29. 追手
「結局、エルフとはほとんど会えなかったな」
落胆するように、ナセルが言う。アリゼが慰めるように、その頭をぽんぽんと叩いていた。
六人は早々にエルフの森を出ることにしていた。
ここは所詮、通過点でしかないのだ。
「でも、少し残念でしたね、クリス。――クリス?」
「っ、すみません。何でしたか、リタ」
弾かれるように、クリスはリタに返事をする。
「大丈夫ですか?」
「えっと、何のことでしょうか」
「ぼーっとしていたでしょう。何か悩み事でもありましたか」
「悩み事というわけではないのですが……」
昨日の水浴びが刺激が強すぎた、と言えるわけがない。
色々と今までの常識というか自意識みたいなものが折れた気分だった。
月経の衝撃も合わさって、ここ数日で自分が男という意識は本当に意味がないものだと思い知らされた。
「本当の自分って何なんでしょうね」
「何を言っているんですか!?」
クリスがぼんやりとした口調で呟いた言葉に、リタが衝撃を受けていた。
ウェハを除いた三人が、生暖かい目で二人を見ている。
「誰しもそういう病気にかかる時期があるんだよ」
「本来は思春期と言うか、まあ、クリスの場合は少し遅い気がするが」
「後から思い返すと、辛い思い出だがな……」
ナセルの言葉に、アリゼがにやあっと嫌な笑いを浮かべる。
「あんた、昔は大魔術師になるんだーっつって、裏紙にあれこれ落書きしたり、眼帯買ってきたり――」
「やめろおおおおお」
ナセルがアリゼの口を、手で慌てて塞ぐ。
リタはよく意味がわからなかったようで、首をかしげていた。
クリスは意味は分かったが、思春期特有の病と誤解されているようで苦笑するしかない。
「クリスは病気なのですか」
リタが不安げに、クリスを見上げる。
「違いますよ。健康そのものです」
最近熱で倒れてしまったから、そのことを思い出したのかもしれなかった。
心配ない、というようにリタの髪をなでる。
女性として生きると割り切ってしまえば、これもただの同性同士のスキンシップだ。
――では、リタに好意を寄せている自分の心は、女性としての心の動きなのか?
ぞっと、背を何かがなでたような気がした。
クリスは同性愛者ではない。
ならば、女性となった今、自分は男性を愛するべきではないのか。
女性として生きると言っておきながら、男性の感性で女性を愛するのは、欺瞞ではないのか。
リタを見る。
愛らしいと感じる自分がいる。
そして多分、性欲や愛欲としての対象としてリタを見ている。
だから、彼女の裸を見ることをいつまでも罪深いことだと考えていたのだ。
「クリス?」
心配げに見上げてくるこの美しい少女に、女性の身体を免罪符に男性としての情欲をぶつけるのは、いかにも醜悪極まりない。
多分、何よりもその醜悪さを自覚していたから、クリスは自分の境遇を話せなかったのだ。
リタの頭から手を離す。
「何でもありませんよ」
そう言って微笑む。
この少女のことが本当に大切だと思うなら、距離を置くべきだった。
そう思うが、そのことがひどく苦しい。
冷静に考えれば、今のクリスには人間関係がほとんどない。事情を知っているケイアスたちと、今ここにいるリタたちだけなのだ。
ケイアスがクリスのことをどう思っているかわからない以上、リタから距離を離せば本当に孤独になってしまう。
いや、それも言い訳で、ただ単にクリスがリタから離れたくないだけだ。
「何でもありません」
もう一度、確認するように呟く。
今は結論が出せない問題だった。クリスがリタから離れるにせよ、今はその選択肢が取れない。
リタの訝しげな視線に気づかないふりをする。
「待たれよ」
ウェハに連れられて森を抜けようと歩いていたとき、ツェラがどこからか現れた。
「何でしょうか」
リタの言葉に、ツェラが淡々と返事をする。
「久しぶりの客人に見送りくらいはさせてほしい」
青年がそう言うと、あたりから人影がざっ、と現れる。
こんなにいたのか、と驚く。
頭上を見上げてもまだ、エルフの影がそこら中に見えた。
「全員ではないが、誠意となるよう集めさせてもらった。どうだろうか」
「皆さん、恥ずかしがり屋なのですか」
リタが素朴な疑問でも言うように、疑問を口にする。
ツェラは気分を害した風でもない。
「恥ずかしがっているわけではないのです。ただ、我らはそうしたものが必要ではなかったので」
「どういうことですか」
ナセルが勢い込んで聞く。この機会を逃すわけにはいかないと考えているようだった。
「我らは本来、会話も必要がないのですよ」
エルフ同士もまた調和しているからだ、とは聞かずとも分かった。
彼らはそれぞれ別の個体でありながら、同じ個体でもあるのだ。
「それは、生命、なのか」
ナセルが思わずというように呟いた。
アリゼが肘で脇腹を小突く。良いところに入ったようで、ナセルがうめいていた。
「仲間が失礼なことを」
リタが頭を下げる。
「良いのです、それは我らの中でも結論が出ていない問題です」
今度は、質問を重ねることが出来なかった。
「それでは、良き旅を」
そう言ってツェラが腕を振ると、ざあっと景色が霞んでいく。
「それと、言い忘れていましたがあなた方を追っているものがいるようです。お気をつけて」
何も問い返すことが出来ないまま、クリスたちはいつの間にか、森の中に放り出されていた。
あたりを見渡しても、エルフの姿はない。
恐らく結界の外側に出されたのだ。
「ここがどこかわかりますか」
「森の北だ。山脈にそいながら北西に進めば竜の領域だ」
ウェハが返事をする。
エルフの話が本当なら、ウェハはエルフの総体としての意識と同調している。
「意識も調和すると言っても、距離の問題はあるから気にしなくて良い」
考えを読まれていた。
クリスはごまかすように咳払いをする。
「しかし、最後の言葉が気になりますね」
リタがうなずいた。
「追手の気配はなかったように思いますが。それに今更こんなところまで私を追いかけてくる意味が――」
リタの言葉は最後まで聞けなかった。
鳥肌が立つ感覚とともに、急激に周囲の魔力が高まったからだ。
魔力が重圧となって、息苦しささえ感じさせる。
リタだけが何も感じていないように、周りの変調を訝しんでいた。
「どうしましたか」
「リタ、私のそばに。何か、来ます」
言うなり、クリスの視線の先にある空間が裂けた。
その裂け目から、金の長髪を後ろでくくった青年と、白い神官服と一本の剣を脇に差した少年が現れた。
「次元術式、だと」
ナセルの声が震えていた。
超高位魔導師しか使用できない魔法体系を、現実に目にして驚愕していた。
リタが、信じられないと言うように、目を見張っている。
「お兄様……」
金の長髪の青年が、険しい表情でリタをにらみつける。
「お遊びの時間は終わりだ、愚妹よ」




