2. 悪魔の呪い
朝から取り掛かってようやく侵入した結界の中は、すでに異界と化していた。
「爵位持ちの悪魔がこんなところになんでいるんだよ」
ケイアスが愚痴のようにつぶやく。
クリスたちの前には、人間に動物を混ぜ合わせたような異形が佇んでいた。
空間は赤い霧に包まれ、見通せない。植物たちはどんな変化をたどったのか、幹はねじれ、毒々しい色をした実をつけている。
クリスたちの前に立つ悪魔が発する濃密な魔力が、もともとこの環境に存在していたであろう魔力を染め上げて、一帯を異界化しているのだ。
『初めての来訪客が勇者とはずいぶんなめぐり合わせだな、召喚者どの?』
「黙れ、貴様の悪食のせいだろう」
悪魔がまるで世間話でもするかのように、ローブをかぶった人影に声をかける。人影の方はにべもない返事をする。
人影はどんな風貌なのかもよくわからない。黒い霧のようなものに包まれて、ローブの中が見通せないため、性別や種族さえわからなかった。
「統一教会のケイアス・オムニキスだ。悪魔召喚の現行犯及び、殺人の疑いで貴様を拘束する」
ケイアスが名乗りを上げる。
教会は勇者や騎士団といった武力を持つゆえに、国家から独立した警察権と軍事行動を許されている。教会は特定の国家機関ではなく、人類全体に奉仕する組織だからだ。
「人の法に従う道理なし。――《海原》」
ローブの人影はそう言って、腕を振るう。
突如として、十メリはある津波が出現した。大量の水が純粋な物量としてクリスたちに殺到する。
「オムニキス」
ケイアスがそうつぶやくと、彼が右手に持つ剣が青白く輝く。極度に集中した魔力が空間に干渉して発光現象を起こしていた。
ケイアスが剣を振り下ろすと、光の帯が津波をぶち抜いて悪魔とローブの人影をも両断する。聖剣はその膨大な魔力で斬ったという結果を押し付ける権能がある。光の帯は、空間そのものが切断された結果が発光という形になって現れているのだ。
『いきなり切り札抜いてくるのはやべえだろ』
軽妙な声が響いた。
赤い霧の向こう、悪魔とローブの人影が見える。かすり傷一つ付いているようには見えない。
「まじか」
クリスは思わずうめいた。ケイアスの持つ聖剣の力はよく知っている。あれは、斬ったという結果が先にくるから、防御の魔法も意味をなさない。斬撃を飛ばしているというよりは、呪いのほうが本質に近いのだ。
つまり、目の前の悪魔はそれすら無効化してしまうほどの力があるということだ。
「契約だ。礎を守れ」
『はいはい、全く、勇者相手に無茶言うね』
ローブの人影が背を向けて霧の向こうに消えようとする。
それを見てクリスとジェラルドが突貫する。
『まあ、待て』
地面が隆起し土の壁が二人の行く手を阻む。
『ったく、なんで勇者が出張って来てんのかね。あれか、神託でも下ったか』
まさか悪魔が対話してくるとは思わず動揺する。
クリスは、悪魔がこのように対話するとは聞いたことがなかった。
「私が、視た」
エーリカが悪魔に答える。無表情に見えるが、半年も一緒に旅をしていれば彼女が怯えているのがわかる。彼女ほどの実力者からしても、異次元の存在なのだ。
『霊視できる巫女までいんのか。随分豪勢なパーティーだなおい』
「やたら俗っぽいな」
クリスの口から思わず本音が出た。大体、悪魔というのはこちらの世界にほとんど滞在しないから、常識や共通の話題がなく会話そのものが成立しにくい。
召喚者の望むことを叶えたらさっさと帰ってしまうものなのだ。
それが、この悪魔は妙に人間っぽい。
『まあ、こっちの世界には千年程度いるからな。ずっといれるわけじゃないから、累計はもっと短いが』
「なんでまた」
『こっちの世界の方が面白いから』
あまりに身も蓋もない返事が返ってきて唖然とする。目の前にいるのはあらゆる意味で異端の悪魔だった。
「じゃあ、こっちの世界にいてもいいからここから出てってくれないか。俺たちはここから脅威を排除できればいいんだよ」
ケイアスがこれまた身も蓋もないことを言う。ジェラルドが頭痛をこらえるように頭を抱えている。
爆笑。
「いや笑いすぎだろ」
『いや笑うだろ。勇者がそんなことを言うのを初めて聞いたぞ』
悪魔が腹を抱えている。それをケイアスは苦虫を潰したような顔をしている。
あー笑った、笑ったと言いながら悪魔は急に真面目な顔をする。
『久しぶりに笑わせてもらったから帰ってもいい、と言いたいところだが契約なんでな。消えてもらおう』
悪魔が腕を天に掲げると同時に巨大な魔法陣が幾重にも出現する。超術式で消し飛ばしてしまおうという魂胆だった。
「《核熱》が三重展開なんて」
ココが、術式を一瞬で解析する。光の塔の才媛が術式の規模に驚愕していた。
術式の発動そのものを阻害するために、クリスとジェラルドは前に出る。
この悪魔には聖剣が通用しなかった。つまり、勇者ですら勝てないかもしれない。だが、勇者を失うわけにはいかない。
もし、このパーティーの全員が死んでもケイアスだけは生還させなければならなかった。すでにここは死地なのだ。
クリスは三十歩の距離を一歩で飛び越える。東方武術の奥義の一つに数えられる縮地法は、高位魔導師や達人級の剣士たちとの死闘では当たり前の技術だ。
勢いをそのままに腰を縦に切って震脚する。魔力で強化された脚力を大地が支えきれずにひび割れていく。
大地から返ってきた力をそのまま刀身の先に乗せて、悪魔に向けて解き放つ。
『さすが勇者の共連れ。それは食らってやれないな』
本来なら竜の頭すら砕くそれが、悪魔の羽に難なく受け止められる。ありえない強度だった。
「いや、食らってもらう」
クリスがそう言うと羽が爆発したように飛び散る。浸透勁と呼ばれるこの技術は、そもそも剣の刃すら通らない魔獣たちとの戦いの中で培われた。
スイッチするようにジェラルドが前に出る。
ジェラルドの細身の剣が音もなく振られる。
ごとり、と悪魔の腕が切り落とされる。
ジェラルドが修めるシイェナイ流剣術は、刃すら通らない魔獣を斬るために発達した。魔力によって刀身の切断力を極限まで高め、目で追うこともかなわない速度で振られる剣に斬れないものはない。
エーリカとココが術式の発動を抑え込むように阻害術式を構築する。
『やべえ、強いなまじで。勇者なしでもこれかよ』
そう言いながらも、悪魔の声には余裕があった。
クリスたちが見ている前で、破壊された羽と切り飛ばされた腕が再生していく。
エーリカとココの阻害術式が解体され、青い光を伴って霧散する。
『だがまあ、ここまでだ。おまえたちはよくやった』
悪魔が展開していた術式が開放される。
《核熱》の術式は、すべての物質の構成要素である原子を更に構成する陽子などの核にエネルギーを与え他の核にぶつけておこる融合反応の莫大なエネルギーを、熱に変換して開放するものだ。
瞬間的に数千万度まで上昇するため、どんな生物も耐えられない。ほぼ防御不能の必殺の魔法だった。
クリスは無駄なあがきと知っていながら術式を展開する。せめて親友は守りたかった。
例えば彼が空間魔法を扱えれば熱そのものを次元的に遮断できたかもしれなかった。だが、空間魔法自体、人類史で扱えた人間は数えるほどしかいない。
クリスは才能がない。けれど、才能がないなりに勇者の親友に必死で追いすがっていた。そして、その終着点がここだった。
《核熱》の術式の光がまぶたすら貫通して目を焼く。
熱で思考すら白く染まっていく。
死がすぐ側にあった。
諦めるように剣が地面を転がった。
――来るはずの終わりがいつまで立っても来ない。
痛みを無視してまぶたを開く。
太陽の日差しが地面に反射して眩しかった。
熱で地面が沸騰して、ガラス化していた。
その光の向こうに、一人の人影がみんなをかばうように立っている。
「大丈夫か」
振り返ってケイアスが笑う。全身がやけどだらけで、未だに彼の全身が熱を放って空気が揺らめいている。
「大丈夫か、じゃないだろ。何やってんだよ」
クリスは声を震えないようにするのが精一杯だった。
本来、クリスよりもよほど強いはずのケイアスのほうが重症だった。
「いや、すまん、やっとオムニキスが熾きた」
ケイアスが聖剣を小突く。
そういう意味じゃないよ、という言葉が声になって出なかった。
巨大な困難をのりこえ、あらゆる人間の頂点に立ち、そしてより弱い人々を守るために戦う。
「じゃあ、片付けてくるわ」
まるで散歩にでも出かけるような気軽さだ。
クリスは勇者の背中を見つめることしかできない。
『オムニキスの担い手が現れていたのか』
悪魔が驚きも隠さずに言う。
『お前、どこから来た』
「知ってんだろ、ちょっと離れたところにある聖都だよ」
ケイアスは肩をすくめる。
「っていうか、あんたそれで会話できるのか」
『一応、それなりに強いからな。まあ、このなりだと説得力はないが』
そう言う悪魔の体は半分がバッサリと消えていた。
『《核熱》の術式ごと両断されるとは。全く、最初の一撃は本気ではなかったのか』
「いや、一応本気だったよ。オムニキスが応えてくれなかっただけで」
『俺からすれば、それが再び人の手に収まっているだけで驚きだが。まあ、いい。俺の負けだなこれは』
悪魔の体はすでに光の粒子になりつつあった。もとは異界の存在であるため、この世界にいるための十分な力が保てなくなると送還されるのだ。
『しかし、このまま素直に負けて帰るのは面白くないな。俺を倒した勇者殿に餞別をやろう。《蛙呪》』
悪魔の左手から不意打ちのように術式が発動する。
ケイアスはそれを見て言う。
「勇者に呪いはきかないぞ」
『知っている』
呪いの対象はケイアスではなかった。
クリスが突然膝を折って倒れる。
「クリス!」
『ではさらばだ勇者よ、また会うときを楽しみにしよう』
そう悪魔は言い残して消えていった。
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