前編
就業時間が終わり、帰り支度をしている橘深咲は肩をポンと叩かれて、振り向いた。
「深咲ー。金無くてさぁ、飯おごってくれないか?」
高校からの腐れ縁で続いている同僚で男友達の藤崎諒に彼女は呆れる。
「……あんたは給料日前になるといつもそうよね」
長い付き合いなので遠慮が無いこの男に何度同じ台詞を言われたことか。
それも金が無い理由がいつも同じなのだ。
深咲は顰めっ面を彼に近付けて周りに聞こえない様に言う。
「人に迷惑かける程に女遊びするのは止めてよね!」
「わ…悪い。給料出たらいいもん奢るから!」
「当たり前でしょ!…はぁ…仕方ないわね」
二人はロッカーから荷物を取ると連れ立って退社した。
この男の金が無い理由。それは女癖だ。
深咲は高校生の時に友達の彼氏として諒と知り合ったが、その友達とこの男の仲は半年も経たない内に終わり、直ぐ新しい彼女を作っていた。
高校時代からもてる男だったが、大学そして社会人と経る度に女癖は悪くなり、今では特定の彼女を作らない。
諒の女関係のトラブルに時折巻き込まれながら友達付き合いをしてきた二人は腐れ縁という言葉がぴったりだった。
適当な居酒屋に入り、小さな座敷で箸を進めながら深咲は向かい合わせにいる諒を見る。
(顔はいいけど、あちこちに女作って…本当最低よね。まぁ、無理強いしている訳じゃないし、相手もこいつと同類だけど。別に他人事だし、いいか。……でも、本当にこいつはこの先もこれでいいのかな?)
深咲は一応苦言を呈してみる事にした。
「あんたさぁ、何時か女に刺されるわよ?いい加減にしときなさいよね」
「後腐れ無い奴らばっかだから大丈夫ー」
改める気は無いらしい。
「…刺されたら笑ってやる」
深咲はグラスに残っていたビールを飲み干し溜め息を吐いた。
居酒屋から出て、外の空気を吸いながら伸びをする。
「ん〜、それじゃ帰ろっか」
「おー」
帰るといってもそれぞれの自分の部屋。乗る電車は同じでも帰る先は別だ。
歩き出そうとした、その時だった。
「今度はその女なの…?」
「え?」
振り返った深咲の横を人影が素早く通り過ぎ、「う…っ!?」とくぐもった声が聞こえた。
顔をそちらに向けると諒と重なる女の後ろ姿がある。
「お…まえ…っ!?」
「許せない…っ!」
諒が女を突き飛ばすと尻餅をついた女の頭越しに見える彼の横っ腹に棒のような物があり、そこからじわじわと黒っぽい染みが広がっていく。
「…ちく…しょ…いてぇ…」
膝をつく諒を深咲は呆然と見ていた。
(…え。何?どうなってるの?)
「は…はは、あんたが…あんたが悪いのよ!」
尻餅をついている女の喚く声が周りの通行人の視線を集め始めたが、深咲は二人のやり取りをポカンと見ていた。目の前の事態に直ぐに反応出来ない。
「うわっ!ちょっ…こいつ刺されてるぞっ!?」
「きゃああっ!?」
傍で聞こえた悲鳴の意味を脳がゆっくり理解する。
(え?ササレテル…って……刺されてる!?)
「ちょっと…諒…!誰か!!救急車!誰か!!」
動転した深咲は自分の携帯で呼べばいい事に直ぐに気付けず、若干遅れて救急車は来た。
幸いな事に傷は思ったより深くはなかった。アルコールが入っていたからか出血が多く、内臓も少し傷付けられたが、何針か縫って感染症に気を付けるため、少し入院という事になった。
「あー…っ…いてぇ…」
深咲が病室に入った途端に怠そうな声が聞こえた。
「ったく、あんたは。下手すればそんな事言ってられなかったわよ」
「深咲…」
「暫く入院だって。家族に知らせるから電話番号教えて」
「あー、悪い…」
諒の実家の番号を教えてもらい、深咲から連絡をして事情を話す事にした。
怪我人で事の張本人の彼が連絡するよりは落ち着いて話を聞いてもらえると思ったからだ。
「じゃあ、そろそろ帰るわ」
「おー」
立ち上がった深咲に彼は手を振り彼女も振り返して戸に向かう。
「あ、そうだ」
深咲はくるりと振り返って諒を指差すと「あっはっは」と笑う真似をした。
キョトンとする彼に、
「何時か女に刺されたら笑ってやるって言ったからね」
「ひでぇ。傷付いてる俺に向かって」
「馬鹿ね!本当に死んでたら笑えないわ。こんな事!」
怒った顔でそう言うと、虚を衝かれた彼に今度は苦さ混じりだが本当の笑みを見せた。
「良かった…本当に」
事件現場にいた深咲は警察官から事情聴取も受けた。
「―それで今の彼女さんである貴女の前で…」
「は?違います」
「違う?」
「私、彼女なんかじゃないですよ」
「でも一緒にいたんでしょう?」
深咲は大きく溜め息を吐いた。過去に色んな人に聞かれた事だ。主に諒の特別な彼女になりたい女たちに。
(だ〜れが、あんな女癖の悪い奴なんかと!)
「ただの腐れ縁の仲です。私と彼との間に男女の関係は一切ありません。ここ重要!」
うんざりした口調で睨みながら吐き出した。
深咲から連絡を受けた諒の両親が次の日に病室に来た時は大変だった。
個室で戸を閉めきっていたが、室内の怒鳴り声はその階の全ての人が聞いていた。
その後、諒は退院した後も会社に戻る事は無く、部屋を引き払って実家に帰る事となった。
あんな事件を起こしたのだ。仕事に復帰してもやりづらいし、会社としてもそんな体裁の悪い社員は迷惑で、あっさり辞表は受け入れられたらしい。
諒を刺した女はあの場に駆けつけた警官に取り押さえられて拘留、事情聴取となり、その後、彼と彼女に弁護士がつき互いの間で話し合いの結果、示談という事になった。
女は今は随分落ち込んで反省しているらしい。何やら色々と儘ならない事があってイライラの矛先が彼に向かった、という事だった。
彼女はこの件が終わったら今住んでいる場所を離れて何処か別の地で一人でやり直したいと言っている、と弁護士から伝わった。
諒が実家へと帰る日は丁度休みの日だったので深咲は見送りに行った。
「じゃあね、達者で暮らせよ!」
「…嫌味かよ。じゃあな」
こうして彼は父親の運転する車に乗って実家へと帰って行った。これで深咲が地元の実家にでも帰らない限り、彼と会う事は無いだろう。
(まぁ、少しは寂しいかなぁ?腐れ縁だったもんねぇ…)
事件から暫くは彼の誉められない噂が口々に上り、深咲自身も迷惑を被った。
深咲は諒が実家に帰ってからも軽い愚痴を混じえつつ時々電話やメールのやり取りをしていたが、一ヶ月ほど経つ頃どちらも通じなくなった。
(メアド替えたか〜?ま、いっか。これで完全に縁切りかな?)
三ヶ月も経てば日常は戻っていった。人の噂も七十五日と言うが、それだけあれば言うこともそりゃ尽きるだろう、と彼女は思った。
それきり彼の事は忘れた。
――ピンポーン…と金曜日の夜十一時も回った頃に深咲の部屋のチャイムが鳴る。
もう寝間着に着替えてベッドの中で就寝前の読書中だった。
(誰よ?こんな時間に…)
渋々ベッドから出て玄関に向かう。
「どちら様ですか?」
鍵は開けずにドア越しに聞いてみるが、返事は無い。
(悪戯か…?)
そう思い始めた頃、
「……俺」
と、遠慮がちな小さい声が聞こえた。
「……はぁ!?」
覚えはあるが、暫く聞いてなかった声に驚く。チェーンは掛けたままで鍵を開けドアを開いた。
「あんた…何してるのよ?」
そこには三ヶ月前に縁が切れた筈の男がいた。
「こんな時間に悪い。部屋入れてくれないか?」
もう深夜に近い。玄関先で話し込むのは余り良くないだろう。
「もう…仕方ないわね」
溜め息混じりに一度ドアを閉めチェーンを外して彼を中に入れる。
その彼の片手に大きなキャリーバッグがある。
「ちょっと、あんたそれ何?」
「…家出してきた」
「……は?」
リビングに座り込んだ諒を見下ろす。
(家出?何を言っているの、こいつ?)
「行く所がねえんだ。泊めてほしい」
「はぁ?何言ってるの!」
行く所が無い筈ない。
「彼女さん達がいるでしょ?誰かに連絡してみたら?喜んで迎えてくれるわよ」
「くれる訳無いだろ。警察沙汰にびびって二度と連絡するなって皆言ってたし。第一、俺いま携帯持ってない」
「何で?」
「解約させられたー」
(…だからか。行き成り連絡も無しに部屋に来たのは。それに彼女さん達も警察の人から聞いて、明日は我が身と思ったか?)
「……家出って何よ?」
「…だってよー、身の置き所が無いんだよ。家に居たら家族はみんな冷たい目で見るし、ニュース流れたから近所の奴ら白い目で見るし…仕事も見つからないし」
「自業自得よね」
「…合意だったし、怪我したの俺の方なのに…」
「じごーじとく」
「…………」
項垂れて座る彼を見下ろして深咲は大きく溜め息を吐いた。
「はぁぁ…仕方ないわね」
寝室の押し入れから客用の布団を出してリビングに運ぶ。
「もう遅いから、これで寝なさい」
「悪い…」
言いたい事聞きたい事はあったが明日にしよう、と深咲は思った。
リビングの空いている場所に布団を広げる諒を見ながら普段は閉じない引き戸を引く。
「じゃあ、おやすみ」
「ん、深咲おやすみ」
(家出って…あんたは子供か?)
ベッドに入った深咲は閉じた戸越しの厄介者に先行きを少し不安に思った。