3話
俺はソファーに座って、自分の名が呼ばれるのを待っていた。
床には絨毯が敷かれており、窓からは暖かい光が射し込んでいる。隅には観葉植物。壁には絵画。クラシックがかけられている。
やけに小洒落ているが、ここは病院の待合室だ。
俺はどうにも先日から、人間の腹からワタが飛び出して見えるようになってしまった。そこらにいる人間がはらわたを撒き散らしながら平然と生活している、という幻覚を見てしまうようになったのだ。
こりゃあ、頭がおかしくなってしまった。と思った俺は病院を訪れることにした訳だ。
しかしなあ。と俺は思う。
単純な幻覚かと思っていたはらわたは、少しだけ複雑だったようなのだ。
いつでもどこでも誰からも出ているものかと思っていたのだが、どうにもそうではないらしい。
数日前。
この病院に初診の予約を入れる際、俺は大学時代の友人、佐藤と連絡を取った。
そこで彼は二枚の写真を送ってきた訳なのだが、その写真の一枚に移る佐藤の腹からはワタが飛び出ておらず、もう一枚の方の佐藤からはワタが飛び出て見えていたのだった。
何度見比べたって、それは変わらなかった。
試しに、『バンドの写真っていつ撮った?』
と尋ねてみると、
『ひと月前に撮ったぜ』という返信が来た。
佐藤がドラムに跨った写真。
はらわたが飛び出して見えない写真。
それは、ひと月前――要は俺が『はらわたが見えるようになる前に』撮影されたもの、という訳だ。
なんとなく状況を察し、俺はブラウザを開いた。
人間の画像を検索する。
ここ数日で撮られただろう画像に写る人間は皆、はらわたを撒き散らしていた。しかし、それ以前のものは至って普通の腹をしていた。
思い返せば、はらわたが飛びてて見えるようになってからインターネットも何もろくに見てはいなかった。
テレビだってそうだ。どれもこれも生で放送されているものしか見ていない。
街を上から眺める映像、LIVEの食レポ、天気予報。そういやどいつも生放送で事故を起こしていたっけ。
家に帰ってテレビを付けるとドラマがあっていたのだが、登場人物からはやはり、はらわたが飛び出してなどいなかった。
ドラマは撮影してすぐに、放映される訳じゃない。
写真や映像に写るはらわたも、ある日を境に飛び出したり引っ込んだりしているというわけだ。
そんなこんなで俺は、この幻覚はどうにもややこしいものであるらしい、と察したのだった。
こんな訳も分からん症状の俺を、医者は診てくれるのだろうか。
心配になってきたぜ。
待合室にちらほらといる人間。
近くのソファーに座っているおじさんは、その出っ張った腹からぼよよ〜んとはらわたを飛び出させている。
観葉植物のそばにいる泣き出しそうな女の子は、その肩と共にぶるぶると内臓を揺らしている。
他に座っている患者も、皆が皆、はらわたを引きずり出していた。
それぞれ個性に溢れてんなあ、と思いながらそれらを眺めていると、渦巻くような形をしたはらわたをした看護師さんに名前を呼ばれた。
「診察室にお入り下さい」
「あ、はい」
頷いて、立ち上がる。
案内されたドアを開け、診察室へと入った。
「こんにちは」
そこには、太いはらわたを抱えた医者が座っていた。
歳の頃にして五十過ぎというところだろうか。白髪が目立っている。
はらわたに栄養を持って行かれてるんじゃないか、と思うほどに痩せている医者だった。
「あ、こんにちは」
それだけのやり取りなのに、医者は何かを電子カルテに書き込んだ。
その際に両手に抱えたはらわたが投げ出されるようにして滴り落ちる。ワタは椅子の向こう側に落ちていった。
それを見ながら思う。
何書いてんだろう。気になるな。
しかし電子カルテの内容は、こちらからは伺えない。
「先ほど、紙に書いて頂きましたが」
と医者は再びこちらを向いて言った。
そういえばさっき、悩んでいることを挙げる用紙を記入させられたな。
「『幻覚』とだけ書かれていましたね」
「そうですね」
俺は頷く。
「幻覚が見えるのですか」
「はい、そうですね。恥ずかしい限りですが」
「恥ずかしくはありませんよ。どのような幻覚ものが見えるのですか」
彼は淡々とこちらに問うた。
「その、ですね」
頭を掻きながら答える。
「……はらわたが、飛び出して見えるんです」
医者は少しだけ、その痩けた頭を傾げるようにした。
「え?」
どうにも反応が悪いぞ。
俺は少し、慌てたそぶりを見せた。
「こうやって皆、普通に生活をしているじゃないですか。けれど今まで通りなのにも関わらず、はらわたが飛び出て見えるんですよ。こう、でろろんって」
身振り手振りをして伝えようとする。
俺は、自分の身に起きたことを一から説明した。
数日前、目を覚ますと、テレビに映っていた人間からはらわたが飛び出して見えたこと。テレビだけでなく街行く人からもはらわたが溢れて見えたこと。会社の人間からも、友人からも、はらわたが飛び散って見えたこと。
「ほう……」
と医者は頷く。
何らかを電子カルテに書き込んでいた。
それと同時に、向こう側に投げ打たれた内臓がでるるんと揺れているようだった。
「そのはらわたというのは、見える気がする、脳裏に浮かぶ、というのではなく、実際に見えているということですか?」
「はい。実際に見えています。今、ここに。あなたの腹部からも出ているように見えます」
俺は揺れるはらわたを見ながら、答える。
「はあ」
と声を出して医者は自分の腹の辺りを見た。
そしてすぐに、こちらへと視線を戻す。
「しかし、実際に見えているにも関わらず、幻覚であると認識していると」
「はい」
「一度、MRI、X線検査も行った方が良いかもしれませんね」
「えっ」
俺は小さく声を上げた。
「『幻覚』といえば目に見える幻を想像されるかもしれませんが、患者さんは幻聴を訴える方のほうが多いんですよ。はっきり見えるようならば、脳に器質的な問題があるかもしれません」
「ストレスじゃ、ないんですか」
「そうとは言い切れませんが、そういう可能性もあるということです。大きな病院の方に紹介状を書いておきましょうか? 急ぐ必要はないとは思われますが」
医者は再び、身体とはらわたを動かした。
「ああ、いや、それならば今は良いです」
首を振る。
「そうですか。次回は二週間後でよろしいでしょうか」
「あ、はい」
どうにかしてくれると期待していたのだが、どうにもならなかったみたいだ。
そりゃあ一回目じゃあな。こんなもんか。二週間後、また考えよう。その時まだ見えているようならば、検査をするしかないってことだろう。
俺は立ち上がった。
その時、電子カルテの内容が目に入った。
きっと医者も敢えて隠していたのだろうと思う。
しかし、たまたま見えてしまったのだ。
そこに書かれていたのは、
『表情が見られない』
『はらわたを見ている、という妄想を抱いている』
という文字だった。
俺の頭が、ぐわり、と捻れるのが分かった。
妄想じゃ……。妄想じゃ、ない。
俺は本当にはらわたを見ている。それが幻覚であろうと、俺にはそれが本当に見えているんだ。妄想じゃない。嘘じゃない。俺は嘘なんて吐いていない。今もこうして、医者の垂れ落ちる臓物を見ているじゃないか。それは嘘じゃない。本当に見えている。本当に見えているんだ。妄想? 思い込み? 違う。俺は実際に見ている。はらわたを見ている。嘘じゃない。何故信じてくれないんだ。お前の腹からは現に飛び出ているんだ、はらわたが。内臓が。臓物が。ぐちゃぐちゃとした、
身体の底から、何かが湧き上がってくる。
違う、俺は本当に見ているんだ、何故信じてくれな――
いや。
ま、いっか。
二週間後も来よう。
「では、二週間後に」
そう言った医者のはらわたは、ぽよよんと波打っていた。
それにしても肥えたはらわただなあ。もう少し本体に栄養を分けてやれよ。本体が可哀想だぜ?
なんて思いながらも、俺は診察室を後にした。
自宅に着いて早々、俺はベッドに寝転がり、スマートフォンを取り出した。佐藤へとメールを送るのだ。
結局先日は会う約束はしたものの、それをうやむやにしてしまったからな。何かしら送っておくべきだろう。
それとも、今日会ったりは出来ないだろうか。
俺はいつでも休みを取れる訳じゃない。今日だってたまたま空いていただけだ。
それに次の休みまでに佐藤が帰ってないとは限らないしな。
とりあえず、尋ねてみるか。
『今日空いてる?』
すると、すぐに返事が来た。
いつでもスマホを触ってんだろうな。大学時代もよく携帯を弄っていたっけ。
『今は空いてないけど、夜なら』
夜か。明日も普段通りに仕事は入っているが、まあ仕方ない。会える時に会っておこう。
『そうか。じゃあ夜に会おう。場所はどうする?』
と問うと、こう返ってきた。
『お前ん家行く』
やめてくれ。
と思った。
『やめてくれ』
と送った。
『なんで』
お前の腹からワタが飛び出てるからだよ。俺の部屋でぶしゃあとはらわた飛び散らされても困る。
うーん。しかし、そうだな。はらわたは幻覚な訳だ。幻な訳だ。どうにでもなれ。
『まあ、良いや。やっぱりOK』
『ふーん。ところで**ある?』
それはゲームソフトの名前だった。俺の部屋に置いている、埃を被ったソフト。本体も同様に埃を被っているが。
『あるけど、最近使ってねえや』
『対戦しようぜ』
『おう』
佐藤が夜、家に来ることとなった。どうやら用事が済めばあちらから家を訪ねてくれるらしい。
それまでちょっくら休むか。とスマートフォンを放り出す。
俺は気が付けば、眠りに付いていた。