34. グッデイトゥダイ2
聖都サンハントラスの聖区にある、聖王家の王宮は多分人類国家の建造物で最も古く、そして最も巨大だ。
三千年前からひたすら増改築を繰り返した結果だった。
それはまるで無限に成長し続ける生命のようだった。
「だからといって大きすぎるのも考えものです」
リタはベッドに突っ伏して呟く。
広すぎて、謁見の間や他人の執務室と自室を往復することさえ億劫になる。
「私の負け、ということなのでしょうね」
リタの最大のアドバンテージは、彼女自身に価値がないことだった。
王位継承権が低く、政治的影響力もたいしてない。注目されていないからこそ好きに動けた。
それが兄のイブライムが単純な政略結婚の道具として目をつけてしまった。
ということだけが、本当に理由なのか。
「今更私に興味を持つ理由が分からない上に、ハレーブの王が私を妻に迎える理由がありません」
ハレーブの王は既に五十に手が届きそうな歳の頃だ。
優秀な人だと聞いているし、今更妻などを娶るとその子供の継承権の問題で間違いなく国内問題を引き起こす。
特にリタは聖王国の血筋で、もし子供が生まれたならあらゆる継承順位を押しのけて、王に据えようとする派閥が起きてもおかしくない。
リタを妻に迎えることは相当に危険なのだ。
外見的魅力という点でも、リタのような小娘を相手に興味を持つとは思えなかった。
……ハレーブの王が特殊な趣味を持っているのでなければ。
ぞわぞわっと背筋に悪寒が走る。
それはない、と思いたい。
まあ、リタに選択の自由はない。それが王族に生まれたものの責務だと理解もしている。
とは言え、
「せめて、歳の近い方が良かった……」
そう、例えばクリスくらいの。
思わず、考えないようにしていたあの灰色の髪を持つ女性の顔を思い出して、ムッとなる。
「なぜ私があんな人のことを気にかけなければならないのですか」
思い出すと、何やら腹が立ってきた。
「何ですか、男って。元男って」
枕元に置いてあった動物のぬいぐるみをぽすぽすと叩く。
ロレットの妄言だと思っていた言葉が、オムニキスの勇者が迎えに来た上、事情を聞かされれば信じるしかなかった。
めまいがしそうな事実だが、クリスはかつて男だったということだ。
「私、裸まで見られたのですよ」
言っていて顔が熱くなる。
羞恥で身体が焼けてしまいそうだった。
クリスを女性だと思っていたときはなんとも思わなかったのに、男だったと聞かされた途端、一緒にお風呂に入った時のことなどが思い出されて仕方がない。
「まるっきり痴女ではないですか」
リタは旅先で誰かとあんな距離感で温泉など入ったことがなかったから、はしゃいでいたのだ。
クリスの反応が初で可愛らしかったからついからかってしまったが、クリスから見れば淫らに誘う女に見えたのではないか。
嫌だ。
そんな風に思われたくなかった。
「クリスが悪いのです」
ぬいぐるみの頬をつまみながら言う。
「クリスが断れば、そうでなくても私に事情を言ってくれれば私は、」
私は、なんだろう。
クリスが本当に最初から、自分は元男だと言っていたとして信じることが出来ただろうか。
思う。
最初からクリスはリタに遠慮していた。
温泉のときもそうだ。クリスは最初、リタと一緒に温泉に入ることを断ったのだ。
その退路を断ったのはリタだった。
それにリタ自身、クリスが何か事情を抱えていることには気づいていた。
クリスの身体しかり、生理のことしかり、あの人はしっかりしているようでどこか抜けている。
それが男だったから、というのは予想外もいいところだったけれど。
「相談でもなんでも良かったんです」
頼ってほしかった。
ぬいぐるみをむにむにといじる。
クリスが女性になったのは、リタと出会う直前だったとあとから聞いた。
なら、女性としての立ち居振る舞いに戸惑うことも多かったはずだ。
「なんでも良かったんですよ……」
ぬいぐるみをいじる手が止まる。
「裸まで見たのですから、せ、せ、せ、責任を取ってください」
ぬいぐるみのつぶらな瞳を見て言う。別にクリスに言っているわけでもないのに、気恥ずかしい。
貞操観念から言って、女性の裸を見れば男性は相応の対応が求められることになる。一緒に風呂まで入っていれば何をか言わんやである。
いやでも待て。
クリスは元男であって、今は女性だ。少なくとも身体は。
なら、一緒にお風呂に入ったりするのも普通だ。
クリスは別に不埒なことをしていたわけではなくなる。
何に怒っていたのかわからなくなってきた。
「そもそも、クリスにはもう会えないのですよ」
ため息をつく。
意味のない葛藤をうだうだとベッドの上で続けていただけだ。
勇者の仲間なら、聖区の中でも何かと理由を付けて会えたかもしれなかった。
だが、リタ自身がもう聖王家の人間ではなくなる。
それに、オムニキスの勇者にとってもクリスは大事な人だったのだと、あの表情と焦りようを見れば分かる。
「私は精々一ヶ月程度も一緒にはいなかったのですから」
クリスには帰る場所があって、リタと一緒にいる理由もない。
冷静になると、異国へ一人で嫁ぐ孤独のほうが堪えた。
ベッドに横になる。
「クリス……」
ぬいぐるみを胸に抱く。
「何をぶつぶつ言っているんだ」
ガバっと跳ね起きる。
呆れた顔をした兄が部屋に立っていた。
「ななななな、」
なぜ部屋の中に、という言葉が声にならない。
「何度も呼んだが出てこないので、メイドが気にかけて開けてくれただけだ」
そう言うイブライムの隣でメイドのミアが申し訳無さそうに頭を下げていた。
「全く、想い人か何かは知らないが、せめて返事くらいはしろ」
まさか、
ばっ、とミアの方を見る。
随分と付き合いの長いメイドが、顔を赤くしてそっと目をそらしていた。
「死にます」
窓を開ける。
気持ちがいいほどの晴天だった。
多分、死ぬには良い日だった。
「おい馬鹿やめろ、まじで死ぬぞ」
「姫様、落ち着いてください。年頃の女性なら普通のことです!」
「一生の恥です。止めないでください」
「止めるわ!」「止めます!」




