な叫びが、ロンドド郊外に響き渡った。