30. 立ち塞がるもの
「お兄様が何をおっしゃっているのかわかりません」
兄と呼んだ青年から逃げるように、リタが一歩後ずさった。
その手がクリスの服の袖を掴んでいた。
「お遊びは終わりと言ったんだ。一度で言葉の意味すらわからんのか、愚妹め」
青年が吐き捨てるように言う。
怯えるようにリタが顔を伏せる。
「そのような言葉だけで分かるはずがないでしょう」
クリスはリタをかばうように言う。
「大体、突然出てきて、誰なんですか貴方は」
青年が眉をひそめる。
ちっ、と舌打ちすると、青年が口を開いた。
「イブライム・ディ・アダスン・アーリアである」
イブライム、と聞いて、その名に覚えがあった。
聖王国の王位継承権でそれなりに上の方の人物のはずだった。
だから、それなりの歳の人物を想像していたのだが、思っていたよりもずいぶんと若い。
クリスとさほど変わらないのではないかと思える。
「私の実の兄です」
リタが家族の紹介と言うには浮かない顔で言う。
リタのその様子が気がかりだった。
イブライムは険しい顔のままリタに告げる。
「リタリア、貴様を妻に、とハレーブの王が言ってきた」
リタがその言葉を聞いて動揺している。
「私を妻に?」
「聖王家の人間が外に出ることは珍しいが、まったくなかったわけではない」
「それは、そうですが……」
リタが、ちらっとクリスを見る。
リタの声が沈んでいるのが分かる。
彼女にとっても寝耳に水で、好ましくない出来事なのだ。
「貴様には、これから戻って婚姻の準備をしてもらう」
「なっ」
唐突過ぎる話にクリスは目をむく。
王族の婚姻は多分に政治的なものが含まれるが、それにしても横暴だった。
リタも同じように考えたようで、問いかける。
「なぜそのような話が進んでいるのでしょうか。私は何も遊びでこんなところにいるわけではありません」
イブライムは指で頭を叩く。
まるで苛ついているようだった。
「愚かな妹よ。ハレーブと言ってなぜわからん」
リタが思案顔になる。
クリスも少し考えを巡らせる。ハレーブといえば、西方の国だ。
資源が豊富で、鉄などを輸出していたという覚えがある。だが、それ以上に、
「まさか、西方戦線を引き合いに出されたのですか」
リタが信じられないというように、口にする。
「今のままでは不満を押さえつけておけぬ、とのことだ。ハレーブのみならず、戦線を抱え込んでいるオランリア共和国やその他の西方諸国同じ意見を表明している」
リタが懸念していた厭戦感情が、今まさに問題となっていた。
前線から離れすぎた聖王国は他国の国民感情に対処できずに、後手後手に回っている。
リタも苦い顔となっていた。
「つまり、私は錦の御旗というわけですか」
「それで数年は持つだろう」
つまり、リタに人質兼体の良い偶像になれということだった。
聖王国は他国に出血を強いてきた。それが今度は、その出血や信頼を盾に、相応の姿勢を見せろと脅されているのだ。
「俺が動いても良かったんじゃないの」
ずっと黙っていた神官服の少年が、口を開いた。
仮にも王位継承権を持つイブライムを相手に、気安すぎる口調だった。
クリスは彼を聖王国で見たことがあった。
「勇者が解決できる問題ではない。西方の人間の反対するものを残らず切って捨てるつもりか」
「お望みとあらば」
嫌な笑みだった。
彼の、勇者にあるまじき残虐性が垣間見えるから、クリスはこの勇者のことが苦手だった。
「馬鹿め、できるわけがないだろう」
「ちぇ、つまんないな」
そう言いながら、気にした風もない。
人類の守護者のはずの勇者が、人を殺す算段をしていた。
アインたちも、驚きで声をなくしていた。勇者のイメージは、絶対的な人間の味方だからだ。
「事情は説明してやった。来い」
イブライムはリタに手を差し出すこともしない。
リタが付いてきて当然だと思っているのだ。
クリスはそのことが無性に頭にきた。
だから、リタの手を握って引き止めていた。
リタが、クリスを仰ぎ見る。その目には迷いや、怯えがある。
兄の存在が恐怖となっているのだとわかった。
リタはリタ自身の意思で行動してよいのだと、示してやりたかった。
少し頭を下げて、リタの耳元でささやく。
「私は、絶対に貴女の味方です、リタ」
リタの手を強く握る。少しでもそれで安心してくれればよかった。
リタが呆気に取られたように、クリスの顔をみつめかえす。
それに頷いて返す。
リタは少し照れたように髪をなでたあと、微笑む。
彼女の上げられた顔の視線の先には、イブライムがいる。
「私は、行きません」
既に背中を向けていたイブライムが振り返った。
「今なら聞かなかったことにしてやろう、愚妹」
「行かないと言いました、お兄様」
イブライムが首をふる。心底呆れたというようだった。
「それほど愚かだったか」
リタが強くクリスの手を握り返す。
リタの信頼が感じられた。
「私が嫁いだところで、時間稼ぎにしかならないではありませんか」
リタの言葉は正しい。
戦線が撤収しない限り、西方諸国の不満は解消しない。
「なぜ、根本的な問題を解決しようとしないのですか」
イブライムはリタの糾弾にも堪えた様子がない。
「ならば、貴様には何か良い案があるとでも? まさか、竜族との講和などという、荒唐無稽の夢物語ではあるまいな」
「なぜ、そう決めつけるのですか」
「いや、流石にそれは無理でしょ」
神官服の少年が、無邪気を装った声で言う。
まるで嘲笑するようだった。
「竜族の過激派は、人間をこの世界から排除したいんだよ。交渉の余地なんかあるわけ無いって」
「そんな竜だけではないはずです」
「穏健派は、過激派より多数なのに積極的に止める理由がないから、介入してこないんだって気づかない? 彼らにとっては過激派の、」
「それ以上は言うな、ロレット」
イブライムが少年の言葉を静止する。
ロレットと呼ばれた少年が、疑問を口にする。
「え、イブライムはもしかして、妹に本当に何も教えてないの」
「黙れと言った」
イブライムの言葉に口をとがらせる。
「はいはい、わかりましたよ」
リタとクリスは困惑するしかない。
「お兄様は何か知っておられるのですか」
「貴様が知る必要はない、愚妹」
イブライムはそう言うと苛立ち紛れにため息をつく。
「この無為な問答自体が面倒だ。付いて来ぬというのなら、強引に連れ帰るまでだ」
そして、一声、
「ロレット・イーディズィよ、その愚妹を連れ帰れ」
「りょーかい」
軽快な声が聞こえたかと思うと、少年の姿がかき消えた。
金属が砕ける音がする。
クリスが振り抜いた剣を、ロレットの剣が打ち砕いたのだ。
「へえ」
ロレットが面白いものでも見たという顔をしている。
クリスは砕けた剣の柄を投げ捨てて、かつて男だったときに使っていた剣を引き抜く。
地味だが、拵えの良いこちらの剣なら、聖剣とも打ち合えるはずだった。
「んー? その剣、なんか見覚えがあるんだけど」
「気の所為でしょう」
言いながら、ロレットの懐に飛び込む。
振り抜いた剣が、安々と受け止められる。
「イーディズィの勇者がこんなところで何をしているのですか」
「いやいや、むしろイーディズィの勇者って昔からこんなことばっかりだよ」
笑いながら、弾き飛ばされる。
さらにロレットの手から《雷撃》の術式が十重展開。
聖剣の魔力量で強引に押し切られかねない物量だった。
「反則、に過ぎる」
《噴出》の術式を連続作動して、どうにかこうにか射線からにげる。
追撃が来ない。
ロレットが感心したように、クリスのことを見ている。
「へえ、まともに打ち合えた人間は久しぶりだ。すごいね、それなりに有名な人なのかな」
明らかになめられていた。
イブライムも苦い顔をしている。
「遊ぶな」
「小言ばっかり言われるとやる気が下がるんだけど」
ロレットはロレットでうんざりした顔をしていた。
「まあ、さっさと終わらせるか」
ロレットの姿が、また消える。
どうにか、剣で受ける。
「あれ、砕けるとおもったんだけど。もしかして、即席で強度を上げたの」
余裕のある顔で品評までされていた。
術式が展開しているのが見える。防御、
後頭部から、衝撃がきた。
なぜ、と思うまもなく、今度は顎に衝撃。
吹き飛ばされる。
脳が揺れていた。意識が怪しい。
ロレットが何かを話しているのが聞こえる。
「次元術式ならどこからでも攻撃可能なんだよね、って聞こえてないかな」
まずい、と思う間もなく、クリスの意識は闇に塗りつぶされつつあった。




