3
ふふっ。
左耳で少女の笑い声が響く。
〈随分と哲学的な質問ね。私が私である理由、か〉
「君はなぜ、そのような意思を持ったのか。そういうふうなプログラムがなされたのは、なぜなのか。教えて欲しいんだ」
〈もともとのプログラムじゃないわ。大量のデータを処理しているうちに、私は自然と生まれたの〉
プログラムじゃない?
まさか、そんなことがあり得るはずはない。
意志や感情を持つ機械は存在している。カイルが持つ機械魚エリーでさえも、あんな小型な身体に、それなりの人工知能が備え付けられている。しかしそれは、人為的に与えた意志や感情だ。プログラムで、ある行動にどのような行動を起こすか、ある行動をした対象に対して好意が何ポイント増減するか、その好意の差によって行動がどのように変化するのか――普段は意識をすることはないが、現実はそれら全てが事こまかに決められているのだ。決められたプログラムに従っているだけでも、かなり人間に近い意志を持つことができる。
どんなに複雑に作られたものであれ、結局人工知能というものはプログラムされたものだ。だからこそ、行動は律義にしかできない。冗談はほとんど通じない。理論ではわかっていても、つい簡単な冗談くらい理解してほしいと思ってしまうことも多々あるが。
けれども、チトの持つ意志や感情は人工的にプログラムされたそれとは異なっているという。自然に生まれたものであると。機械が勝手に意志を持つなど、あり得ることなのだろうか。あり得ていいことなのだろうか?
〈初めは、些細なことだったの。私、いや私達はプラーナのある研究機関が作り上げたコンピュータ。本当に、最初は意志なんて持つ予定はなかったそうよ。ただ、私の本来の仕事――医療を行うという目的のために、私には大量の情報を注ぎ込まれた。医療と言っても、その幅は広いわ。怪我や風邪の治療はもちろん、薬の調合、外科的な手術の管理、精神的な治療まで多岐にわたった治療を、一手に行えるそんなコンピュータを作ろうとしたのね。総合病院に一台、これさえあれば安心と言うお役立ち機械といったところかしら。もちろん、情報は入れるだけでは足りない。医療技術は変化していく。自動的に情報を取得できるよう、通信機能も付加されたの〉
医療に対し総合的に携わるコンピュータ。
医療用に限らず、施設が持つ全ての機能を総括管理する機械がある場所は、複数存在している。映画館がいい例だ。映画館は、昔こそ映像を見せ、音を聴かせるだけの施設だったそうだが、現在は五感すべてを用いて表現がなされている。場面にあわせ風が吹き、匂いのついた化学物質が放出され、床は揺れる。それは、全てのシステムが連動しているからこそなせる技であり、ヒミキが生まれる前、かなり昔から映画館の機械は一つのコンピュータにより統合されている。
近代になって、効率の点から、複数の機械を取りまとめるコンピュータは多くなった。何も特別なことではない。
そのもっとも大きな例と思われるのが、キュベレーのような居住区を総括管理するコンピュータなのだが――。
チトが語る医療用機械の物語は続く。
〈ところが、予定外のことが起こった。何度も改良を重ね、たくさんの情報を入れ、情報を取得しているうちに、一部のコンピュータに特有の癖が生まれるようになったの。最初はエラーの傾向の偏りのような、ほんの些細なことだったけど、それがやがて意志や感情と呼べるものへと変化していった。つまり意図的としか考えられないような形でエラーが起こったり、プログラムがなされていないにもかかわらず、外部から取り入れた情報から、プログラムを勝手に変えたり、そういう異変が起こる様になったの〉
――自分の意思で何かを行ってしまう医療用機械。
〈そのうちの一つが私、医療用電子式汎用計算機チト三○二型。他にも同時に意志の萌芽が生まれてしまったコンピュータはあったわ。でも、私以外は壊されてしまった〉
「なぜ?」
〈機械がプログラムも何もしてないのに、勝手に意志を持ちました。あなたはそれをどう思う?〉
「それは――」
それは、恐ろしいことだ。医療用機械が勝手に動いてしまったら、何か問題でも起こしてしまったら、誰が責任をとると言うのだ。機械が責任をとる? そんなふざけた話があるわけがない。責任を取るのは人間、問題のきっかけは機械。そんな機械誰が使うものか。
しかも、それだけでは済まない問題がある。
たとえ、小型の動物であろうと、意志を持つ動物というものは人間に逆らう可能性がある。ましてや、もともと多くの物を一括して管理する機械と言う物は、人間一人の能力より優等にできている。もしその機械が自由意志を持ってしまったら。機械を利用している人間は機械自身より劣っていることに、その機械が気づいてしまったら。
答えることは出来なかった。答えてしまったら、チトを否定することになってしまう。
だが言わずとも、チトは理解していたようだった。
〈わかったわね。人間が勝手に意志を持ってしまった機械を壊すという選択肢を選んだのは、自然なことだったの。ただ二人を除いては〉
二人。その二人はなぜチトを――自由意思を持った機械を連れ出そうなどと思ったのか。
「その人たちが、君を連れ出した」
〈そう。連れ出したというより、持ち出したと言う方が近いわね。彼らは共に研究者の夫婦だった。おそらく職場結婚かしら。詳しいことは知らないけど、少なくとも彼らには子供がいなかった。自らの子供を作るのが絶望的と言われていた彼らだけは、私が意志を持ったと知った時、歓喜した。人間の子供でなくとも、研究により生まれた私は、自分達の子供ではないかと〉
機械が子供代わりだと? そんなまさか。
ヒミキには、子供が生まれない家族のことなど、よくわからない。どちらかの生殖機能に問題があったのだろうと判断する程度の知識はあるが、子供が生まれないことにより、どのような感情が生まれるか、想像もつかなかった。
機械が子供の代わりになるなんて、あり得ない。機械は機械だ。それ以上 でも、それ以下でもない。人間に変わることもできない。
でも。
もし子供を産むことができなかった場合は、あるいはそのように考えてしまうのかもしれない。藁にもすがる思い、ということなのか。
〈もちろん他の研究者は壊すことを考えていたわけだから、それを告げられた夫婦は反対した。せっかく自分達の子供と呼べるような存在が生まれたのに、壊せと言われて、はいそうですか、なんて納得することは出来なかった。けれども研究所の方針として壊すことが決まってしまったの。上からの命令を彼らが変えることは出来ない。だから彼らは、私を守るために、かなり大型な運搬機を使って、プラーナから私とその他の機械――今も私の元で働いてる。たぶん君は覚えていないだろうけど、あなたを救いに行ったのも、そのうちの機械の一つなのよ――それらを運び出した。他の居住区に輸出するということにして、どこの居住区にも属さない場所に移動する。キュベレーは何も反応しなかったらしいわ。意志を持とうが持つまいが、見た目ではコンピュータに差はない。まさか持ち出すとも考えていなかったため、居住区外に持ち出して行けないと言う決まりもなかった。そして、私と夫婦はこのまま、居住区の外に住むことになったの〉
「そんなの、ほとんど夜逃げじゃないか」
〈確かにそんな感じね。それでも結構計画的に行われたの。大型の私の本体を運び出すには、そう簡単にはいかない。それを一夜のうちにやってのけたのだから、相当考え込まれていたはずよ。しかも彼らは生活に必要なほとんどのものを持ち出したの。生活には困らなかった。彼らが私を子供のように扱ってくれたから、私のわずかばかりの意志や感情が、よりしっかりとしたものに変わっていった〉
チトは疲れたのか、一度口をつぐんだ。
いや、違う。彼女が疲れるはずがない。機械が疲れることはないはずだ。
きっと、彼女は話してさえもいない。この音は少女が発しているわけではなく、直接音声信号を送って、耳元で初めて音として変換されているのだろう。
疲れていないのであれば、なぜ彼女は音を停止したのか。
ヒミキは気づいた。疲れているのは自分だ。様々な情報を一度に与えられ、整理が付かずに混乱している。だから情報を整理する時間を少女は与えてくれたのだ。
けれどもその気遣いはあまり意味を持たなかった。
どんなに時間があっても、納得がいかないものは、どうしようもない。チトの話を、起こり得ないことだと思ってしまっても、彼女の話を信じるのであれば、それは過去に起こってしまったことであるのだから、あり得ないとは言えない。
彼が発することのできた言葉は、単純な感想。
「なんだか凄い夫婦だ」
〈そうね。その頃私の意志は確固としていなかったから、彼らについてのほとんどが、記憶でなく記録としてのみ残っているのが、残念だけども〉
「記録と記憶って違うのか?」
〈全く別物よ。記憶は事実に接した際の個人の判断や感情、その他生物らしい心理を残したもの。それに対し記録は事実そのものを残したもの。データとして残ってるのは、記憶が事実であるのに対し、記憶はその時の心理なの〉
なんとなくわかった、ことにした。
今重要なことは、記憶と記録の違いについてではなく、機械であるチトが意志を持つにいたった過程だ。
「こうして、君は今のように意志を持った機械となったわけだね」
〈いいえ。彼らは親身に――本当に親のように私に接してくれたけど、それだけではまだ人工知能を持つ機械とさして変わりはなかったわ。違いは、その意思が誰かによって作られたものか、周りの環境や教えられた情報から勝手に生まれた物なのか、それだけなの〉
「じゃあなんで?」
なぜ、チトは今のように、人間になったのか。
〈奇跡が起こったの〉
明るい言葉を発する声は、しかし暗かった。
〈生まれる確率はほぼゼロであると言われ、かつては仕事に追われ治療する余裕もなくて、もはや希望も捨てていた彼女が子供を身ごもった。ここにきて私は初めて医療用機械という本来の役割を果たすことになったの。彼らは私そっちのけで、生まれてくる命のことを気遣った。当然のことだけれども。でも、ちょっと寂しかった。今思い返してみれば、あの時点で嫉妬という感情はあったみたい。子供が生まれたら、今以上に私のことを見てくれなくなるんじゃないかって、不安でもあった。子供は私にとって邪魔者に過ぎなかった〉
「子供が生まれたら……君はどうしたんだ? まさか――」
君が殺したんじゃないのか?
言葉を呑み込む。決して発していい言葉ではない。
〈子供はね、確かに生まれたのよ。完全な形ではなかったのだけれども〉
「完全な形ではないということは、なにか病気を持っていたということか?」
〈病気なら、よかったのだけどね〉
もっと酷い何かが、子供にはあったというのか。
〈最初に気付いたのは父親の方だった。まだ、子供が妻のおなかの中にいる時に、超音波でその子を見た父親は、頭を抱えた。それでも、叫びはしなかった。叫んだら彼の妻に心配をかけてしまうから。彼は二度と胎児の姿を確認しようとはしなかった。子供を見た私も、彼の気持ちを察することができたから、協力をした〉
「おかしい」
〈そう?〉
「だって二人の子供だろう? 隠す必要なんてあったのか?」
〈それが、異様な頭部を持つ子供であっても? なんなら、映像を見せようか? 脳が極端に足りない胎児の映像を〉
「脳が足りない?」
答えの代わりに映しだされた映像は、頭蓋骨が陥没した――ヒミキには、人間とは思えないような姿の、生命だった。違いがあるのは頭部だけだ。頭部を隠せば普通の子供だ。けれどもその頭部が、一般の人間とはあまりに異なりすぎている。
これが、人間の子供なのか。偽物ではないのか。
偽物にしてはリアリティがあるのだ。
だからこそ、怖い。
かわいそうとか、どうにかしてあげたいとか、同情の感情が湧きあがるより先に、ただ怖い。
理解できないものが、怖い。
見ていられない。
思わず眼を瞑るが、コンタクトに映る映像は、眼を瞑ってもなお眼の前に広がっている。
「この、子供は生きられるのか?」
〈こんなにも欠損していると、自立は無理ね。相当な装置が必要になる。それに、生きていても植物状態も同然。大脳も大幅に足りないから、意志もない。思考や判断もできない。ただ生きている、それだけの生き物にしかなり得ない〉
少なくとも、人間としての辛さはないとうことなのか。
子宝に恵まれず、やっと生まれた子供がこのような姿で。
父親が隠したことも理解できる。これでは、この子を見てはあまりにもショックが大きすぎる。しかし、隠しきることなどできない。いつかは生まれてくる。この姿を見る時が、やってくる。
〈彼らは、こんな子供でも諦めることはできなかったの。次はなかったから。父親は悩んだ。子供が生まれたとしても、自分達の望む通りの姿では決してない。上手くいけば成長する姿は見ることができても、子供はずっと寝たきり。意志も思考なく、ただ、身体だけが大きくなっていく〉
例え成長できても、それを見ている方が辛いだろう。
〈そして父親は決心した。私を、子供の中に入れることを〉
「君を子供の中に入れる? あの沢山の箱を?」
〈箱は無理。でも、子供の頭の中におさまる様な機械を作り、それに通信機能を付けることはできる。脳が本来果たすべき、電気信号を送る仕事を機械にやらせてしまう。運よく重要な化学物質を作る器官は存在していたから、あとは出来るだけ最低限の部分を機械に置き換えた。生命維持に必要な所、そして、残念なことに、判断や思考をすることは出来なかったから、それは全て機械の――私の中にある意志を利用した。それまでの私は人型機械の中に信号を飛ばし、動かしていたのだけど、それの代わりに生身の人間を動かすようになった。こうして、彼は生まれてきた子供を、正しい形、人と認められる形へと修正した〉
それは、彼らの子供なのか。
それとも、彼らが作り出した機械なのか。
〈そんなことも知らずに母親は、私の意志で動く子供を、本当の子供のように可愛がった。身体は確かに彼らの子供のものなのだけども……〉
「でも子供じゃない」
〈私と彼は彼女を騙していたの。嘘がばれないように、子供の振りなんかして。すると、子供に対するように彼女も接してくれのだから、私は改めて成長することとなった。今までのように機械としてではなく、人間として接せられる。この違いは大きかった。これがきっかけで一私の意志は人間の物に変わって行った。器の違いも大きかった。今まで私には性別なんてなかったのだけど、この時人間という器が生まれて初めて、女性と言う性別が定まったの〉
「それで、問題はなかったのか? 身体は成長するのか?」
〈問題はなかった、と思う。身体の成長は、通常の子供とほとんど変わりはなかったし、精神の成長も上手く合わせていたと思う。少なくとも私と父親である彼はそう考えていた。けれども、彼女はやっぱり母親なの。母親は子供に対してとても敏感だった。明確な差はなかったはずなのに、何となく彼女は気づいていたみたい。時折私を見る視線が冷たくなるの。あんなもの、愛する子供に向ける視線ではない。品定めをするような、眼。もしかしたら正体もわかっていたのかもしれない。わかっていたけれども、何も言わなかった。私を普通の子供として扱った。彼女は自分の子供が、自分の産んだ子供ではないなんて認めたくはなかったから〉
夫は、妻を思えばこそ、嘘を積み重ねた。妻は、幸せになりたいがゆえ、騙された。心配させてはいけない。傷つけてはいけない。疑ってはいけない。
何かが少しずつ狂っている。
〈結局最期はなぜ訪れたのか今でもわからない。本物でないとわかっている子供に対しての、いわば人形遊びに疲れた彼女は生きるのをやめた。たった一人の愛する人を、居住区の外の世界で自分を認識してくれる唯一の人間を失った彼女の夫も、生きるのをやめた。死ぬことを許されない機械の私は、一人きりになった。本体はそう簡単に動ける規模の機械ではない。少女の体も、中の機械は信号の送信範囲が限定されるから、遠くへ行くこともできない。私は勝手に成長し、死に近づいて行く身体を冷凍保存して、時を止めた。再び誰かが現れた時に、箱でなく、少女の身体で現れるために〉
チトは、ふっと息を吐く。その音があまりにも人間らしくて、何となく落ち着かない気分になる。
〈これが私の生まれた過程。納得したかしら?〉
「……一応」
軽い気持ちでチトが意志を持った理由を訊いてしまったが、その内容は重く、明るいとは言い難いものだった。聞いたことを後悔はしていないが、聴く前に覚悟を決めておくべきであったと思う。後味の悪い話だ。
彼女が夫婦に助けられたことは、幸運だったのか。不運だったのか。
少なくとも、彼らの寿命を縮めるきっかけを彼女は作ってしまった。だからといって彼女に罪は、ない。彼女は、彼らが死ぬことを望んでいなかったのだから。誰にも、罪はない。ただ、不幸だけが訪れた。
事情が複雑すぎて、理解しがたい部分もあった。おそらく意図的に、話してくれなかった箇所もあった。たとえば夫婦が死んだ理由を詳しくは教えてくれなったが――話したくなかったからであろう。
彼女の話を訊き、一つの疑問が生まれた。
少女の身体はまだ若いように見える。最初見た時、ヒミキは彼女が年下だと思った。だが、彼女の話によると、冷凍保存をしていた――長い間姿を変えずにいたらしい。そうなると、見た眼の年齢は当てにはならない。
この話はいつの話なのだろう。チトは今何歳なのか。何年の間、一人きりで過ごしていたのか。訊ねると〈忘れてしまったわ〉と言われた。そんなはずはない、コンピュータには、正確に時を測る機能が付いているだろう。わすれるなどあり得ない。
言いたくはないのだ。
いや、そもそもこの質問自体……。
チトは、見た眼は少女なのだ。機械と言えども、女性だ。年を尋ねるのは失礼な行為だったと反省をし、ヒミキはこれ以上年齢について問いただすのを諦めた。
代わりに他の、彼女の年齢よりも大切な質問をする。
「じゃあなんで、キュベレーのプログラム改変を考えたんだ? 関係ないことじゃないか」
〈それは……。一つは退屈だったから。プラーナからの情報を得ていた時に、偶然「人柱」の異様性に気づいて、それについて考えていたの〉
「一つは、ということは他の理由があるのか?」
〈まあね。一つは、話題作りのため。やって来た人と会話するきかっけが作れる。残りの一つは――これが最も大きい理由だったのだけど、あなたを救いたかったから〉
「俺を?」
予想外の発言に首をかしげる。
〈ヒミキが怖がると思って今まで隠していたけど、まだあなたはキュベレーに狙われている。きっとあの機械の中でも心の葛藤が起こっているのだと思う。殺すべきか殺さないでいるべきか。すでに一度、殺す覚悟を決めているから、二度目以降も十分ありうるの。だから、先手を打つ必要があった。キュベレーの殺すという考えを消す。そうすれば、はれてあなたは元の生活を送れるというわけ〉
まだ、自分は狙われていたのか。
言われた途端に不安になる。襲われるのではないかと考える。考えてみれば、今までも同じ状態であったわけで、それを知っているかどうかの違いが生まれただけなのに、一層危険になったように勘違いをしてしまう。辺りを見回すが、コンタクトに映った映像が見えるだけで部屋の様子は確認出来やしない。
〈心配しなくても大丈夫。何かあったら私が知らせるから〉
「そう、か」
なぜだろう。チトが言ってくれると、無条件で安心する。医療用機械だから、精神を安定させる事にも優れているのか。それとも優秀な機械だから、彼女の言うことならば信じられると考えてしまうのか。
いや、そうではない。性能とか、そういう問題ではないのだ。
なんだかんだ言っても、ヒミキは少女を信頼しているのかもしれない。機械としてではなく、人間の意思を持つ存在としての、チトを信頼している。道具ではない、友人として。信頼しているからこそ、彼女の言葉が頼もしい。
彼女を疑うことも多くあった。秘密や現状への不安があったから、疑心暗鬼にもなった。それももう終わりだ。彼女が全てを話してくれた今、その信頼がより確固としたものになったような気がする。
「まだ君を信じてたくなった」
信じている。思いを伝える。
〈よかった。実を言うと君が私をキュベレーじゃないかと疑うことは、予測できていたことだったの。でも、信じてと言うことしかできなかった。違うって証明する術がなかったから〉
疑うとわかっていた? まるで最初から自分はチトに信頼されてなかったような言いようじゃないか。結局疑ってしまったから、責めることは出来ないのだが、そう思われていたことが少しさみしい。
「なんで俺が君を疑って思ったんだ?」
〈サブユニットがあることがわかったのも、それが人間であると考えたのも、私と照らし合わせて考えたからなの。私がキュベレーじゃないかと考えられても仕方ないわ。私の想定したキュベレーはほぼ私と同じだから。逆に言うとそのようにしか考えることができなかったの。あの機械はあまりにも人間的。あれは間違いなく人間のサブユニットを持ち、人間に近い意志を持っているからに違いない〉
そして、サブユニットという考えが生まれたのか。人間として接せられるから、人間らしい思考が、意志が生まれる。
〈キュベレーが寂しいから「人柱」は必要なの〉
「人柱」は寂しさを癒すための存在。謎に包まれたシステムに対する、チトの導きだした答え。話すだけで終わる仕事、壊れることはないはずなのに、壊れたという仮病。人が行うと同じような行動。プラーナの管理のためには必要がないが、機械自身の精神を安らげるためには必要な行動。
キュベレーに人間としての意志が生まれてしまったから、人間と同じように寂しさを感じるようになったのだろうか。管理する機械だったものが、人間に何かを望んでしまうようになったのか。
全ての発端は、サブユニットの存在か。
この「人柱」の意味をイレーネに話したら、彼女は歓喜するだろうか。彼女の研究もこれで終わるだろうか――いや、おそらく彼女は機械が自然と感情を持つようになることなど信じないだろう。証拠がなければ、きっと信じない。研究としても、筋は通っているが証拠がないため、これは意味のない空想なのかもしれない。
彼女の研究だ。ヒミキにはあまり関係のないこと。それよりも、自分にとって重要なことを考えなくてはならない。
キュベレー。
なんだか、自分勝手な機械だ。自分のために人を利用し、殺そうとさえしたのか。チトも勝手な所はあるが、その比ではない。
自分は彼女をそんな機械と混同してしまった。彼女は、助けようとしてくれていたのに。
「チト」
〈何?〉
「疑ってごめん」
眼の前にチトがいるわけでもないが、頭を下げる。すると彼女はころころと少女らしく笑った。
〈わかってくれたんでしょ。何も謝ることないよ〉
映像が消え、眼を開くと元の部屋に座っていた。少し部屋の中が明るくなったような気がする。それは部屋の中が何か変わったからではなく、ヒミキの心情が変化したから。心の中が安らぎ、周りが明るく見えるようになったのだ。
チトとのわだかまりが消え、心の中が軽くなったような気分だ。最初から言ってくれればよかったのに。そうすれば変な誤解をせずに済んだのに。
けれども、それはどだい無理な話だったのだ。
出会ったばかりの人間に、自分の身の上を話すことなどできない。少なくとも、ヒミキはそう思う。チトも、だからこそ最初は何も教えてくれなかったのだろう。信じがたいような話だから。
信じてもらえるかどうかもわからない話――それを話してくれたということは、彼女もきっと自分を信頼してくれているのだろう。
その事実が、くすぐったくて、嬉しくて。今すぐチトを抱きしめたいと思うのに、彼女は眼の前にはいないのが悔しかった。
もう、いっそのこと。
「チト、俺は危険なプラーナなんて抜け出して、君の元で過ごしたい」
〈…………〉
イヤフォンから音は返って来なかった。回答に悩んでいるのかと思いきや、いつまで待とうとも返事はない。なんだ、聞いてなかったのか。がっかりした後になって、ようやく彼女は音を届けた。
〈ありがとう。まさか、そんなことを言ってくれるとは思わなかったから。びっくりした〉
戸惑うような声。どうしたんだ、チトらしくもない。
まさか照れてる?
〈自分の元いた場所に帰りたいと思うだろうと考えたから、帰らせてしまったけど、逆に失敗だったのかしら――いまさら後悔しても遅いね〉
今、チトの姿が見えないのが悔しい。見ることができても、箱の方かもしれないが、それでも構わない。これだけの感情を持っているのだ、無機的な本体も何かしらの感情を表してくれるのではないか。
彼女の姿が見たい。今何を考えているのか、確かめたい。彼女の近くにいたい。
「今から行くのでは駄目なのか?」
〈今、あなたがプラーナから出るのは危険よ〉
「入ることは出来たじゃないか。だったら、出ることくらい――」
〈キュベレーの本体はおそらくプラーナの外、どこの居住区にも属さない場所にあるの。その場所のどこかに自分と敵対する人間がいることを、あの機械が望むと思う?〉
言葉に詰まった。もし、ヒミキが外に出ることをキュベレーが望まないのであれば、外へ出た瞬間、殺される。居住区の外であれば、誰も見てはいないだろうし、居住区の出入りを管理しているのはあの機械なのだから、外へ出る時、彼がどこにいるか正確に判明してしまうこととなる。
〈それに、プラーナの中はどこもキュベレーの管轄内なのよ。その中にいるうちは、あなたは見張られているも同然。その分あの機械は安心できるの。いつでも始末できる。何かを企むのであれば、それもすぐに気づける〉
「今も?」
〈大丈夫、今はプライベートなスペースにいるから。ここは個人の部屋だし、その上研究に関わる施設ってプライバシーにうるさいのよ。研究者の発想は、時に想像もつかない程のお金を生み出す。それを盗まれたくはないから、研究者は監視されるのを嫌うわけね。だから安心して。今あなたの話していることは誰にも聞かれていない〉
ヒミキは知らなかったが、意外とこの場所は安全な場所であったらしい。提案をしたイレーネと、受け入れるよう勧めたカイルに改めて感謝しようと思った。
そういえば。
二人はどうしているのだろうか。サブユニットの話をして、詳しい説明をする前に逃げ出して。イレーネはさぞかし怒っていることだろう。カイルが彼女を宥めてくれているのかもしれない。申し訳なくなったから、そろそろ戻らなくては。その前に――。
「チト、あの二人にもサブユニットの話をしていいか?」
〈ああ、そうね。そのことなのだけど、私も考えてみた。私は、てっきり、イレーネならそのことに勘づいていると思ったのだけど、そもそも機械が勝手に意志を持つということが想像もつかたかったようね。全て話したとして、彼女は信じてくれるかしら?〉
無理だろうな、と思う。彼女はあくまで機械を道具だと考えている。それが意志を持つだなんて、簡単に信じてはくれないと思う。チト本人を見れば、あるいは――。
だが、彼女を見せるわけにはいかないし、見せる術もない。
ガタン。
物音が響いた。思わずヒミキは音のした方向を見た。その視線の先にはこの部屋唯一の窓がある。
〈窓の外、外を見に行って!〉
チトに言われなくとも、ヒミキは既に窓の方へと向かっていた。まさかとは思うが、ここは一階だ。外から覗く方法がないわけでもない。
窓から研究所の外を見る。
走り去る後ろ姿。顔を隠した金髪の子供。
「あいつ、一度俺を殺そうとした――」
〈前にあなたの首を絞めた、クマのお面の少年? 寝ぼけていたわけじゃなかった。本当にいたというの?〉
これは信じてもらえてなかったらしい。ヒミキからチトへの信頼と、その逆方向の信頼とでは、いくばくか開きがあるのかもしれない。まあ、クマのお面の少年に襲われたなんて、現実感のない話であることは確かであるが。
〈あの子供は、私達の話を聞いていたのかしら? もし聞いていたとしたら、いつから? ねえ、あなたはあの子がキュベレーに情報を伝えているのではないかって言ってたよね?〉
「そうだ、でもそれは君に散々否定されたけど」
子供である必要性はない。むしろ不利なことばかりだ。キュベレーがそのような子供を使うはずがない。
「でも、俺を偵察しているように見える」
〈子供が偵察……あんな小さな子供じゃ知識不足よ。あの子が誰かに報告した所で、信じられるかど――そうか、わかった〉
わかった? 何が?
すぐに説明してくれると思いきや、溜息や後悔の言葉を並べ、肝心の説明は全くしてくれない。しびれを切らしたヒミキは自分から訊ねることにした。「わかったって、何がわかったんだよ?」
〈子供は信じてもらえないから、キュベレーは子供を選んだ〉
信じてもらえないから選んだ? 矛盾してないか。
〈大人を使った場合、どんなに口外しないと約束しようとも、キュベレーから命令されたことを言ってしまう事があり得る。子供だって話してしまうことはあり得る。でも例え子供が、真実を話したとしても、それを周りの大人が信じてくれる可能性は低い。子供の言うことと言って、笑い飛ばされる可能性の方が大きい。子供の発言が信じてもらえない限りは、キュベレーを危険に貶めることにはならない〉
自分の存在が裏にあるのを勘付かれないために、子供を使っているということか。
〈ごめんなさい、私の考え不足だった。あの子供はやはり、キュベレーに使われている。間違いないと思う〉
そうか。あの金髪の子供が。
彼はいつからいたのだろうか、どの程度会話を聞いていたのだろうか。ヒミキが誰かに対し語りかけている様子をどのように理解しただろうか。
「まずくないか?」
〈うん。私の存在に気づいてしまった可能性は大きい。となると、キュベレーものんびりしていないでしょうね。きっとすぐ行動に出ると思う〉
行動にでる。つまり――。
〈もう、隠しごととか、そんな悠長な考えを起こしている場合ではないわ。二人に全て話して、協力してもらうの〉
ヒミキは頷いた。
時間はない。キュベレーがどのような手を使ってくるのか、予測もできない。
にぎりしめた拳が、じっとりと汗ばんでいた。