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血の桜の下で

作者: 藤宮こん

再投稿です。

 ストンと、何かが落ちる音に俺はうとうととしていた目を上げた。質素なスティールテーブルの上には、甘い匂いをこれでもかと発しているチューハイの空き缶がずらりと並んでいる。部屋いっぱいに充満した匂いが、胃袋を酔わせる。

 口元に垂れたカシスオレンジを手で拭う。すっかりと伸びてしまった髭が手の甲にチクチクと刺さった。


 水を飲もうと立ち上がると、ふらふらと頭が揺れた。すっかり酔ってしまったらしい。朦朧とする意識で、六帖一Kの部屋の廊下を進んでいく。

 ふと、ここ数年誰も叩くことがない玄関の扉が目に入った。最後に来たのは、大学生を標的にした怪しい宗教の勧誘だった気がする。


 あれ以来何の音も発さなかったその扉のポストは、溜まりに溜まった広告で溢れかえっていた。


 が、その中に見慣れない茶封筒が一封、異様な雰囲気を放っていた。


〈吉野祐樹様〉


 宛名には、自分の名前が書かれていた。そして裏面には、差出人として〈十五歳の吉野祐樹〉と書かれている。


 ああ、二十歳の自分に向けて書いた手紙だ。


 中学三年のとき、恥ずかしがりながらも、確か全員未来の自分に宛てての手紙を書かされた気がする。

 本来なら成人式の日に担任から渡されるはずだったのだが、俺が成人式に出なかったため直接送ってきたのだろう。本当に、お節介な担任だ。


 俺は空き缶を端によけ、ティッシュで軽くテーブルを拭くと、ほんのり痛む頭を少し気にしながら、封を切る。

 中には真っ白な便箋が一枚、「二十歳の自分へ」と書かれていた。


 それだけだ。


 それだけが書かれていた。後は真っ白。


 そうだ、あのとき俺は何も書けなかったんだ。自分の未来なんてこれっぽっちも想像できなくて、結局空白のまま提出したんだ。


 俺は缶を一気に呷った。甘ったるい液体が胃袋に直接流れ込んで、吐き気を催す。


 ほんと、俺はあの頃から何も変わってない。何一つ、成長していない。勝手に大きくなる体と、やたら潔くなった精神と、諦め上手になったことだけが、唯一変わったことかもしれない。


 せいぜい酒を呷って大人ぶってるだけなんだ。そういう小さな人間なんだ。


 俺は便箋を両手で丸めると、ゴミ箱に放り込んだ。綺麗な放物線を描いたそれは見事に外れたが、ゴミ箱に入れ直す気力すら湧かない。

 そのままの勢いで封筒もくしゃくしゃにしてやろうと手に取った。


 ……ん?


 微かに感じる重量感。軽く振ってみると、中で何かがカタカタと揺れ動いているのが分かった。

 俺が封筒を逆さまにしてみると、ひらりと一枚のメモ紙が舞い落ちた。


〈血桜の下で〉


 それだけだった。たった五文字だけが書かれている。しかも訳の分からない文言で。血桜? 都市伝説か何かだろうか? 


 はっきり言って気味が悪かった。早く捨ててしまいたい。


 しかし、もっと気味の悪いことに、その文字はまるで女の子みたいな、可愛い子ぶった丸字だったのだ。当然俺はそんな文字を書いていた記憶はない。

 かと言って、俺と別段親しくしていた女の子もいないはずなのだ。俺は孤独な人生を粛々と送ってきたのだ。これまでも、これからも、充実した生活なんて過ごしていないし、過ごさないのだ。


 ――なのに、この感情は何なのだろう。言い表すことのできないこの喪失感は、何なのだろう。


『――れないで』


 忘れていた記憶の断片が、揺すり起こされる。


『忘れないで』


 彼女は言った。


『絶対に、忘れないで』


 一面に降り注ぐ細雪の中、少女はその小さな手で僕の手を包んだ。白い吐息は雪に交じって空に溶け、微かな暖かさだけが僕らを取り囲んでいる。


『強くなったら、――で』




 変な女子がいると思った。

 先ほどから何度も、校舎の長い廊下を行ったり来たりしているのだ。

 もう何往復目だろうか、分からない。

 僕は、まるで彼女に吸い寄せられるようにして、読んでいた本を閉じ、彼女の後をつけた。


「……何してんの」

「ひゃん!」


 昇降口で何やらうろうろとしている少女に声をかけると、その小さな口元からいきなり素っ頓狂な声が漏れた。


「あ、ごめん……」

「なんだぁ、祐樹くんかぁー、驚かせないでよ」


 肩の辺りまで伸びた艶のある黒髪に、長いまつげ。間延びした話し方をする彼女には、どこか見覚え、聞き覚えがあった。


 永山……みつき、だっけ?


 彼女は僕のクラスメイトだ。と言っても、中三のクラス替えで一緒になっただけで、何も喋ったことがないのだが。


「何してんだよ、こんなところで、こんな時間まで」


 時刻は既に夜の七時を回っていた。部活動をしている生徒たちもとっくに下校している時間帯だ。


「えーっと……あはは。ゲームだよゲーム。宝探しゲーム」


 わざとらしく笑い飛ばしてくる。引きつった笑顔が痛々しく見えた。その笑顔に、僕はどことなくシンパシーを覚える。


「……へぇ、で、その宝は見つかったのか?」

「いやー、それが全然見つからなくて、隠すの上手だよね」

「もうかれこれ三、四時間かかってるよ」と、軽々しくはあとため息をついてみせる。


 ため息程度じゃ、耐えられないはずなのに。


「……探してやろうか? 宝」

「……え?」


 虚を突かれたように、ぽかんと口を開ける少女。


「大変だろ、一人は」

「……でも、君に迷惑かかっちゃうし」

「もうかけてるっつーの。そう廊下を何度もうろちょろされると気が散って本が読めないの」


 戸惑う彼女を尻目に、僕はゴミ箱を漁ったり、清掃用具入れを覗いたりしてみる。


「……ありがとう」

「お礼は見つかってから言ってくれ」

「……うん、ごめん」


 謝罪の言葉とは裏腹に、彼女はほっとした表情を浮かべていた。




 それから僕らは、小一時間校舎中を見て回った。見回りの先生に見つからないようコソコソと物陰を縫うようにして進んだ。理科室、音楽室、体育館、教室。どこを探しても、お目当ての宝は見つからなかった。


「……ここって行ったの?」


 僕がトイレの前で立ち止まり、男子の標識を指差す。


「女子の方は探したんだけど……、さすがに男子の方に入るのは、なんだか恥ずかしくて」

「もう恥ずかしいどうこうの話じゃないだろ、全く」


 ぶつくさと文句を垂れながら、僕は伏し目がちになった少女を置いてトイレへと入っていく。不思議なことに、一番奥の個室だけ扉が閉まっていた。当然この時間だ。誰も入っているはずがない。


 僕はその隣の個室に入り、便器の上に立つ。そこから仕切りに手を掛け、蹴り上げると同時に一気に体を引き寄せた。そのせいで勢いがつき過ぎたのか、隣の個室の中に着地する際に、上半身を思いっ切り便器に打ち付けてしまった。ガシャンと耳を刺すような鋭い音が響く。見るとひびは入っていないようだったので一安心だった。


「だ、大丈夫!?」


 廊下から彼女の震える声が聞こえてきた。


「平気」


 淡白にそれだけ返すと、僕は内側から個室の鍵を開けた。


 そして個室の中にあったその宝を持ち出す。


「……ほら、あったぞ」


 僕が宝を手渡すと、


「……ありがとう……、ありがとう」


 今にも泣きだしそうな声で彼女が弱々しく繰り返し、安堵したのか腰が抜けてその場にへたり込んでしまった。そしてその宝を抱きかかえるようにしてすすり泣く。


 白の学校指定のスニーカーを抱きかかえる少女が、目の前で泣いている。


「……で、なんで靴なんて隠されてんだよ」


「何が宝探しゲームだ」と吐き捨てる僕の言葉に、さらに彼女の涙が溢れ出してくる。


「……ごめん。言い過ぎた」


 嗚咽を何度も漏らしている少女に、どう声をかけていいのか分からずに困惑した。人とあまり関わってこなかった僕にとって、最も正しい行動が何なのか分からなかった。

 なので取りあえず、昔母親にされたように優しく彼女の背中をさすった。嗚咽するたびに震える背中が、とても小さく、か弱く思える。


「……サッカー部部長の木ノ原君、いるでしょ?」

「ああ、あのクソリア充」


 木ノ原はイケメン、運動神経抜群、皆に優しい(ように振舞っている)、などなど、女子から見れば文句なしの好物件だ。


 女子から見れば。


「告白されたの、私」

「へぇ、よかったじゃん」


 そんなやつに告白されるのだから、彼女も本来ならモテるのだろう。


「でもね、私振ったの。他に好きな人がいたから」

「それで?」

「だけど木ノ原君も、本当は私のこと好きじゃなかったみたいで……、たぶん罰ゲームか何かだったんだと思う。私に告白する罰ゲーム」


 馬鹿馬鹿しい。そんなことして一体何が楽しいのだろうか。人の気持ちを弄んでどれだけ相手が傷つくかなんて、微塵も知らないのだろう。


 僕も以前小学生のとき、同じようなことを女子にされたのだ。あれは本気で泣いた。割とその子のことが好きだったから。数時間泣き続けていたのではないだろうか。


「彼は絶対に振られない自信があったんだよ、きっと。だから私に振られてすごく怒っちゃって……」

「あいつが靴を隠すみたいなねちっこい嫌がらせをしたのか?」

「……吹奏楽部部長の篠崎ちゃん、いるでしょ?」

「ああ、あのクソリア充」


「……君って、人のことそんな目でしか見てないの?」と、彼女が僕の人間性を疑うような怪訝な目で見てくる。


「その子がね、木ノ原君のこと好きみたいで。木ノ原君、それに気づいているから、私に振られたこと篠崎ちゃんに言いつけて……、ほら、篠崎ちゃんって、結構学校で中心的な人でしょ? だから、それに目をつけられちゃって……、こうなっちゃった」


 なんだか思っていたよりも闇の深い話で、耳を覆いたくなった。


「聞きたくなかった」

「君が訊いてきたんじゃん、全く。私だって、普通は話したくないよ」

「じゃあなんで話したんだよ」

「それは……」


 彼女が少し言い淀んで、頬を軽く赤く染めた後、小さく言い置く


「君が……、優しいから」


 陰りを帯びた妖艶な笑顔がとても儚くて、愛おしくて、僕は一生、彼女のことは忘れられないような気がした。




 それからというもの、彼女は僕と二人っきりになると必ず駆け寄ってきて、他愛もない話をしていった。

 やれあの俳優がかっこいいだの、このドラマがキュンキュンするだの、恋愛ドラマなどには疎かった僕にそんな話をされてもさっぱりだったが、それでも彼女は僕の返事が訊きたいというよりは、ただ単に僕に話すことが楽しいようで、僕が素っ気なく相槌を打っていても終始鼻息を荒くして熱く語っていった。


「ねぇねぇ祐くん」


 いつしか僕の名を略してそう呼ぶようになっていた。


「……なんだよ」


 鬱陶しそうに返事をしてみると、


「交換日記、したくない?」


 彼女の手には薄紅色大学ノートが一冊握られていた。「交換日記」と、既に油性ペンでタイトル付けがされている。


 僕に訊くまでもなくやる気だろ……。


「……まあ、いいけど」

「やった! ならここに名前書いて」


 強引にペンを握らされ、彼女の柔らかな手で誘導される。ふわりと香ったシャンプーの香りが、僕の心を揺れ動かした。


「……ほい」


 殴り書きで「吉野祐樹」と記すと、


「もう、思い出に残すんだからちゃんと心込めて書いてよー」


 文句を垂れながらも、ニヤニヤと薄ら笑みを浮かべながら、彼女は可愛らしい字体でその下に「永山みつき」と書き加える。


「よし、じゃあ早速……」


 彼女はピンク色のふわふわとした筆箱からシャーペンを取り出し、何やらつらつらと書き連ねていく。


「……はい、祐くんの番」


 なんだ、交換日記って目の前の相手と交互に書き記すようなやつだったっけか? もっとこう、下駄箱とかに入れて一日一言ずつくらいで会話するものだと思っていた。

 少々面倒くさくなったが、横からの熱い期待の眼差しがひどく刺さったので、僕は仕方なくそれを受け取る。


〈十月十日 改めまして、永山みつきです。よろしくね〉


「…………」


〈よろしく〉


とだけ書き加え彼女に返すと、彼女は不満げにしながら、


〈もっと何か言ってよ、つまんない〉


 僕の方を半眼で見つめてくる。


〈今日はいい天気ですね〉


 外を見遣る。あいにくの曇り空だ。

 彼女はさらにむすっと頬を膨らませたが、鼻から息を漏らして落ち着くと、


〈好きな食べ物は何ですか?〉


「……そんなこと訊いてどうすんだよ」

「…………」


 はいはい、無視ですか。


〈パン〉


 するとそれを見た彼女は、じっとこちらを見てくる。そして手をくいくいっと、僕を呼ぶように動かしている。


「……なんだよ」

「私にも訊いて」


 かすれた声で僕の耳に囁きかける。


〈好きな食べ物は?〉

〈メロン!〉


「メロン!」

「……言っちゃってるし、日記の意味ないし」


 っていうかこれ、交換日記じゃなくてただの筆談だし。


 こんなのして何が楽しいのか分からないが、当の本人はひどくご満悦だ。ニコニコといつも以上に明るい笑みを浮かべている。


 たぶん大人になってから、これは黒歴史になるんだろうな……。


 なんて遠い未来を思い描きながら、僕は苦笑した。




「――おい見ろよこれ、交換日記だってさ。あはは!」


 汚い笑い声が、僕の鼓膜を震わせた。


「……返してよ」


 少女の声が、力なく宙に舞う。


「〈十二月十三日 祐くんとの雪遊び、楽しかった!〉だってさ」

「ぷっ、はは、なんだそれ」

「……返して……、よ」


 取り巻きの少年たちも、腹を抱えて少女を嘲笑している。少女は今にも泣きだしそうで、震える足で立っているのがやっとのようだった。


「あんな告白本気にして、しかも俺を振るなんて……、俺のプライド傷つけやがって、、まだこんなもんじゃ済まないからな」


 木ノ原が爽やかな顔を豹変させてどす黒く濁らせている。この表情を写真に収め、学校中にばら撒いてやりたい。


「っていうか祐くんって、吉野のことか? 外れ者同士お似合いだな」

「……祐くんのこと、そんなふうに言わないで」

「あ? 聞こえねぇよ」

「…………」


 少女のつやつやした黒髪の生え際をぐいっと力強く引っ張った。少女は痛みで顔を歪めながらも、それ以上下手に反抗はしなかった。

 慣れていると、彼女は言っていた。いじめられることに、もう慣れちゃったと。


 駄目だ。そんなのは、慣れちゃ駄目だ。


「あ、何だよお前」


 無意識に僕は彼の手首を掴んでいた。


「……彼女から手を放せよ」

「何だよ、勉強しか能がないひょろひょろ優等生がしゃしゃり出て」


 ケラケラと悪意のある笑い声に包まれる。


「何だお前、こいつのこと好きなのか? そうかそうか。お前あれだな、女を見る目無いな」


 自分の中で、何かが外れるのが分かった。それだけは言っちゃいけない。それで彼女がどれほど傷つくのか、どれだけ心を痛めるのか、何故お前は分からない?


 僕は彼を殴った。力一杯、か弱い僕の手が彼の頬に当たる。


「痛っ――何しやがる!」


 それから先は、どうなったのかよく覚えていない。木ノ原と掴み合いになって、髪の毛を引っ張ったりつねったり、周りの男たちから抑え込まれて蹴られたりしたんだっけか? それがどれだけ続いたか、僕は分からなかった。


「ごめんね、祐くん……、ごめんね」


 記憶がはっきりとしているのはそこからだった。みつきが涙をボロボロと落としている。


「私が……、祐くんを巻き込んじゃったから……、ごめんね」

「は、何言ってんだよ。僕が勝手に飛び込んだだけだろ」

「ごめんね……、ごめんね」


 僕が吐き捨てた言葉になんて耳も傾けず、彼女はひたすらに、廊下に体を投げ出している僕に向かって平謝りを繰り返すだけだ。


「……やめろよ、謝るなよ」

「ごめんね……、ごめんね」

「だからやめろって……! 情けなく……、なるだろ」

「ごめんね……、ごめんね」

「だから……、やめろよ……、もう……」


 僕も泣いた。訳も分からず涙だけがこみ上げてきて、とめどなく溢れた。彼女の助けになれなくて、そんな自分が情けなくて、涙が止まらなくて、それがまた情けない。そして涙が溢れる。


 止まることのない二つの嗚咽が、空虚な廊下にこだまし続けた。




「……全部、しまっちゃおっか。ぜんぶぜんぶ、しまい込んじゃえば、きっと楽だよね」


 泣き止んだ彼女が、腫れ上がった目を擦りながら、まだ微かに揺れ動く声で悟ったように呟く。


「何もかも、一緒に埋めちゃおう」


 彼女に手を引かれるまま、僕は校庭の一角に連れ出される。空はすっかり闇に覆われ、分厚い雲が眩かったはずの月光を遮っていた。冷え切った空気が傷口に染みる。


「最後に何か、書きたい?」


 彼女がボロボロになった大学ノートを僕に差し出す。


「…………」


 僕は何も答えることができなかった。


「……そっか。じゃあ私だけ」


 そう言うやいなや、彼女は何やら書き出した。珍しく悩んでいる様子で、何度も書いては消しを繰り返している。かれこれ三十分近くかかったのではないだろうか。悔しさでいっぱいいっぱいだった僕は、彼女のことをしっかりと見据えていることができずに湿った地面へと視線を落とす。


「……よし、埋めよっか」


 彼女は管理がずさんな事務室前の倉庫からこっそり持ち出してきたスコップで根元を掘り返す。


「知ってる? この木の根には、死体が埋まっているって噂があるんだよ」

「……じゃあなんで、そんなとこ掘ってるんだよ」


 やっとの思いで僕が喉を振り絞る。


「ほら、ここならさ、誰も掘り返そうなんて思わないでしょ」


 見上げると、すっかり葉が落ちた寂しそうな桜の大木が一本、そびえ立っていた。毎年春になると、この木だけ他の桜と違って花が赤に近い色合いになるのだ。それは根にある死体の血液を吸い上げているからなんて七不思議の一つが、この中学にはあった。そのことから、これは呪われた血の桜なんて呼ばれている。


「……よし、このくらいでいいかな」


 見ると、直径三十センチほどの穴が開いていた。


「……一緒に入れよう?」


 彼女がノートの片側を持って、僕を手招く。でも僕は動くことができなかった。


「……そっか、なら約束」


 彼女が僕のもとへ近寄り、そっと小指を立てる。


「私は埋める役割。だから君は、掘り返す役割ね」

「……掘り返す?」

「そう、いつか私たちが大人になって、強くなれたら、見ても泣かずに笑い飛ばせるくらい強くなったら、そのとき、君が掘るの」


 強くなったとき。それがいつなのか僕には分からない。途方もない時間の連なりが、漠然とした時の隔たりが邪魔をして想像することすらできない。


 だけどきっと、いつか、その日は来ると確信した。


「約束だよ」

「……うん」


 僕は小さくて弱い小指を、彼女の小指に優しく絡めた。




 彼女の転校が決まったのは、そのすぐ後だった。親の転勤とのことだ。

 その日、彼女が登校する最後の日は、彼女のお別れ会が行われた。

 上辺だけのお別れ会。誰も彼女との別れなど惜しんでいない。そんなのは担任も勘づいているはずなのに、世話焼きで鈍感な彼はいちいち余計なことをする。


 そのことが彼女をより苦しめるというのに。


 それでも彼女は終始笑顔で努めた。自分の感情をあの木の根元にしまい込んで、彼女は笑った。

 篠崎の前でも、木ノ原の前でも。笑って彼女は誤魔化した。




「さよならだね、祐くん」


 放課後、いつもの二人っきりの空間。四方が静寂に包まれた、僕らだけの世界。


「…………」


 あのとき以来、僕はまともに彼女と話せなかった。彼女にとって唯一の安らぎが自分だったかもしれないのに、僕はその期待に応えてあげることができなかった。


 つくづく中途半端な奴だ。


「……約束、忘れないで」


 雪が降り出した。やたらきめ細やかな雪。小雨のように、僕らに降りかかってくる。


「絶対、忘れないで」


 忘れないさ。絶対。


「強くなったら、血桜の下で」




 気がつくと、俺はそこにいた。酒で頭が回らない中、どうやってここまで来たのかすら分からない。が、俺は現実に、あの桜の木の下にいた。

 外は寒かった。真夜中の静寂の中を雪がちらついている。そのせいか少しずつ強引に酔いが引き剥がされていき、頭痛がひどくなる。

 忘れたことすら忘れてしまった記憶を、俺は薄っすらと思い出していった。彼女と過ごした日々を、何故俺は忘れてしまったのだろう。


 初めて助けになりたいと思った人を、何故俺は記憶から追いやったのだろう。最悪な人間だ。最低なクズだ。


 事務室の前の倉庫は、相変わらず管理が甘かった。俺はそこから錆びたスコップを一つ拝借する。明かりがなく、俺はスマホのライトを頼りに木の根元を掘り起こしていった。

 いまだ確証はなかった。ぼんやりとした、夢と似た記憶だけが頼りだった。


 しかし確証はなくとも、確信はあった。そこに何かあると、俺は信じざるを得なかった。


 あれから何年経つのだろう。約五年といったところか。俺も彼女も、成人式は済ませている。もう大人の仲間入りだ。

 五年という月日が、長いようでどこかすぐそこにある気がした。けれど五年も経てば、誰かが掘り起こしてしまったことも十分に考えられる。あるいは雨風にさらされて、とっくに土に帰ってしまったかもしれない。

 そんな不安を抱えたが、それもこれも全て掘ってみれば分かることだ。だから俺は持てる力を全て込めて、木の根元をぐるりと掘って回った。


 あった。


 土まみれの数冊の大学ノート。彼女と積み上げた日常の証が、ひどく重く感じられた。汚れた手で軽く土を払うと、「交換日記」と、懐かしいあの文字が記されている。その下に仲良く並んだ「吉野祐樹」と「永山みつき」の名前。

 俺は、はやる気持ちが抑えられず、かじかんだ手でペラペラと土埃にまみれたページをめくっていった。


〈十月十日 改めまして、永山みつきです。よろしくね〉

〈よろしく〉


 思わず苦笑が漏れる。

 やはり黒歴史だ。見返すだけで恥ずかしい。

 しかし、ページをめくる手は止まらなかった。


〈十一月四日 今日は珍しくスカートを履いてみたんだけど、どうかな?〉

〈まあまあ〉


 素直じゃないのは、どうやら昔から変わらないらしい。

 その後もページをめくる度、彼女と過ごした日々がつい昨日のことのように思い出されて、むずがゆくなった。


 そして、最後のページ。


〈二月二十日 今日で交換日記は終わりにすることにしました。今までありがとう〉


 辛うじて読み解ける程度の文字だった。珍しく彼女の文字が乱れている。水分でふやけてしまったのか、インクが滲んでいた。


〈最後に、君に伝えたいことがあります〉


「…………」


 ああほんと、彼女には叶わない。彼女は十分強い。俺なんかよりずっとずっと、成長している。

 つらつらと、その文言の後に何行かにわたって文が続いていた。彼女がしまい込んだもの全てが、そこに記されていた。

 一粒、涙がひんやりと頬を伝った。それが足元に落ち、薄く積もった雪を溶かしていく。

 また一つ、雪に穴が開く。また一つ、また一つ。


 俺はまだ、ちっとも強くなんかないな。


 まだ、約束のときじゃない。


 俺はそっと、ノートに土を被せた。






 祐くんへ


 たぶん面と向かっては言えないから、ここに書くことにします。君と過ごした日々は、私にとってかけがえのないものとなりました。きっとこれから先、忘れることは絶対にないと断言します。君が私を助けてくれて、すごくすごく嬉しかったから。

 でも、これ以上は君を巻き込みたくはありません。大切な君だからこそ、一緒になって苦しんでしまうのは、余計に苦しいんです。

だから私は、本当は君に伝えたくなかった。ずっと胸の内にしまい込んでおきたかった。けれど、どうしても抑えきれないんです。今にも口から飛び出して行ってしまいそうなんです。なので私は、ここに書き記すことにしました。中途半端な女の子でごめんね。

君が強くなったら、いつか、返事を聞かせてください。


 私はずっと、君のことが好きでした。


 側に居てくれてありがとう。これからも隣に居て下さい。

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