story3 世界一の名探偵 4
エリスンが目を覚ましたのは、少なくとも日の出からはずいぶん時間が経ってからだった。
カーテンの隙間から、光が差し込んでいる。わざわざ開けずとも、陽が高い位置にあることがわかる。なによりこの、ぐっすり寝たという満足感。早起きした日のそれではない。
見ると、昨夜見た体勢のままで、シャルロットが寝息をたてていた。その姿そのものに苛立ち、エリスンは立ち上がる。ソファの脇に置いてあった荷物を持ち上げ、呑気に寝こける上司の腹の上に落とした。ぐぇ、とシャルロットの口から悲鳴がこぼれる。
だが、わざわざ起こすこともなかった。エリスンはそのままソファを通りすぎ、顔を洗い、鏡の前に身を落ち着かせて、身だしなみを整える。
確認していないが、日付が変わったのだから、もう鍵は開けられているだろう。
船を出してくれない限りは帰れないかもしれないが、少なくとも、シルクハット老とワンダフルに殴りかかることはできる。腕が鳴った。どうやっていたぶってやろうか。
「なんということだ……!」
エリスンの背後から、目覚めたらしい名探偵の声がした。
「とっくに日の出を過ぎているというのに、私が世界一の名探偵だと確定していない、だと……?」
夢でも見ていたのだろうか。それとも本気で日の出と同時にゴールする気でいたのか。エリスンはいらいらと足を鳴らす。
「荷物をまとめて、さっさと出るわよ。これはショーじゃないわ、狩りよ……!」
ギラリと目を光らせた。一晩経っても、怒りは増すばかりだ。
「落ち着きたまえ、エリスン君。なにはともあれ当日になってしまったのだから、ショーとやらには出席しようではないか。このまま帰ったのでは、それこそなにをしに来たのかわからない」
「そんなの、あの礼儀知らずの犬とシルクハットの首を取りに来たんでしょ」
ほとんど怒りに我を忘れ、エリスンが即答する。シャルロットは立ち上がると、おもむろにドレッサーを開けた。なにやら物色しながらも、説得を続ける。
「だが、向こうの提示した条件に乗らないままで帰るというのは、やはりいただけない。まさか君も、逃げ帰りたいというわけではないだろう」
「それは、そうだけど……」
エリスンの勢いが弱まる。部屋のことも夕食のことも、もう過ぎたことだといってしまえばそのとおりだが、だからといって水に流す気には到底なれなかった。実力を見せつけられるものなら、すでに始まっているはずのショーに参加するぐらい、わけもないのも本当だ。だが、いいように踊らされているという不快感が、どうしてもつきまとう。
参加に踏み切るには、なにか、もう一つの要素が必要だった。エリスンの中では、意地というものがずいぶんと高い地位に居座っているのだ。
「ふむ、これだな。おお、使用後はそのまま持ち帰っていいそうだ。なかなか行き届いた心配りだな」
感心したようにシャルロットがつぶやき、ソファの上に投げるようにして衣装を置いた。
一目見て上等とわかる燕尾服、重ねられるように、ダークブルーのパーティドレス。ご丁寧に、ショールや宝石の類まで完備されているらしい。次から次へと取り出されるケースに、エリスンは目を丸くした。
「なんなの、これ」
「衣装だろう。ちゃんと、私の分とエリスン君の分とが用意されているようだ。着るかね?」
「着るわ」
エリスンは即答した。即答させるほどの、エリスンの好みど真ん中ドレスだった。
そういえば、用意した衣装を着るようにと、要項に書いてあったはずだ。これほど立派な衣類を用意するぐらいなら、部屋を二部屋とって夕食を用意しろ、と思わないでもなかったが、口には出さないことにする。食べれば忘れてしまう食事より、持ち帰られるドレスの方がよほどありがたい。
「なにしてるの、シャルロット。さっさと着替えて行くわよ」
そしてドレスの存在は、十分に、エリスンへのもう一押しとして効力を発揮した。
カギはすでに開けられていて、一歩部屋を出てしまえば、そこは戦場といってもよかった。
ドアを開けた目の前を、恐ろしいほどの勢いでなにかが飛んでいった。廊下の突き当たりでガラスの割れる音。やはり高級そうな布地のスーツに身を包んだ、髭面のナイスミドルが、どっすんどっすんと駆け抜けていく。
「待てぇ――!」
地の這うような怒号。そのまま髭は姿を消す。
天井を飾るシャンデリアは、半分が割れていた。窓の生存率も恐ろしく低い。
エリスンは、一歩下がってドアを閉めようかと本気で思った。ドレスを着た段階では上機嫌だったのだが、あまりにもサイズがぴったりだったことに、今度は気味が悪くなったのだ。しかも、外のこの状況。
ドアを閉め、できるなら、このまま何事もなかったことにしたい。そんなことは不可能なのだが。
「ここは戦場かな?」
相変わらずのテンションで、シャルロットが問う。聞かれても困ると思いながらも、エリスンは肯定した。
「きっとそうね」
ふむ、とシャルロットは腕を組んだ。持ち出してきたパイプに火を灯すと、部屋から一歩目だというのに早くも小休憩。ぷはーと吹かす。
「世界一の名探偵を決めるというからには……もっと頭脳派な展開を想像していたのだがね。いくら脳の休息を優先したために出遅れたとはいえ、この肉体派な状況はどうしたことかな」
「素直に寝坊したっていいなさいよ。――でも、そうね、おかしいわ。どうして戦ってるのかしら。宝を奪われないように、ということ?」
思いつきで口にした可能性だったが、ほかには考えられなかった。参加者は一様に、屋敷に眠るという宝を探すことを目的としているはずだ。そんな中でバトルが展開されるとすれば、それしかない。
「だとすると、スマートじゃないな。ナンセンスだ。まったく、探偵というものをばかにしているとしか――ごはっ」
かっこつけたセリフの最中で、シャルロットの身体が横に飛んだ。頬に、花瓶が直撃。
「シャルロット!」
悲鳴をあげ、おそらく窓から落としても無事――おそらくどころか実証済みだが――な探偵よりも、花瓶の出所を確認する。それは、最初にものが飛んできた方向とは反対側からの攻撃だった。投げた主が誰なのかはすぐにわかったが、抗議するどころではなかった。第二、第三の花瓶や絵画が飛んできて、エリスンはすぐに身を伏せる。
砲撃に紛れるようにして、浮いたなにかがふよふよと飛び去っていった。エリスンは眉をひそめる。
「いまの……って……」
「待ぁぁてぇぇ」
どっすんどっすんと、攻撃主の髭が続いた。
「はっはっは、もうちょっと心配してくれてもいいんじゃないかね」
「ああ、ごめんなさい」
頭のどこかで繋がりそうだった回路が、あっさり途切れる。エリスンは、シャルロットの頬にのめり込んでいた花瓶を引き剥がすと、やはり用意されていた小型のハンドバッグから、シルクのハンカチを取り出した。ちょっと考えて、もったいなかったのでそのまま戻した。血はいつか乾く。
「ともかく、このままここでのんびりと立っているのは危険なようだ。どこか安全なところに移動したいものだな」
「あたしは犬と帽子を見つけたいという気持ちがよみがえったわ」
再燃した怒りを胸に、エリスンが意見を述べる。上司を傷つけられたから、とかそういう理由では決してない。
「――なんなら、アタシと来るかい?」
唐突に、声が降ってきた。
返事をする間もなく、ドレス姿の女性が着地する。口をあんぐりと開け、エリスンは、現れた女性と降ってきた頭上とを、交互に見た。もうなにがあっても驚かないぐらいの心持ちだったが、やはり実際に人が落ちてくれば驚くもので、とっさには声も出ない。
天井では、かろうじて割れていないシャンデリアが、大きく揺れていた。
「あ、あんなところ、から?」
思わず問うと、女性は歯を見せて、豪快に笑った。黒いドレスの裾を翻し、高い位置でまとめられたサイドポニーテールを揺らすと、大きなアクションで一礼する。
「グレます隊時代に、一応修行したからね。これぐらいなら朝飯前さ。久しぶりだね、探偵、それにその助手さん?」
シャルロットとエリスンは顔を見合わせ、同時に叫んだ。
「サイポーくん!」
「ミランダさん!」
「……まあ、この際どっちでもいいけど、どっちかに統一してくれよ」
元グレます隊隊長、通称サイポー、本名ミランダは、肩をすくめて苦笑した。