story1 目指せ! ハッピーウェディング 1
ロンドド郊外には、モダンな作りの建物がある。デザインこそ最先端だが、積み上げられたレンガのあちこちに絡みついた蔦が、その古さを物語る。近頃では珍しくもなくなった、三階建ての建物だ。
正面から見て、入り口は三つ。一階ごとに一つだ。格安物件にもかかわらず、一階にはいまだ入居者の予定はない。この近辺で白くて丸くて浮いている謎の生物が目撃されるからだとか、二階に常識の通じない困ったさんが住んでいるからだとか……理由は様々囁かれているが、定かではない。
二階の扉には、「フォームスン探偵社」なる看板が掲げられていた。その下には、堂々と「名探偵在中」の文字。
「やっとできたのかね、エリスン君」
大きな肘掛けイスに深々と腰を下ろし、パイプを吹かしながら、自称名探偵シャルロット=フォームスンは片眉を跳ね上げた。
あくまで、自称、名探偵。今後、自称という注釈が取り払われる予定は皆無だ。
金に近い茶の髪に、緑の瞳。引き締まった体格、甘いマスク。黙っていれば思慮深いという形容もできようものだが、黙っていることがないので常に残念な結果に終わっている。
「お待たせして悪かったわね。まったくもう、もう二度と作らないわ」
不機嫌な声で言葉を返したのは、シャルロットの助手、エリスン=ジョッシュだ。美しいブロンドに抜群のプロポーション、シャルロットと並べば実に知的な印象を与えるが、真実は闇の中。建物の三階に住み着き、助手として働き始めて四年になる。
室内だというのに、バイオレットローズのドレスに身を包んだエリスンは、すでに準備万端のテーブルの上に、ドカンとホールケーキを置いた。焼きたてのスポンジケーキだ。甘い香りが、室内に漂う。
「いいかげん、空腹で腹部と背部の皮膚がくっつきそうなのだがね。なぜまた、朝からケーキ作りを? ケーキが完成するまでは朝食も昼食も抜きなどと、パタモンガーも真っ青だ」
悪の大怪獣パタモンガー。『週刊幼児』にて絶賛連載中の、こども向け漫画。
「作ってみたくなったのよ。まさか、昼過ぎまでかかるなんて思わないじゃない。食べるのはあたしたち二人しかいないんだから、食事なんてしてたらケーキをもてあましちゃうでしょう。文句いうぐらいなら、手伝えばいいのよ」
「はっはっは、手伝ったら手伝ったで怒るだろう、君は。菓子作りに関しては、口出しだってしないさ」
肩をすくめ、シャルロットはパイプの火を消した。イスを回して立ち上がり、テーブルに移る。
頬に生クリームをくっつけたエリスンが、ぶつぶつを悪態をつきながらも、ケーキ作成の仕上げに取りかかっていた。焼きたてアツアツのケーキに、塗りたくられる生クリーム。塗った端から溶けている。
しかし宣言通り、シャルロットは口出しをしなかった。
溶けていく生クリームを、ちょっともったいないとは思ったが。一般的に知られるケーキではなく、なにか独自のものを作り上げようとしているのだろうと好解釈。
「できたわ……!」
達成感に満ちた声で、エリスンがつぶやいた。
アツアツスポンジケーキの生クリームがけ、季節のイチゴと共に。
見た目はアレだけど、きっと味はおいしいから──そんなことをいいながら、ざっくり包丁を入れる。スポンジケーキの中央から、トロリと液体が流れた。
生焼け。
「これは……! まさかの、フォンダンケーキ!」
シャルロットは本気だ。決して皮肉ではない。
「あ、味はいいわよ、きっと」
それでもエリスンは諦めなかった。タネが泡立つまでかき混ぜようと奮闘した数時間──結局泡立たなくてそのまま焼いたが、それでも全身全霊で頑張ったのだ──あの努力のときを、無駄だったなどと思いたくはない。
六分の一を皿に乗せ、シャルロットの前に差し出す。その隣に、ブラックのコーヒーも並べた。
「どうぞ、シャルロット」
足りない何かを補うかのように、いつもより極上の笑顔。
「では、いただこう」
まったく物怖じせず、シャルロットは未知の菓子にフォークを突き刺した。
パクリ。
ほとばしる衝撃。
「およそケーキとは思えない硬さ……裏腹にまったりと口内を潤すフォンダン部分……! くどいばかりの生クリームソースがアクセントとして全体を包んでいる! 新しい、新しい味だ……! おかわり!」
決して皮肉ではない。皮肉ではおかわりできない。
その反応に期待を膨らませ、エリスンもほんの少しを口に運んだ。
ほとばしる衝撃。
そっと、フォークを置いた。
エリスンの皿と、まだ三分の二を乗せた大皿を、シャルロットに突き出した。
「……あたしの分、あげるわ」
「なぜだね、これほどのケーキを。まさかダイエットかな? まったく、女性は大変だ」
喜々として、シャルロットはケーキらしき物体を、次々と腹に放り込んでいく。
エリスンは立ち上がると、窓を開け放った。浮かぶ雲に目を細める。胃薬のストックはあっただろうかとちらりと考えたが、あらゆる面で鈍い上司が腹をこわしたことは一度もないので、恐らくなくとも平気だろう。そんなことより、むなしく過ぎてしまった数時間に、心の涙でさようなら。
「あら?」
ふと視線を落として、眉をひそめた。何やら、白くて丸くて浮いているものが、通りを爆走してくるのが見える。
フォームスン探偵社の馴染み客だ。いつも共にいるはずのピンクワンピースの姿は見えないが、こちらに向かってくるということは、何か用があるということなのだろう。
「シャルロット、ジョニーさんが来るわ。キャサリンさんはいないみたいだけど」
「ほほう? 単独でみえるとは、珍しいな」
顔中を溶けた生クリームでべたべたにしたシャルロットが、それでも知的に眉を上げる。無言でタオルを手渡すと、エリスンは来客に備えた。あの生物は単独では扉を開けられない。ノブに手をかけ、スタンバイオーケー。
チリンチリンチリン、と急かすような呼び鈴の音。エリスンは扉を押し開けた。
「いらっしゃい、ジョニーさ……」
「ヒュイー!」
扉が開ききるのも待たず、白くて丸くて浮いている生物は、弾丸のように飛び込んできた。あまりの勢いにうまく止まれず、食卓でケーキを征服し終えたシャルロットの頭に激突する。漫画的に星が散った。
「ヒュィ!」
「痛いではないか、ジョニーさん。これ以上私が天才になったらどうするんだね」
「ヒュヒュィ」
ジョニーはもうしわけなさそうに身を縮ませた。身、といっても、全身が丸ごと顔のような一頭身なのだが。
「だいじょうぶですか、ジョニーさん。そんなに急いで、いったい何が……」
扉を閉めて、エリスンがジョニーのみに気を配る。いやあ、頭が痛いなあ、などとシャルロットがわざとらしく強調。
「良かった、だいじょうぶそうですね」
鮮やかにスルー。
咳払いを一つして、シャルロットは少し冷めたコーヒーで喉を潤した。悠然と腕を組み、テーブルの上にちょこんと座るジョニーを見やる。
いつもどおり、白くて丸い。つぶらな瞳は今日も今日とてキラキラしている。しかし、キラキラ度はいつもより低かった。どう見ても元気がない。
「キャサリンさんが一緒ではないとは、珍しいな。さては……何か、あったのではないかな? はっはっは、なあに、簡単な推理さ!」
「何があったんです?」
ミルクを差し出して、エリスンもイスに座る。二つの目に見つめられ、ジョニーはうつむいた。
その瞳に、涙が溢れ出す。ぽたぽたとこぼれ落ち、テーブルクロスを濡らした。
涙って出るんだー、と探偵とその助手は、密かに感動する。謎の生物の謎に、ほんの少し近づけた瞬間。
「ジョニーさん、泣いていたのでは、わかりませんわ。あたしたちにだって、何かできることがあるかもしれません。話していただけませんか」
「うむ、さあ、涙を拭いて」
偉そうに胸を張って、シャルロットは生クリームまみれのタオルを差し出す。エリスンがそれを奪い取り、代わりに自身のハンカチを差し出した。銀ラメ入りのシルクハンカチ、『週刊ゴージャス』の応募者全員サービス品だ。
「ヒュイ」
受け取らず、全身をハンカチに押しつける。上下運動で涙を拭って、ジョニーは赤く腫れた瞳で二人を見た。
意を決したように、口を開く。
息を吸い込んで、告げた。
「ヒュヒュィ、ヒュイー、ヒュイ。ヒュヒュヒュゥ、ヒュイ、ヒュイヒュイ。ヒュイヒュイ、ヒュイー! ヒュイヒュゥ、ヒュユユ、ヒュイー。ヒュイヒュイヒュイ、ヒュヒュゥ、ヒュイ」
静かな沈黙が、訪れた。
シャルロットは立ち上がり、肘掛けイスに座り直すと、パイプに火をつけた。食後の一服。
エリスンは、ジョニーから目を逸らした。
高い。
あまりにも高い、言語の壁。
「ヒュイ?」
全身を傾けて、ジョニーが不思議そうにエリスンを見る。
「そ、そんな目で見ないでください……──ていうかなんで逃げてるの、シャルロット! 名探偵として、ジョニーさんの伝えたいことを解読しなさいよ!」
「はっはっは、推理でどうにかなる次元を越えているとは思わないかね、エリスン君」
「思うけど!」
憤然と床を蹴りつけて、それでも無責任な上司のようにその場を離れることもできず、エリスンは白い生物に視線を戻した。
何かを伝えようとしているのは確かなようだ。しかし、言葉はわからない。文字で伝えるという手も仕えないのは、立証済み。
「ヒュイィ……」
ジョニーは、大きな瞳を伏せた。自身の言葉が伝わっていないことを知っているのかいないのか、背中の羽根あたりをいじり始める。短い手を伸ばし、羽根と身体の隙間から、白い封筒を取り出した。
「え、いま、どこにしまってました? ポケット?」
エリスンが身を乗り出す。
「エリスン君、それは、手紙かな?」
シャルロットも食卓に戻ってきた。
「シャルロット、いま、ジョニーさん、このうしろから…………いや、いいわ。それより、こっちね」
「ヒュヒュィ」
差し出されたので、受け取った。どこにでもある、白い封筒だ。ジョニーへ、とものすごい丸文字。封もされていない。
「キャサリンさんの字だな」
「そうね。……これ、あたしたちが、読んでも?」
「ヒュイ」
ジョニーは全身でうなずいた。
恐る恐る、エリスンは封筒の中から便せんを取りだした。見たいような、見てはいけないような。
シャルロットも、エリスンの頭上から便せんをのぞき込む。
予想に反して、小さなメモに過ぎなかったそれには、簡潔にただ一文が記されていた。
『わたし、グレます』
それは、やはりどう見ても、キャサリンの文字だった。
ジョニーの目から、再び涙が溢れ出す。
「グレ……ます?」
「ふむ、これは事件の香りだな」
探偵とその助手は、顔を見合わせた。