最終話
「トマの話って何?」
「お前の師匠、帰ってきたらしいな」
「うん」
「聞いたけど、店を移すんだって?」
もうトマは聞いてしまっていた。わたしの口からちゃんと、告げたかったのに。
「そうなの。港町で新しくお店を出すんだって、師匠はりきっていて」
「ミラナも行くのか?」
「トマ、あのね」
答えようとしたのに、トマは「聞きたくねえ」と突っぱねた。問いかけてきたのはそちら側なのに、わたしは何としても伝えたくて「聞いて!」と声を張り上げた。
「何だよ」
「確かにお店は港町にもできるけど、こちらの店は、閉めないことにしてもらった」
「それって」
「師匠に、頼んだの。店は閉めないで欲しいって。それで、わたしに任せてくださいって頼んだ。だから、今日は挨拶回りなんだ」
その前に真っ先にトマに伝えたかった。
「何だよ、俺はあんたがいなくなると思って」
トマは顔を歪ませた。でも、横にそらすと、手で顔を覆ってしまった。泣いているのかと心配になったけれど、手はすぐに下ろされた。手すりを掴む。強く掴みすぎて、指先が白くなっているのを見てしまった。そして、その指に赤さが戻ったとき、トマは話し始めた。
「はじめ、あんたに出会ったとき、臭くて仕方なかった。噂通りの臭い店だったから、本当に嫌なことを任されたと思った」
「かなり悪態ついていたし、ね」
「それにこんな細い腕で薬なんかできるのかよと思って、心配で作っているところを見た」
心配だったんだ。
「でも、あんたは真剣に薬を作っていた。口元は笑っててさ。鼻歌でも歌いそうだった」
“歌いそうだから”、歌ったわけじゃないよね。無自覚だった。
「あんなに嫌だったのにな」遠い目をしている。
「いつの間にか、あんたに会うために店に行くようになった」
そっぽを向いて、顔も真っ赤にして。
「どうせあんたは自分の師匠みたいな包容力のある優しい男がいいんだろ……もしくは、ドミナスみたいな」
すねたようにぐちぐち言っている。わたしも同じだ。アリーサさんに嫉妬して、そんなことばかり考えた。きっと、視野が狭くなっていたからかもしれない。余計なものを削ぎ落とせば、トマに伝えたい言葉はひとことなのに。
「わたしはトマが好き」
トマの左肩に頭突きした。熱くなった顔を見せたくない。
「嘘だろ」
「何で、嘘つかなきゃいけないの?」
「何で、俺なんか、その、好きなんだよ?」
口の悪いトマが、本当は優しいことを知っている。重いものを持ってくれたり、心配で見守ろうとしたり。先ほどでも自分で暴露していた。わたしの話にも耳を貸してくれた。笑わないで聞いてくれた。
「言いたくねえ」トマの真似をしてみる。
「あんたな」本当に怒り出しそうな雰囲気なので、茶化すのはこのくらいにしよう。
「わたしはトマが本当は真面目なところとか、夢があるところとか、不器用で優しいところとか、全部好き。自信がないなら疑ってもいいよ。でも、これからはちゃんと行動でしめすから」
トマのどこが好きなのか、わたしがしめしてみせる。恋とかよくわからないけれど、トマを見ていたら、何とかできそうな気がした。
「疑わねえよ。俺だってミラナが好きだ」
やっと、トマの笑顔が見られた。眉間のシワも無くなって、子どもみたいに笑う。腰を抱き寄せられて、腕のなかに閉じこめられる。
「俺もしめすから」
唇が降ってきた。触れるだけの優しい口付けを、わたしは受け止める。ここが街中だということを忘れた。喧騒が戻ってきた時、わたしとトマは顔を見合わせて赤くした。
「挨拶回り、俺も行っていいか?」
「えっ? 何で」
「ま、まあ、将来的には……そういう関係になるわけだし」
もしかして、わたしの旦那様とかそういう話なのかもしれない。
「まだ、気が早いと思うけど」
「そうか」ちょっと、落ちこむトマが可愛そうに見えてきた。
「まずは師匠に会ってくれる?」
いい提案だと思ったのに、トマは目を泳がせた。
「実はもう会った。会ったから、店が移る話を聞いて。本当はミラナに会って、ちゃんと俺の気持ちを伝えるつもりだった。こんな感じになっちまったけど……あっ!」
「どうしたの?」
「やべえ、あんたの師匠に挨拶もしねえで飛び出しちまった!」
わたしの行き先をたずねた後、慌てて店を飛び出したらしい。「どうすんだよ、印象最悪じゃねえか」トマが落ち着きなくうろうろしだす。わたしは笑った。何笑ってんだよって怒り出すかもしれない。でも、しあわせすぎてほほえんだ。
「ミラナ」
トマは予想に反して、「お前のそれにやられたんだよ」とため息まじりに言った。怒ってはいないらしい。
「それって、何?」
「言いたくねえ」
トマはわたしを抱き締めて、鼻をすすった。「くせえけど、いい匂い」とか何とか言いながら。
おわり
◆おまけ(トマ視点)
こいつは自覚が足りない。どれだけ臭いを漂わせても、遠くで見る分には、結構、いや、かなり可愛い。
はじめて会ったとき、驚いた。でもそんな気持ちを悟られたくなくて、「くせえ」と言った。本当はミラナに向けてじゃない。店自体に言いたかったのに、俺はどうもそういう気づかいが下手らしい。
二度目に会ったときなんか、完全に怒らせちまった。俺は地雷を踏みつけて自爆したようだ。いつもなら誰が相手であろうと、地雷の上であろうと、平気で歩いて来たのに。ミラナ相手だと違う。めちゃくちゃ落ちこんだ。というか、落ちた。考えのなかに。
何で怒らせたのかを深く考えていくうちに、俺のこれまでの人生まで振り返ってしまった。親が死んで、ひとりぼっちになった俺。ギルドに入る前の生活は、悲惨だった。物ごいをして生きていた。親がいねえって子どもが泣けば、大人は金をくれるんだ。
ある日、母ちゃんが好きだった紅茶の香りが風に乗って、俺のもとにやってきた。香りに誘われたのか、今でもわからない。でも、確かに俺は香りをたどって、酒場に入った。紅茶をすするドミナスの隣の席に座った。ガキが酒場に来るなんて、とか。小汚いガキだ、とか。ドミナスがとがめることもない。
「きみ、今、暇かな?」
たったひとことだった。ガキだとか関係なく仕事をもらった。俺はいつしか、ギルドに所属するようになった。
そういやそうだった。振り返りの途中で見つけた。俺は自分のギルドが作りたい。俺みたいなガキを雇って、そいつらが独立するまで育て上げる。ドミナスが俺にしてくれたように。ガキは次のギルドマスターになって……続いていく。
その話をした時は、恥ずかしさで死ぬかと思ったが、ミラナが自分の話をしてくれた時は嬉しかった。少しは心を開いてくれたってことだろう。
アリーサにミラナの存在を知られたときには絶望しかなかった。相棒のアリーサはドミナスの弟子みたいなもんで、腕っぷしが強い。魔王だ。魔王に腕を絞られ、無理やり店まで案内させられた。案の定、ミラナは静かで礼儀正しかった。つまらないほどに。
その日を境にして、ミラナは変わった。身なりを気にしているらしく、ますます輝いて見えた。俺はミラナの変わりように戸惑った。そして、あれだけ臭いと思っていた店から出たくないと思うようになった。俺は何度となく、ミラナを抱き締めたくなって、その度に自分を否定した。
――ミラナが俺を好きになるわけがない。ミラナが好きになるのは、もっと大人で落ち着いた男だ。悔しいがドミナスや、ミラナの師匠みたいな男が良いのだろう。でも考えると、何でかこう、胸がもやもやした。かきむしりたくなった。
ここまで来てようやく気づいた。俺はミラナが好きだ。初めて、人を好きになった。ただ、それを伝えるには勇気が足りなかった。
噂が流れた。ミラナの師匠が帰ってきた話だ。俺はいつものように店まで行ったのだが、入る勇気がなかった。ミラナが大事に育てられてきたことは、彼女との会話でわかっている。そして、こんな俺がふさわしくないこともわかっている。だとしても、ミラナに会いたい。
ちっさい勇気を持って、店の扉を開けた。出てきた知らない顔に、ちっさい勇気はしぼんでマットに落ちた。
「おや、お客さんですか?」
細身の体に丸メガネ。ミラナが着るような白衣と店の臭いを身につけている。人の良さそうな顔をしているが、安心はできない。いつ俺を排除してくるかはわからない。他人というのはそういうもんだ。
「いや、あの」言葉と一緒に戸惑った。
「あ、きみはもしかして、トマ・シビリルですか?」
「はい、そうです」
ミラナは俺の話をしていたらしい。緊張は少し解けたものの、どういった話をしたのか、気になった。いい話じゃないのは何となくわかる。
「わたしはドナート。ミラナの父といってもいいでしょう」
握手まで求められて、俺はおずおずと手を差し出した。
ミラナの父――ドナートさんは客間まで通してくれた。俺の好きなりんご酒を出してくれる。紅茶は母ちゃんの香りを思い出すから、苦手だった。だけど、紅茶には罪はない。ミラナが出してくれるので飲めるようになった。
だが、今はりんご酒がありがたい。冷めていく体に熱を入れたかった。熱が入れば、頭が働くだろうし。さっそく何個か思いついた。
「ミラナは出かけているんですか?」
「ええ、今日は挨拶回りに。本当はわたしも行かなければならないのですが、移転の準備で忙しいもので」
「移転?」このときばかりは変な顔をしていたと思う。
「ああ、港町に新しい店を構えるんです」
「それはミラナも行くんですか!」
俺がぐずぐずしている間に、ミラナは行っちまうのか。伝える前にいなくなっちまうのか。そんなことを考えたくもなくて、俺は感情のまま叫んでいた。
「いや……」
「ミラナはどこに!」
「ドミナスのところのギルド……」
ドナートさんの話を最後まで聞く前に店を飛び出していた。ミラナが俺の知らないところに行ってしまう。速く見つけて、話をしなければ。
「行かないでくれ」
「好きなんだ」
「頼む」
俺は走りながら、ずっとそればかりを頭のなかで繰り返していた。柄にもねえのに、一生懸命、走って、ギルドに着いた。そこにはミラナがいた。紅茶の香りを漂わせて、俺の好きなミラナがいた。
おわり