どこまでいっても二人のお茶の時間
いつ見たのかも覚えていない。誰に教えられたわけでもない。私の想像するSF小説の表紙は「抽象の籠」の絵が表紙だった。
「というわけで初フィリップ・K・ディックを週末に買ってこようと思います。今からみなぎるー」
「Kindleじゃなくて?」
「藤野一友表紙の、サンリオSF文庫の、『ヴァリス』を買っちゃおうと思いまっす!」
「紙の本珍しい。どこで売ってるの?」
「神保町」
そんなやりとりをそういえばしたなあ。と、いうか数日前のやり取りのその下に佐野さんのLINEが入った。
「今日って何時待ち合わせ?」
いや、待ち合わせする気は全然なかったよ。誘ったつもりなんて全然なかったよ。決意表明しかしてなかったと思うんだけど、日本語間違えた?
神保町駅にむかうまでに思い返しても一緒に行くだのそんな約束してないことに思い至り、一言文句を言ってやろうと駅改札を出て階段を登り待ち合わせ場所へ向かえばそこにはすでに佐野さんはいた。
「嶋井さんより先についたのは初めてかも」
会社帰りでもこの前あったときのものでもないコートを着て立っている。私、冬のコートは一着しかないんですが……。会社用と普段用分けてもいないんですが。
自分の黒ずくめが薄汚いだけのと違って佐野さんはキラキラしている。黒着ていればだいたいおしゃれな感じして大丈夫とはいうけど、顔がいい人間が着ると本当に様になるんだなぁすごいなあと語彙力減ってく感じで、言おうと思っていた文句も霧散した。
「今日行くとこにサンリオ文庫売ってるんですか」
「うん、SF系が充実してる古本屋さん。そこなら多分絶対ある」
古本屋で男女、というか複数で一緒に本見てるやつ通路の邪魔だから死ねって思ってたけどまさかその言葉が自分に返ってくるとは。
「へー、こんな本屋があるんですね」
物珍しげに本棚を物色し始めた佐野さん。
私は目的のサンリオSF文庫コーナーに向かいそして見つける。
「あった……」
サンリオSF文庫のヴァリス……。
私、ついに、これを買っちゃうよ。
「そんなに高くないんですね」
「え?ああ、これはレアってわけじゃないから」
「ならなんで今まで買わなかったんですか?」
「恐れ多くも……」
これをレジに持っていきお金を払うだけで自分の所有物になるなんて、実質ゼロ円じゃん!
「佐野さんなんか買ってく?」
「ちょっと見てっていいかな?」
私も会計する前に一周見ておこうっと。
佐野さんはなんか聞いてくるかなと思ったら、一人で背を眺めて気になったものを手にとっていた。なんだ普通に楽しめてるじゃん。本棚下の方までじっくり見ているその愉快な姿に少し笑ってしまった。
「嶋井さんの大決意だけど、あっという間に終わりましたね」
「まあ、そうだね。時間もあれなんで、お茶でもしてきます?紅茶のお店なんですけど」
会計を終えて店から出る。神保町について一時間も経っていない。
なんかわざわざ来させたみたいで申し訳なく、お茶に誘った。歩いてむかう道中は右も左も本屋ばかり。こう日比谷ミッドタウンみたいな佐野さんにはこの街は退屈だろう。だから誘うつもりはなかったのだ。
私はこんな天国のような街、花畑のミツバチのようにあっちこっちに入っては本の背を見てるだけで落ち着くというか、癒されるというか、下手したらなんかもう読んだ気になって満足する。まあ今日は佐野さんがいるからしないけど。
私が好きな紅茶屋さんは地下にあり、階段を降りて入り口をくぐると茶葉が売っているコーナーだ。広い店内に人はまばらでお好きな席にどうぞと促される。
佐野さんは物珍しそうに茶葉を見ていた。
「いつもなら買ったもの広げてHPMP回復してるのに、なんでしないんですか?」
「ここ神保町ですよ?そんなことしてたら「こいつ今更サンリオSF文庫のヴァリス買ったのかよ」って思われて恥ずかしいじゃないですか」
「最近分かってきたけど、それたぶん心の病気ですよ」
「あとぬるい会話してたらなめられるんで、今日は本の話は無し!」
周りにいる人みんながハードSFオタで私のことを見て笑っている気がする……。私がこれからフィリップ・K・ディックを読み始めることを知っていてバカにしている声がする……!
「嶋井さんは紅茶派なんですか?」
メンヘルのようにソワッソワしている私に佐野さんは唐突に話題を変えた。
「え?」
「コーヒーもたくさんあったのにわざわざここにきたから」
「うーん、そうかも。あ、コーヒーのほうがよかった?」
「いや、あんまり紅茶って店で飲んだことないなー」
「どうして日本はコーヒー屋さんとかコーヒー飲み放題はあるけど、紅茶屋さんとか紅茶飲み放題は少ないんだろ」
「確かに。日本のブラジル移住でコーヒーの輸入が定着? いやその前から?」
「歴史改変SFの予感!?」
「え、紅茶主流にするためだけにタイムトラベル?」
「私は紅茶普及側で、佐野さんはコーヒーを減産させる側。お互い色々あって、ボストン茶会事件とか歴史変えて、戻ってくる。戻ってきたら「紅茶が普及した世界」だからタイムトラベルの理由がなくなって改変が行われないってタイムパラドクスが発生するかと思うじゃん? そこにエピローグでこうして二人でコーヒーを飲みながら『どうしてコーヒー屋さんって少ないんだろう』って話をして終わるの」
「あれ、なんか面白そうになってるんだけど紅茶SF」
私も自分で話してて面白そうだって思ったし、世界線処理してないところクールだなと思った。そしてボストン茶会事件がなんなのか全然覚えていないことも。
「嶋井さんは読むだけじゃなくて書かないの? 紅茶SFちょっと読みたい」
「しないよ! その発想はないわー。紅茶が好きでも茶葉農家にならないのって聞かれないのに、なんで本は書かないの?ってなるんだろうね」
「読んでると書けるようになる感じがするから?」
「佐野さんは?」
「しないっすね、これっぽっちも」
「SEならまだその分野ののこといかして、私なんかより書けるかもよ?」
「金融インフラ系SEですよ?そんなSFきいたことない」
「『スペース金融道』ってあるよ。読んでないけど」
「またまたー」
「ほらー。あ、まだ文庫になってない」
ググった結果を見せると佐野さんは大笑いした。
だからSFはなんでもありなんだって。
紅茶とスコーンがやってきた。ポットからカップに注げば良い香りが広がる。
私はウバ、佐野さんはアールグレイだ。紅茶が好きなのは、「紅茶王子」の影響で……って自分、漫画と小説にしかルーツないな。
「佐野さんは甘いものいけるの?ほら酒飲みで男性は甘いもの好きじゃないって」
「うーん、スコーンってスイーツ? 俺としてはパンなんだけど」
「あ、そういう考え方」
「ケーキセットもあったのに嶋井さんこそいいの? ケーキ」
「迷ったんだよね……どっちも食べたい気分ですごーくすごーく迷って、スコーンに……」
「嶋井さんケーキセットにして俺のと半分ずつシェアすればよかったのに」
「その手があったか!」
ケーキの未練を振り切るようにスコーンにかぶりつけばほんわりあったかくバターの香りが広がった。
友達同士ではシェア前提のメニュー選びするけど、あれ、佐野さんは友達? いや、飲み仲間、いや飲む人。そう、酒を飲む人だ。酒を飲む人でも食べ物シェアしていいんだ。
「でもスコーンも美味しい……」
「ケーキも頼めば?」
「……ちょっとね、のっぴきならない事情ってのもあるのよ、こっちは」
さらっと言ってくれるぜこのイケメンは。
最近のSF飲みで貯金はカサ増しされないのにお肉はしっかり貯蓄できてて、このお肉換金できないかなとかお風呂上がりにつぶやく日々ですよ。
一人の時はサクッと飲んでサクッと帰っていたからあんまり体重に変動はなかったけど、やっぱり人がいるとそれだけ長く飲んでて、それだけアルコールで食欲も増しちゃって、やっぱり多く食べてるんだよね。
でもそれなのになんで佐野さんは変わった様子もなくそのシュッとした体なんだ?
なんだろう、ヘイトがヘイトが溜まっていく。
「どうしたの?」
「女の恨みってのは理不尽で不快ってことですよ……」
「?」
ダイエットらしいダイエットをしたことがなかった。体が重くなってきて気をつけなくちゃと意識するくらいでなんとなかっていたが、最近はなかなか……。代謝が落ちてるのかな。
「ここは人も少ないし、こう普通の喫茶店って感じで」
「で、コーヒーの香りがしてっていうのが普通だよね。たまにホテルのアフタヌーンティーに行くかな」
「ああー、何度か行ったことがある」
あるんだ。まあたまにカップルで来た感じの二人いたよな。でも、あそこの空気って……。
「女性ばっかでなんというか居づらい空気で、甘いもの苦手とかそういうつもりはないけど、あまり……」
「だろうね、でもアフタヌーンティーはコスパ最強だから!」
「コスパ……」
「私あそこで最高六杯のお代わりしたことあるよ」
「それ水攻めって拷問に近くない?」
「まあちょっとあの時は無理しちゃったけど、でもそれだけ飲むとちょっといいとこでケーキセット頼むより格段に割安なのよ。コーヒーも日本茶もあるからお口直しもできて。」
「友達と行くの?」
「そう。最後に行ったのはもうだいぶ前だな。なんだかんだみんな忙しいし」
「まあ仕事ばかりはしょうがないね」
「いや、それぞれのオタ活。もちろん仕事はしてるし忙しいこともあるけど、みんな休日は何かの現場に身を捧げているかな。」
「へえ……」
「あー、最近で一番会ってるの佐野さんかも」
ほんとーにくだらない話をダラダラして、二人で分ければってことでケーキも1つ頼んで食べた。ケーキは美味しかった。
時間は結構あっという間に過ぎて、そろそろ帰ろうかという頃には外は夕暮れの手前になっていた。
「佐野さんも神保町駅ですよね」
「いや、今日は自転車で来たから」
「は?」
「自転車」
「え、遠いじゃん。自転車って漕ぐんでしょ?自分で?」
「いや、そんなに遠くないし」
リアル「チャリできた」かよ。確かに小野田坂道くんは毎日45キロの往復していたけど、いや普通に自転車で来れるの?
「どこにあるんですか?」
「駅前だけど」
「とられちゃうじゃん!」
「そんなに高いものじゃないし、チェーンつけていれば盗難はないよ」
駅前に戻ると少し離れたところに立てかけるように停めてあった。確かに一見して気づかない。佐野さんは慣れた手つきで自転車のチェーンを外す。
「わー、マジもんのロードバイク。あ、これビアンキじゃん。私でも知ってるやつじゃん。高いでしょ! うわー初めて見た。なんか思っていたより細いんだねえ。」
「……乗ってみる?」
「え!」
ママチャリと違ってサドルが高くて足がつかない。
走ってる時はこれがいいって弱虫ペダルで読んだけど、でもこれどうやって最初乗るの?
足をかけようとしてバランスを崩した。
ゆっくりと傾く体をバランス取ろうにもどうしようもできない。倒れる、そう思った。
「きゃっ」
パタンと見事に地面に倒れるそう思って目を閉じて、衝撃に備えていると大きな力でバランスが戻った。
佐野さんが左手でハンドルを握っていた。私の手の上から。そして右手は私の腰を支えている。バランスがちれたのではなく、佐野さんにもたれかかっている状態。私のおでこが佐野さんの顎に触れている。
顔が近く、肩も腕も腰も近く、ありえないほど近く、ものすごくくっついている。
あ、あれ?
「漕ぎ出しながら乗る感じで……」
耳元で囁くような声にくすぐったくて顔を上げた。
同じように私の顔を見ようと視線を下げた佐野さんと目があった。
「ぎゃー!」




