1話
どうも、俺の頭は狂ってしまったらしい。
『自分が狂っているのだと認識出来ている者は、まだ正常なのだ』と何処かで聞いたことがある。
狂人は、自分の頭がおかしいのでなく自分をおかしいとするヤツこそがおかしい、と考えるのだそうだ。
現実を認めたくないがために、自分が病的であることを認めたくないがために、彼らは、自分こそが正常なのだと思い込む。
自分が狂人であることを否が応でも認めないのだ。
しかしだな。
どうにも、俺の頭は本当におかしくなってしまったらしい。
認識出来ているだとかいないとか、そんなことは知ったこっちゃない。俺の頭は本当におかしくなってしまったのだ。
なんてったって、幻覚が見えるようになってしまったのだから。
それも、常軌を逸した幻覚が。
俺は突然、そこらの人間から、はらわたが飛び出して見えるようになってしまった。
はらわたというのはアレだ。普段人間の腹の中に詰まっている臓物だ。大腸だ。小腸だ。
それが、腹からでろろんと飛び出して見える。
ある奴ははみ出たソレを自身の体にぺちんぺちんと打ち付けているし、またある奴は長く伸びたソレを地面に這わせて歩いている。ある奴なんかは、はらわたを飛び出させるどころか飛び散らせていたりした。
額に脂をにじませた中年のおっさんも、眼鏡をかけた真面目そうな男子中学生も、スカートの短い女子高生も、皆はらわたを引きずり出して、通勤通学してやがる。何食わぬ顔をして吊り革を掴んでいやがる。
談笑やスマホを弄る前に腹にワタを収納しろよ。 と思ったりもするのだが、どうにもこうにも俺が見てるだけの幻覚なのだから文句も言えない。
こんな具合に俺は、普段通りに動いていながらも皆がはらわたを飛び出させている、という幻覚を見ている訳だ。
さすがにこれが普通だとは言えないだろう。頭がおかしくなったとしか言えまい。
しかし昨日までは、こんな不可解なことなど起こってはいなかった。少なくとも夜寝付くまでは普通も普通、何の変哲もない頭をしていたはずだ。
こんな変なモノ、今まで見えたことなどなかったのだから。
最初におかしい、と気付いたのは、今朝目が覚めていつものようにテレビを付けたときのことだった。
液晶には東京の街を上から撮した映像が流れていたのだが、画面の中の人間は皆、はらわたを撒き散らして歩いていた。
赤と白とピンクと黒の混じり合ったはらわたと、肌色の人間たちが揉まれ合っているのが見て取れる。
それを見て、俺は頭を抱えた。
チャンネルを変えてみても、『柔らか〜い』などと陳腐な食レポをしている女の腹からはワタがはみ出て見えた。皿の上には柔らかそうなお肉と臓物。
生放送で大事故が起きているぞ。なんだあ、これは。
少し考えたのち、ああ俺疲れてんだなあ、と悟った。
ストレスを発散してこなかったおかげで疲れてしまっているのだと。なるほど。
テレビの電源を切り、普段通りに会社へ向かう準備をする。
家を出たところで、隣の部屋に住むおばちゃんと遭遇をした。やはり、はらわたが飛び出して見えた。
おばちゃんの腸はアパートの廊下に一直線に伸びていた。
「あらあ、おはよう」
「あ、ああ。おはようございます」
なんて挨拶を交わした後、はらわたを踏まないようにして俺はアパートを飛び出した。
街行く人々、その全てから、はらわたがはみ出して見えた。なるべくそれらに触れないようにしながら職場へと向かうことにする。
ああ。人間と遭遇すればするほど自分の頭が心配になってくる。
ストレスのせいなのか。それとも何かの衝動でネジが外れちまったのか。何がどうなっているのか。
俺は電車までの道を少し早足で進み、そそくさと乗り込んだ。
そんなこんなで今。
俺は吊り革に掴まり、揺られている。
スマートフォンを弄っている女子高生のはらわたが、電車の振動とともにポヨンポヨンと跳ねている。おっさんの頭には腹より伸びた臓物が乗っかっていた。
俺はしみじみと思った。
ここが都会じゃなくて本当に良かったなあ、と。
高校生の頃は東京まですぐに行ける距離に住んでいたのだが、大学進学とともにこの地方都市へと越してきた。
そしてそのまま、社会人となった今でもこの場所に住み続けているのだ。
この土地自体はあまり好きではないのだが、都会ならば、満員電車ならば、きっと今ごろ俺は人間とはらわたに押し潰されていたのではなかろうか。
赤くて白くてピンクで黒い臓物に。ぎゅうぎゅうと。
それは嫌だ。
「次は**」
車掌のアナウンスが聞こえてきた。
俺は普段、ここの駅で降りている。ああ、降りなくては。
この車掌もワタを垂れ流しながらアナウンスしているのかなあ、などと思いながら俺は降車した。もう半ばヤケクソだった。
俺の勤める会社は、電停より徒歩三分ほどの場所にある。
入り口をくぐり、階段を登り二階にある自分の職場へと向かう。
部屋のドアを開けるとそこには直属の上司である係長が一人、座っていた。
上司は入ってきた俺を不機嫌そうな顔で一瞥して早々、ぼそりと呟くようにして言う。
「便所掃除してこい」
「あっ、はい」
いつも通りに頷いた。
俺は早足で自分のデスクへと向かった。
仕事鞄をいつもの場所に置こうとしたところで、隣のデスクに同僚が座っていたことに気が付く。
しかし彼は顔を伏せてすやすやと寝息を立てていた。なんでこんな朝っぱらから寝てんだ、こいつ。
鞄を置き、トイレへと向かう。
その途中で視界の端に足を組んだ上司の半身が映った。やはり、彼の腹からもワタが飛び出していた。
そのはらわたは、今までのぴちぴちとした臓物達と比べるとだいぶ萎れてしなしなとしている。
はらわたも人によって違うのだな。個性があるのだなあ。
いいや、これは俺の見ている幻覚なのだから、このはらわたは俺が『上司の腸』に対して抱いているイメージか。
なるほど。いや、なるほどじゃない。なんだか混乱してきたぞ。
「何してんだ。早く行け」
俺が悶々としながら上司のはらわたを眺めていると、彼が不機嫌そうに声を荒げたため、そそくさとその場を離れることにした。
少し歩いてトイレへ着くと、小慣れた感じで用具入れからブラシを取り出して便器を磨く。
会社に到着してすぐの便器磨き。
これは俺の日課なのだ。
何故なのかは分からないが、この小さな廃れかけの会社に入社してから俺は延々と便所掃除をさせられている。
もちろん普通の業務も任せられてはいるのだが、暇さえあれば便器を磨かされているのだ。
ここにしか勤めたことがないためハッキリとしたことは知らないが、きっと他所では社員が交代交代に掃除をしてたりするんじゃなかろうか。どうなんだろうか。
便所掃除をして給料が貰えるんならまだしも、こなさねばならない課題の量は変わらないし、俺はサービス残業時間を延長してまでひたすらに便所掃除を行っている。
課長だって俺がイヤイヤ掃除させられているのを知っているだろうに、素知らぬ顔をしている。同僚だってそうだ。
俺自身も、上司に対して何も言えないからこうして黙々と便器を磨き続けてるんだけどさ。
などと考えながらも便器を磨き終わり、さて次は床か、とデッキブラシに持ち替えたところで誰かがトイレへと入ってきた。
「あ、先輩おはようございます」
「おう」
先輩は、デッキブラシを持って屈んでいる俺を半ば呆れたようにして見下ろしていた。
「お前も大変だなあ」
「そうですね」
俺は苦笑する。
目の前には、先輩のはらわたがあった。
腹からはみ出したそのワタは垂れ下がり、トイレの床へと伸びていた。衛生上問題はないのだろうか。大変だな。いや、俺の頭の方が大変か。
「なあ。便器ばかり磨いて情けなくならないのか? お前の仕事は清掃員じゃないだろう」
「清掃員ではないですけど、清掃だって立派な仕事ですよ」
そう言って、俺はタイルの床をごしごしと磨く。
床に伸びている先輩の腸には触れないように気を付けた。
まあ幻覚な訳だけど、気分的に。
「そう強がってないで無理すんなよな。なんか最近顔色悪いし。マジで病気になるぞ」
先輩ははらわたを引きずりながら、小便器の前へと移動した。俺は少し笑って呟くようにして言う。
「確かに、疲れているかもしれません。少し目が、おかしくて」
目というより頭がおかしい訳だけど。
「ふーん。疲れ目かな。オレもよくなるよ」
先輩は続ける。
「けどお前、目というより本当に顔色が悪いから、一度病院には行った方が良いんじゃねえかな」
どうやら彼は俺の身体の心配をしてくれているようだった。
それから多少仕事についての話をして、彼は去っていった。
もちろん、ズルズルとはらわたを引きずって。
うん。そうだな。
幻覚が消えないようなら病院へ行ってみるか。




