4話
ストレスを貯蓄していた会社員の俺は、ある日突然幻が見えるようになってしまった。
それはそこら中の人間の腹からはらわたが飛び出して見える、という幻覚だ。
『街行く人も、テレビの中の人間も、会社の上司や同僚も、皆はらわたをぶち撒けながら普段通りに動いている』という幻覚が俺には見えている訳なのだ。
そして目の前にいる男の腹からも、やはり、はらわたは飛び出て見えた。
佐藤は、大学時代の友人だ。
卒業後はほとんど連絡を取っていなかったのだが、今こうして久しぶりに対面している。
「おっす」
佐藤は片手を上げていた。
「中に入れよ」
と俺はドアを大きく開き、招き入れる。
「お邪魔しまーす」
佐藤はドアをくぐった。
彼の後ろの方には、アパートの廊下に伸びたはらわたが見えた。
隣の部屋のおばちゃんのはらわただ。一直線にズラリと伸びている。
おばちゃんのワタ、ぷるんぷるんしてんなあ、なんて思いながらも、俺はドアを閉めた。
「相変わらず質素な部屋」
そう呟いたそいつの髪は脱色されていて横髪には緑のメッシュが入っている。
服装も変わらずチャラチャラとしていた。俺には何が良いのかあまり分からない格好だが、まあそれも個人の自由ってもんなのだ。
佐藤はずいずいと歩いて、テレビの前であぐらをかいて座った。そして言う。
「ゲームしようぜ」
「さっそくかよ。ちょっと待て」
俺は押し入れへと向かい、ごそごそと探った。埃を被り白くなっている本体とソフトを取り出した。息を吐きかけ、拭う。
後ろで佐藤は黙ってじっとしていた。一つに括った髪が背中に垂れている。
「はい。接続しててくれ」
と、佐藤へと本体を渡した。
俺は冷蔵庫からお茶を取り出してコップに注いだ。盆に載せて運ぶ。
部屋に戻ると、テレビと本体はあっという間に接続されていた。ソフトをパカリと開けているところだった。
「じゃあ、対戦しようぜ」
そう言って佐藤はソフトを本体に入れ、コントローラを掴む。
それを一瞥して盆をちゃぶ台に置き、黙って横に座った。俺もコントローラを手に取って液晶へと身体を向ける。
ゲームかあ。本当に長いことしてないな。
ゲームの登場人物は実写に見紛うほどの出で立ちをしているが、その腹からは何も飛び出ていなかった。
数年前に作られたものだからだろうか。それとも、リアルであれど現実世界の人間ではないからだろうか。
「お前、相変わらず下手だなあ」
佐藤の操作していたキャラクターが死んだのを見て、俺は呟く。倒れたキャラクターの腹からもやはりワタは出てはいなかった。
「下手でも良いし。……ちくしょう、もう一回」
佐藤は悔しそうに、しかし口元に笑みを浮かべながら言う。
コントローラを操作しながらも、俺は佐藤の腹から溢れ出るはらわたを眺めていた。
驚くほどに、奴のはらわたというのは飛び出していた。飛び出すというより飛び散っていた。ぶしゃあ、ってな具合に。どっひゃーんと飛び散っていた。
こいつ、格好も派手だがはらわたも派手なんだな。全くロックな野郎だぜ。
そう思いながらも、俺は再び液晶に視線を戻す。
そして問うた。
「ところでお前、どうなの」
「何が?」
佐藤も液晶を向いたまま、コントローラを動かしている。彼はコントローラの操作と共に身体も動かしていた。それに伴ってはらわたも揺れている。びちんびちんと。
「バンドとかさ、上手くいってんの」
いいや。と佐藤は首を振った。はらわたがぶるるんと震える。
「酷い有様だわ。全く売れん。女にもフられた」
そう呟くようにして答えた佐藤は、くっく、と愉しそうに笑う。
「……あ、死んだ」
再びこいつの操作していたキャラクターが倒れる。
全く下手くそだな。
「お前も大変なんだな」
「どうだろう。オレの場合、自業自得だし。自分で選んだ道だしね」
「そっか」
「あー。ダメだわ!」
佐藤はいきなり、コントローラを放り投げた。
その飛び散るはらわたも放り投げた。
おいおい、俺の部屋が悲惨になっちまうじゃねえか。
そう考えながらコントローラを拾いに行くと、
「そろそろ帰るわ。いっぱいゲーム出来たし」
と彼は立ち上がった。
「ああ。お茶はいただいておくわ」
ちゃぶ台の上のコップを掴み、それを飲み干す佐藤。
「な、なあ」
俺は、立ち上がった佐藤に呼び掛けた。
手に持ったコントローラを置く。
「何?」
俺は絞り出すようにして言う。
「俺の話をさ。少しだけ、聞いてくれないか」
「ふーん」
佐藤ははらわたを滴らせながら、口元に笑みを浮かべた。
「良いよ」
「冗談として捉えてくれても良いんだが。というか、冗談として聞いて欲しいんだが」
少し身振り手振りを加えながら、俺は語りを始める。
「うん」
「……俺、はらわたが見えるんだ」
「はらわた?」
「はらわたというのはアレだ。普段腹の中に詰まっているアレだよ。あれが、そこらにいる人間の腹から飛び出して見えるんだ。そんな幻覚が見えるんだよ」
俺の声は少しだけ震えていた。
変な話をしているからなのか。
「ふーん。はらわたを飛び出させて動いてるのか? 人間が?」
佐藤はすました顔をしながらも首を傾げる。
「そう。でろろん、って飛び出させた状態で動いてんだ」
「へえ。はらわた散らして動くって何だかゾンビみたいだな」
彼は口角を持ち上げ、にやりと笑って言う。
「いや、それが普通に動いてんだよ。普通の生活してんの。その癖してどいつもこいつもはらわた飛び散らせてやがるんだ」
「それならさ、オレの腹からも出てんの?」
佐藤は自分の腹の辺りを触り始めた。
きっと本人は何もない空間を触っているつもりなのだろうが、俺の目にははらわたをこねくり回しているように見える。
「出て見えるぜ。ぐしゃあーって飛び散ってる」
彼ははらわたをぶるんぶるん揺らした。
笑みを浮かべたまま軽く頷いてみせる。
「ふうん」
「と、言いたかったのはそれだけだ」
と、俺はそこで話を切り上げた。
「なんだそれ。訳が分からないぞ」
なんだか、話をしているうちに恥ずかしさが出てきたのだ。
久しぶりに会った友人から、はらわたが見える、と言われた佐藤はどう思っただろう。
「そ、そんな設定を考えたから話してみたかっただけなんだ。じゃあな。もう、帰るんだろ」
俺は早口で言って立ち上がる。
それとともに佐藤も立ち上がった。
「その話さ」
「なんだよ」
にやりとした笑みを浮かべたままの佐藤が俺へと問うた。
「その話の、オチは?」
「え?」
「何でお前にははらわたが見えるんだ?」
そんなの、分からねえよ。
目が覚めたら見えるようになってたんだ。
「まだ決めてないんだ。それならお前が考えてくれよ」
「分かった」
「おう」
まさかこんなことになるとは思わなかった。
そういえば佐藤はホラーなんかが好きだったっけか。
ゾンビものをよく見ていた気がする。
「その前に、ちょっと尋ねたいことがある」
「なんだ」
「写真に写る人間はどうなの? はらわたが飛び出して見えんの?」
佐藤は顎に手を当て、問う。
写真のことを聞かれて俺は少しだけ驚いた。
数日前に見た、はらわたの飛び出していない佐藤と、飛び出した佐藤の映った二枚の写真を思い出す。
「あ……ああ。そうだな。見える。ただし、ある日を区切りにして見えたり見えなくなったりする。ある日以前に撮られたものには写って見えないし、以降に撮られたものには写って見える。……という設定だ」
「ふーん」
それを聞いた佐藤は、少し面白くなさそうな顔をした。
顎に当てた手を降ろす。
「つまんないな。それって大体、オチ決まってんじゃん」
「え?」
佐藤は言った。
「お前が見ているのは幻覚じゃなくて『現実』なんだ」
「はあ? どういうことだよ」
「だからさ、お前が見ているはらわたは現実に存在しているんだよ。本当に腹から飛び出しているんだ。皆の方が、現実を認知出来ていないんだよ」
「そりゃねえわ」
と俺は笑う。
「現実的に考えて、本当に人間がはらわたをぶちまけながら歩く、なんてことあるはずねえんだから」
「設定なんだから何でもありだろ?」
設定なあ。こちらは現実起こってて困ってるんだけどなあ。
その体で話を聞いてもらってるんだから何とも言えないが。
まあ、好奇心を抱いた佐藤に捕まってしまった、んだけど。
佐藤は言葉を続ける。
「『ある日お前以外の人間全てがはらわたを撒き散らすようになった。しかし撒き散らしている本人達はそれに気付いていない』、という設定であれば、写真によってはらわたが出ていたり出ていなかったりするのにも何となく納得がいくだろ。
以前撮影された写真に写る人間の腹からは本当にはらわたが飛び出していなかったし、最近撮影されたものに写る人間の腹からは本当にはらわたが飛び出していたんだから」
「ゾンビなら未だしも、はらわただけが飛び出しているってどういう状況だよ」
「いやいや、お前が考えた設定なんだろう」
と佐藤は呆れたようにして笑う。
「しかしそうだな、ゾンビものに出来ないこともないかな。お前は皆がゾンビになった現状を受け入れられずにはらわた以外の全てを偽ったなんてのはどうだろう。現実世界では何故か『はらわたを飛び出させたゾンビ』となった人間がうろうろしているのだけれど、その現実が受け入れられないお前は、『普通の生活を送っている』幻覚を見ている。
ただ、お前の中に残っている正気が『ゾンビから飛び出したはらわた』を現実の中に見せているんだ」
つまらない、と言いながらも次々と言葉を吐き出す佐藤の顔はとてもきらきらとして見えた。
「とか?」
「冗談じゃねえよ」
俺はそう呟き、顔を逸らす。
「それに。もし全ての人間が『はらわたの飛び出させたゾンビ』だけになっていたとして、お前もそのゾンビになっていないとは限らないよね」
俺にはこいつが何を考えて、こんなことを話しているのかが分からなかった。
きっと、ゾンビものが好きなこいつにとって興味を湧かせる話題だから、こいつは嬉々として語っているだけだ。
でも。
「お前にはオレの考えていることが分からないように、オレにもお前の考えていることなんて分からないんだ。もし分かったとして、お前の思考が作られたものでないと誰に証明が出来るだろう」
「お前さ……」
半ば吐き捨てるようにして、俺は言った。
「もういいよ。帰れよ」
しかしそんな俺を見ても何も気にするのとなく、佐藤は言葉を続ける。
「お前にははらわたが見えてるんだよね?」
「もう良いって言ってんだろ」
「はらわたが、見えてるんだよね?」
仕方なく頷いた。
「何度も言わせんな。そうだよ、そういう設定だ」
「ふーん。じゃあオレの腹からもはらわたが出てるの?」
「出てるってさっきも言っただろうが。ぶしゃあ、って」
「ふーん」
佐藤はまた顎に手を当て、首を傾げる。
「どうして、お前は、平然とはらわたを見ていられるの?」
「……え?」
「オレの腹からは、はらわたが出ているんだろう。何故、そんなに平然と見ていられるんだ?」
「な、何、訳の分からないことを言ってんだ」
俺は佐藤の腹から飛び出したはらわたへと視線を向けた。
はらわた。
でろろん、と飛び出しているはらわた。
それが……
「はらわたって要するに内臓だよね。普通、内臓を目の当たりにして冷静でいられるだろうか?普通の生活を送っていられるだろうか?お前は今、オレの内臓を見て平然としているよね?ぶしゃあと飛び出している、だなんて言ったりして。でろろんと飛び出している、だなんて言ったりして」
佐藤はもう一度、首を傾げた。
「お前には、はらわたが、どう見えているの?」
それは。
それは、リアルに。
現実的に。
でろろん。
てかてか。
ぺちんぺちん。
ぽよんぽよん。
ぶしゃあ?
本当は、そんな言葉で表せられるようなものではない。
吐き気を催す鉄の匂いが胃に響く。
腐っているかのような甘ったるい匂いが鼻をつく。
ゼリー状の粘膜がまとわりついた、形の崩れた大腸が。
深淵のように底の見えない、穴の中から流れ落ちている。
俺は、佐藤の腹へと手を伸ばした。
はらわたを掴む。
それは、手の中でとろけるようにして落ちていった。
「リアルに、見えている」
はらわたは腐臭を放ったまま、べちょり、と床に落ちていく。
柔らかい臓物の周りから溢れる黄色の液体が、カーペットにじんわりと染み込んでいく。
「ふうん。リアルに見えているんだ」
「……ああ」
はらわたを撒き散らすテレビを眺めて、おばちゃんのはらわたを飛び越えて、はらわたに囲まれて通勤をして、はらわたの飛び出した上司の命令を聞いて、はらわたを引きずる先輩に相談をして、はらわたを垂れ流す親子を見て微笑んで、はらわたを抱える医者の診察を受けて、そして今、こうしてはらわたを飛び散らす友人と向かい合っている。
……何故?
俺は、一度もはらわたから目を背けなかった?
はらわたの見える現状を異常であると感じていた。
どうにかせねばならないと思っていた。
しかしその現実を、俺は『コミカル』に捉えていた。
臓物の飛び出す現実を、『至って普通に』過ごしていた。
「もしお前がゾンビなのだとしたら」
と佐藤は言う。
「『周りがゾンビになってしまったことが受け入れられずに現実を過ごしている幻覚を見るようになってしまった。しかし頭の中に残った正気がはらわたを見せてしまっている』というプロットで動いている、ゾンビになってしまっているんだろうな
その設定に不備が出て、お前が『はらわたを見ても平静でいられる』という状態になっていたりするんだろうか?」
言葉を続けていた佐藤だったが、俺の表情に気付くと慌ててみせた。
「冗談だよ冗談。そんな顔しないでくれよ」
苦笑いを浮かべ、
「オレの思考は中学生の時から時が止まったままなんだ。大学を卒業したってそれは変わらないのさ」
くっくっく、と喉から声を絞り出す。
「だけれどさ、もし皆がゾンビだったとしても、普段通りの生活をしているのならば、それと人間となにが変わらないんだろうな」
最後にぽつりと呟き、
「オレ、そろそろ行くわ。正月に帰ってくるし、また遊ぼうぜ」
彼は玄関のある方角を向いた。
「すまんな、オレの方が長々と話しちまった」
「ふふ」
唇の端から息が漏れる。
「ふふふ」
腹の底から何かがこみ上げてきた。
俺は両手を付いて、その場に座り込む。
「……どうした?」
佐藤は心配そうな声をしてこちらを覗き込んだ。
こちらを見下ろす佐藤の顔は、なぜか滲んで見える。
霞んで。
色が――
不意に、インターネットで見た知識を思い出す。
人間の肌は死後、緑、紫、黒、と変色していく、らしい。
こいつの肌の色は今、何色なのだろうか。
俺の肌の色は一体、何色なのだろうか。
「いや、何でもない」
俺は笑いながら呟いた。
「また正月、会おう」
それを聞くと、佐藤はまだ心配そうにしながらも身体を翻す。
「うん。それじゃあ行くわ。ストレスは溜め込むなよ」
ひらひらと手を振り、ドアの方へと向かっていく。
その姿を俺は見送った。
それはいつもの、学生の頃と何ら変わりのない、佐藤の背中。
「お邪魔しましたー」
彼は靴を履き、軽く挨拶をしてドアを開ける。
そしてそのまま俺の家を出て行った。
部屋に訪れる静寂。
しかし、それはすぐに小さな声で掻き消される。
「ははは」
俺の喉から出るのは乾いた笑い。
けれど身体の底から絞り出されるような笑いだった。
そうだ。
街行く人から、上司から、先輩から、同僚から、親子から、医者から、そして目の前にいる友人から、はらわたが飛び出していたって何が変わるんだ。
ゾンビであったって何が変わるんだ。
人間と何が違うって言うんだ。
どいつもこいつも、何の気なしに動いている。
今まで通りに動いている。
自分が生きた人間であるということを疑うことなく動いている。
そこに意思があろうとなかろうと、動いているじゃないか。
「……はは」
腹からこみ上げるそれを抱き、呟いた。
「一体、何が変わるっていうんだよ」
俺は腹を押さえるようにしてうずくまる。
感情が、溢れ出てこないように。