story2 名探偵記憶喪失 4
ホール内のざわめきの原因を、シャルロット少年は『首飾り紛失事件』と名付けた。
事件としては、単純なものだ。出席者のなかでも群を抜く富豪の奥方、ミルリア=ヴィッシュー。彼女が身につけていた首飾りが突然紛失した、ということらしい。
ホールの主役は、いまやヴィッシュー婦人といってよかった。彼女は肉付きの良い身体を揺すりながら、まるで出席者全員が犯人だとでもいうかのように、目を三角にして怒鳴り続けていた。
「ふつうの首飾りとは違うんです! 幻の宝石、ユッケーですわよ! あのビビンビーンと並び称される、ペペロンメット時代の逸品ですわ。それが、突然、盗まれるなんて! ここの警備はどうなっているの!」
金色の髪を振り乱し、もはや威厳も何もあったものではない。夫であるロランダ=ヴィッューが、妻を落ち着かせようと近づくものの、眼光だけで黙らされてしまった。目から光線が出たに違いない。
「怖いわね。怪盗の仕業かしら。話題になってるじゃない、ほら、怪盗三百六十五面相?」
エリスンが、シャルロットの影に隠れるようにしてつぶやいた。怪盗三百六十五面相とは、ロンドドをにぎわせている大怪盗だ。『一年毎日違う顔』がキャッチフレーズ。
震えるエリスンの手を、シャルロットはそっと握った。それから、鼻を鳴らす。
「それはないな。あの怪盗は、必ず予告状を出すだろう。そんな話は聞いていないがね」
「それは、そうだけど」
エリスンにしてみれば、何か理解の及ばない、恐ろしい事件が起きた、という感覚なのだ。いつだって取り澄ましているはずの大人たちが、驚き、困惑し、顔を青くしている。そのよどんだ空気は、エリスンのような小さな娘など、容易に飲み込んでしまいそうだった。
「怪盗だとしても、所詮は人間のやることだ。エリスン君、君は何を怖がっているのかね。堂々としていればいい。それともまさか、君にはヴィッシュー婦人の首飾りを盗んだ犯人に、心当たりでも?」
「冗談でしょう」
だとしても、たちが悪い。エリスンは、ほとんど背丈の変わらないシャルロットを睨みつけた。
「だいたい、おかしいわ。怪盗でないなら、だれ? だって、よりによって、こんなところで。ここへ来る途中とか、帰りとかならともかく、盗まれたのは踊ってる最中だったっていうじゃない。ふつうは気づかれるわ」
「ふむ、君はなかなか、筋がいい。名探偵の助手に向いてるかもしれないな。私が名探偵になった暁には、ぜひ助手として来ていただきたいものだ。──いいだろう、では、情報を整理してみようか」
エリスンの手を引き、シャルロットはホール内に足を踏み入れた。そのまま壁に寄り、腕を組んでもたれかかる。出席者それぞれの様子を、ゆっくりとうかがうようにして、ちょうど状況の整理を試みているらしいパーティの主催者、ケロン=ゲロンで目を止めた。エリスンも、丸メガネの男性に注目する。ヴィッシュー婦人の隣で、彼は溢れるように汗をかきながらも、場を穏便に収めようと必死だった。
「ミズ、ヴィッシュー。ではつまり、こういうことでしょうか。あなたは、大変気に入っている首飾り──ユッケーのあしらわれた首飾りですな──をつけて、当パーティに出席された。ええ、ええ、覚えていますとも。それはみごとな輝きでした。開始の直前でしょうか、あなたと私があいさつを交わしたときには、あなたの胸元に件の首飾りが輝いていたのは、間違いありません。それが、気がついてみれば、なくなっていた、と」
「……あたしも見たわ、そういえば。お肉に負けない宝石、って思ったもの」
ぽつり、とエリスンがつぶやく。もちろん、大人たちには聞こえないように。
「私は見ていないが、かの婦人の容姿に負けないということは、よほどの大きさなのだろうな」
平然と、シャルロットが返す。冗談のつもりはないのだろうが、エリスンはこっそり笑いをこらえた。
ふくよか、という表現ではおさまらないヴィッシュー婦人の隣に並ぶと、ケロン=ゲロンは大変痩身で、わけもなく苦労性であるような印象を与えた。少なくとも、華やかさを帯びてはいない。
「そうよ、主人とダンスをする前にも、確かにあったはず。それが、ダンスを終えてみれば、なくなっていたのよ。これが泥棒の仕業でなくて、なんなのですか! そもそも、ゲロンさん、あなた主催のパーティに来たことが間違いでしたわ。なあに、この貧相な楽隊、小さなホール。ヴィッシューを馬鹿にしていまして?」
「そ、そんな、めっそうもない」
ケロン=ゲロンは小さな身体を更に小さくした。肉食獣対草食獣のようで、もう傍目にもかわいそうだ。
シャルロットがすでに彼らを見ていないのに気づき、エリスンもその視線を追う。自称未来の名探偵は、他の出席者の様子をうかがっているようだった。それに倣い、着飾った面々の顔色を見て、エリスンもあることに気づく。
「……みんな、ものすごく迷惑そうだわ……!」
エリスンは揺るぎない事実を口にした。
蒼白で、なんとか場を収めようとしているのは、ヴィッシュー婦人の周辺をとりまくごく少数だった。距離を置いている他の出席者たちは、最初こそ驚きの表情であったものの、いまではもういい加減にしてくれオーラをまとっていた。付き合ってられない、といわんばかりだ。
「ふむ、まったくだ。怪盗の存在に怯えるとか、婦人の身を心配するといった雰囲気ではないな」
「よっぽど嫌われてるのかしら、あのおばさん。好かれそうじゃないものねえ」
「日頃の行いというのは、こういうところで響くものだ」
シャルロットとエリスンは、もはやいいたい放題だ。だが実際、大人たちの多くもそんな顔をしていた。まただわ、というつぶやきすら、聞こえてくる。
とはいえ、胸中にあるであろう不満の類を、声を大にしていうものはいなかった。ヴィッシュー婦人の周辺では、警察を呼ぶといいだした婦人を、数人がなだめている。そのまま、前にもうしろにも進めず、もちろん楽隊の演奏も途絶えたままで、会場内は膠着状態に陥ってしまった。
「警察、呼ばないのね」
エリスンがつぶやいた。事件なら、呼ぶべきだ。それとも、大人の事情というものがあるのだろうか。
「ねえ、これって、もしかして……」
「ふむ」
一人で納得したかのように、シャルロットがうなずく。エリスンは素早く反応した。
「何かわかったの?」
「いや、それよりも、確かめたいことがあってね。奇妙だ、なぜだれも問わないのか。これでは、事件なのかどうかもわからないではないか。……しかたないな」
シャルロットは、肩をすくめるようにして、足を踏み出した。いつのまにか手は離れてしまっていて、エリスンは思わず呼び止めようとする。
「シャル……」
しかし、ためらった。彼は振り返ることなく、まさに渦中のヴィッシュー婦人の元へ、ずんずん歩いていってしまったのだ。
「失礼、婦人」
ヴィッシュー婦人の目の前にまで辿り着くと、幼さを感じさせない仕草で、シャルロットは美しく一礼した。
「なあに、こどもにかまっている暇はないわよ。──あら、フォームスン家の。どうしたのかしら、ぼく?」
シャルロットがフォームスン家の四男であることに気づくと、ヴィッシュー婦人はにこやかに対応した。フォームスンを、敬意を払うべき家柄だと判断したようだ。
「少々、気になることが」
シャルロットは、ヴィッシュー婦人の肉付きの良い身体を飾り付けている、パープルのドレスをそっと指した。
「そちらの、素晴らしいドレス。宝石やレースや、あらゆる装飾が施されていますね。何かが紛れ込んでも、見ただけではわからないでしょう。ボリュームもありますので」
あらそうかしら、と返し、それから婦人は眉をひそめる。いまのは褒められたのか、それとも別の意味合いがあるのか。
シャルロットの意図に気づいたらしいケロン=ゲロンが、彼を止めようとした。しかし、さらに他の大人がゲロン氏を止めた。制止すべきではない、と首を振る。
「ところで、あなたの大切な、首飾りですが……」
シャルロットは、笑顔のまま一度言葉を切ると、息を吸い込んだ。世間話をするかのような気軽さで、続ける。
「──金具が外れて、落ちて、ドレスに引っかかっいる、という可能性は?」
──しん、とホール内が静まりかえった。
ケロン=ゲロンが頭を抱えた。他の取り巻きたちは、何かひどく苦いものをたべてしまったような顔をした。遠くで様子をうかがっていた大人たちは、驚いて息を飲んだ。エリスンは、もう少しで悲鳴をあげるところだった。
この瞬間、シャルロット少年は、確かに勇者だった。
誰もが思っていてもいえない一言、それをさらりといってのけたのだ。
「な、な、なんて失礼な……!」
ヴィッシュー婦人の顔がみるみる紅潮していく。唇はわなないて、いまにもそこから炎でも吐きそうだ。
「失礼でしょうか?」
シャルロットは肩をすくめた。
「若輩にて、細かい機微がわからず、もうしわけない。ただ、あなたの胸元に、その素晴らしい宝石が輝く姿を、一刻も早く見たいと思ったのですよ、美しい婦人」
「────!」
怒ればいいのか、称賛に礼をいえばいいのか、また自分が怒りたいのかそれとも恥ずかしいのか、ヴィッシュー婦人は困惑のままに頬を赤くした。
ふん、と鼻を鳴らし、それから視線が自分に集中していることに気づくと、これでもかと裾の広がったドレスを改める。レースや飾りをそっと払うようにして──それから、さっと顔色を変えた。
その表情だけで、様子を見ていた全員に、何があったのかわかってしまった。
しかし、大人たちも、それからシャルロットも、それ見たことか、などとはいわなかった。
謝りもせず、むしろ不機嫌なままで、ヴィッシュー婦人はスカートに装飾に絡まっていた首飾りを取り上げる。何食わぬ顔で、首から提げた。
「まあ、こんなことも、あるわね」
あろうことか、つぶやいた一言がそれだった。場に不穏な空気がたちこめる。
それらすべてを払うかのように、シャルロットはにこりと微笑んだ。
「ああ、よくお似合いです、婦人」