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ヒミキは空を飛んでいた。遠く下の方では、プラーナのビル群が見える。とても高い建物のはずなのに、まるで箱庭に建てるミニチュアのように小さく見える。
乱立する建物の間をカイルが歩いている。傍らにはエリーも泳いでいる。普通ならば遠くて見えないはずだが、なぜか彼らだけははっきり見えている。彼は立ち止まると、空を見上げる。眼があう。彼は頬笑み手を振った。ヒミキも手を振り返す。
なぜ、自分は飛んでいるのだろう。わざわざ重力に逆らっているのだから、それなりの理由があるはずだ。そうだ、思い出した。チトに会いに行くのだ。飛べば居住区の境界、門だって飛び越える事が出来る気がしたんだ。
目標が決まると、自ずと向かうべき方向はわかった。身体が見えない力によって、引き寄せられる。方向はこっちで間違いない。根拠はないが、絶対だ。この先で、チトは待っていてくれる。
重力から解き放たれた身体は、羽のように軽く、空中で宙返りをすることもできる。地に足は付いていないが、不安はない。空を飛ぶという事がこんなにも心地よいことだと思わなかった。どこまでも遠くへ行ける。身体は疲れることを知らない。空は雲一つない。青色が地平線まで広がっている。その光景は、まるでいつか見た海のようだった。
海。その概念が心に思い浮かぶと同時に、海に関する記憶がよみがえる。
今自分が飛翔しているこの空は、遠くない過去に溺れかけた海に似ている。
途端に、息苦しくなる。あまりにも高く飛んだから、空気が薄くなったのだろうか。いや違う。見回すと、周りはもはや空ではなかった。
海だ。いつの間にか、水の中にいる。
慌てて出口を探そうともがく。どこか水がない所、陸地があるはずだ。けれども、見回しても広がっているのは青。海、海、海。
助けてくれ。
叫ぶ言葉は音にならない。このままでは溺れ死んでしまう。
助けてくれ!
「チト、助けてくれ!」
かすれた声が出たと同時に、眼が覚めた。息苦しい。服が汗で湿っている。一体どうしたんだ。首に生温かいものが巻かれている感触がある。なんだろう?
顔を上げると、クマがいた。ふざけた表情の偽物のクマがヒミキを見ていた。体格からして、オスのクマだ。
「失敗だ」
クマは声変わりのしていない高い声で、吐き捨てるように呟いた。
「もうちょっと寝ててくれればよかったのに」
首に巻きついていたものが離れる。それは、クマの手のひらだった。
つまり、クマに首を絞められかけていたわけか。得物を持たない子供とはいえ、寝込みを襲われてしまうと、こちらは抵抗をすることができない。眼が覚めて良かった。だが、クマしてみれば、それは不都合なことだったらしい。
「命拾いしたね。でも、神様は絶対許さないから」
捨て台詞を残し、クマは走り去ってしまった。その後ろ姿は、どうみても人間の子供だ。
今しがた起こった出来事が、とても現実のことには思えなかった。クマの面を被った子どもに襲われた? ばかばかしい。こんな場所にいたから、変なものに襲われるのだ。
カイルと別れた後、寝場所を探した。しかし、人が寝ることの出来る場所はあまり多くはなくて、せめて風は凌ごうと川に架かる橋の下で寝ることとなった。変な姿勢で寝たため、身体が痛い。
もう一度寝ようと眼を閉じたが、すぐに寝付くことが出来ない。寝ようとすると、逆に眼が冴えてきてしまう。あのクマ少年は何だったのだろう。紙製のクマの顔のお面を被って、何がやりたかったのだろう。見たところ、彼はおそらく十歳前後だ。このような時間に家の外へいるとは、危険じゃないのか。彼の言っていた神様とは何だ。子供番組か何かだろうか。さすがにテレビの内容と、現実の見分けがつかないような年ごろではないと思うが。それも、知らない人の首を絞めるとは。自分を許そうとしないクマ少年の神様とは何なのか。
はっとして、ヒミキは眼を開いた。
まさか。
慌てて小箱を取り出すと、イヤフォンを出し、耳へ装着する。
「チト、起きてるか」
〈大丈夫よ〉
時計を持っていないため、今の時間がわからないが、深夜には違いない。それでも、返事はすぐに返ってきた。よかった。
「今、クマのお面を被った妙な子供に襲われた」
〈クマのお面? また妙な子供ね〉
「顔を隠せって、命令されたんだと思う。子供が自分の意思で人を殺そうなんて、思うはずがない。きっと彼は俺を殺せと命令されたんだ」
〈子供が人を殺そうと思わないなんて誰が決めたの。子供だって、しっかりと自分で考えるだけの脳は持っているわ。身体は小さくとも、脳の大きさは成長の過程であまり変わらない。大人が考えるようなことは、子供だって思いつくの。ただ、知識が足りなくて、判断ができないだけで――〉
話の趣旨がずれている。今は、子供が人殺しを自ら思いつくか否かという問題に興味はない。そうではなくて。ヒミキはチトの言葉を遮って言う。
「あの子供はきっとキュベレーに命令されたんだ。もしくは、あの子供自身がサブユニットなのかもしれない」
〈あり得ない〉
ヒミキの提示した意見をあっさり切り捨てる。チトが、その綺麗な顔をしかめている姿が脳裏に浮かんだ。
〈サブユニットがわかりすい形であなたの前に現れるはずはないわ。いくらあなたを無力な存在と見ていても、要注意人物であることには変わりがないんだから〉
「じゃあ、子供はキュベレーに命令されて……」
〈なんで子供である必要があるの? 利用するのであれば、大人である方が便利じゃない。わざわざ子供を利用した意味がわからない。ねえ、夢を見てたんじゃないの?〉
そう言われてしまうと、反論が出来ない。あれが夢ではないと言う証明が出来ないのだ。自分の記憶は確かに夢でなかったと主張するが、それをチトに伝えることが出来ない。
子供でなくてはいけない理由もわからない。筋力も知識も劣る子供をなぜ選ぶのか。偶然ということも考えられるが――機械がそのような偶然に頼るだろうか。何か理由があるはずだ。子供でなくてはいけない理由が。
〈とにかく今は寝なさいな〉
「はい」
反抗はしなかった。ここで言いあっても仕方がない。素直に従うのが正しい選択だろう。無益に言い合いをして、寝不足になってしまっては明日動く時に不便だ。その代わりに、またあの子供が現れたら、言った通りだっただろう、と言ってやろうじゃないか。
接続が切れたのか、イヤフォンから言葉が聴こえなくなった。風が植物を揺らし、水の流れる音が右耳から聴こえる。
また何か来るかもしれない。無防備な状態で寝るには、少し心もとなかった。たいした意味はないかもしれないが、何もやらないよりはましだろうと考え、イヤフォンを付けたまま眠りについた。
身体を強くゆすられる。
「起きろー」
平均より少し高めの男声。聞き覚えのある声、カイルの声だ。
こんな朝から何事だろう。学校はどうしたのだ。疑問は数多くあるがとりあえず眼を覚まさないことには話せないので、ヒミキは重い瞼を開いた。案の定、眼の前にカイルがいた。
「おはよう、学校はどうした。よくここがわかったな」
「おはよう。ふふふ、エリーの嗅覚をなめちゃ困るよ」
笑みを浮かべるカイルの横には、無表情の機械魚。このペット、魚のくせに嗅覚機能が優秀なのだ。まるで犬のよう。基本的な機能が機械犬と同じだからだと言うが、そもそも嗅覚なんて備えてないはずの魚が、臭いに敏感とは、かなりの違和感がある。
まじまじと見つめたら、じろりと白目のない瞳で見返された。この魚に一目ぼれしたカイルの感覚がわからない。そして、その彼の笑い方のぎこちないことが気になる。
「で、学校は? なにかあったのか?」
「エリーの尻尾が近所の猫に喰われまして」
「ワタシ、ヘイキ」
カイルが冗談を言うと、すかさず冗談を理解しない機械魚は応える。冗談もわからぬ馬鹿な機械が常に傍にいれば、彼の冗談も少しは減りそうなものなのに、彼は一向に冗談をやめようとはしない。今聞きたいことは、冗談でなく真実であるから、ヒミキはもう一度訊ねた。
「で、何があったんだ?」
問うても彼は応えを渋る。どうやら、言いにくいことであるらしい。近頃の嫌な予感は、かなりの確率で当たるから、今回も良くないことが起こりそうな気がする。
いつまでも応えようとしないカイルが口を開く前に、真相は自らの意思で現れた。
「やあ、またあえたねヒミキ・カタクラ」
眼鏡と茶色の髪の女性。まさか。なぜここにいるんだ?
〈ねえ、この声あの人の声じゃないの?〉
左耳のイヤフォンがチトの声を伝えた。そうだ、彼女の聴覚は正しい。その通りだ。間違いなく昨日の女。ヒミキを捕らえようとした人が、眼の前に立っている。
また捕まっては面倒だ。今回こそ先に。ヒミキは逃げ出そうとしたが、結果は同じであった。腕が掴まれる。だが昨日のようには強い力ではなかった。筋力増強装置を今日は付けていないのだろうか。これなら振り払うことが出来そうだ。そう思い振りほどこうと振り返ると、腕を掴んでいた女性は――違った、彼の腕を掴んでいたのはカイルだった。まさか、裏切られたのだろうか。
「オレが彼女を案内したんだ。脅されていたわけでもない、自分で連れてきてもいいと判断して。一度落ち着いて、彼女の話を聞いてくれないか」
ヒミキは驚いて見ると、静かに彼は言った。冗談、ではないのか。勝手にこの女を連れてくるとは。
信じられないようなこと、けれども、それが友達の言ったことなのだ。一応信じてやろう。女性の眼鏡の奥の、緑がかった色の瞳を見る。
「昨日は、悪かった。私のやり方が間違っていた」
女性は一息に言うと、深々と頭を下げた。昨日と態度が変わりすぎではないか。何がどうなっているのかわからない。眼でカイルに助けを求めると、彼も詳しくはわからないといった風に、首を横に振った。事情も知らずに、彼はこの女を連れてきたのだろうか。相変わらず、計画性のないやつだ。
ヒミキがコンタクトをしていないため、映像を見ることのできないチトはもっとひどい状態で、左耳で〈何が起こってるの?〉という疑問の言葉を繰り返している。訊ねられても、他人がいる所では答えることは出来ない。
たっぷり十秒以上頭を下げた後、彼女はようやく頭を上げた。
「遅くなったが、自己紹介をしよう。私はこの居住区の高等教育機関に通う研究学生である、イレーネ・ベッリーニ。二十一歳。出身居住区はティタン――土地が広くて、農業をメインでやっている居住区さ。あまりカレッジはなくてね、仕方なくプラーナのカレッジに通っているというわけ。研究テーマはプラーナに存在する『人柱』と言う制度について」
彼女が発した「人柱」の言葉に、思わず反応してしまう。なぜ彼女がいきなり自己紹介を始めたのか、そのような疑問は後回しにして、研究テーマの「人柱」が気になってしまう。偶然の一致――というわけではなさそうだ。
「研究テーマが『人柱』とはどういう?」
「そのままの意味だ。カレッジでは、一人一つの研究テーマを決めるのは知っているよね、君達も学徒だものね。研究テーマは自分の一番興味のあることを、基本的に選べる。そこで私が選んだのはプラーナ特有の風習である『人柱』というわけだ」
「人柱」がプラーナ特有のだって? 他の居住区にはないというのか?
カイルを見ると、彼も驚いたように眼を見開いていた。自分だけではない、「人柱」はどこにだってあるものだと思いこんでいたのだが、違うのか。チトに訊ければ答えは得られるかもしれないが、ここで問うわけにはいかない。
いや、怪しまれずに、チトに答えてもらう方法がある。
「『人柱』はどこにでもあるものではなかったのか?」
多少大げさに、訊ねてみる。それに対して予想通りの反応。
「そんなわけないでしょ。少なくとも私の知る限りそんな居住区は他にないね」
イレーネと名乗った女性が答えた直後、チトの声が響く。
〈まさか、「人柱」がキュベレー特有のことをわかってなかったの?〉
これで確実だ。どちらとも嘘をついていることがない限り、「人柱」はプラーナ限定のものなのだ。そんな助言が途中で入ったことも知らずに、イレーネは勝手に説明だか、持論だかを話し始めた。つくづく語るのが好きなようだ。この女性は他人のことなど大して気にしていないのだろうな、と思う。
「この居住区の中の人間って結構そうなんだよね。中で満ち足りてしまうから、外のことあまり気にしていないと言うか。プラーナの常識が世界の常識だと思い込んでいる人が多いね。『人柱』なんて異常だよ。そもそも管理する機械に名前が付いていることが異常なんだ」
「名前が付いているのが異常だって?」
名前が付いていることが異常と言うことにヒミキは驚いたが、反応はカイルの方が早かった。おそらく、彼は機械に名前が付いていることに関して、異常と言われたことに納得がいかないのだろう。彼自身、自分のペット機械に、その機械自身が覚えられないような名前を付けているから、その行為さえも否定されたように感じたのかもしれない。いつにもまして表情が厳しい。彼はエリーに関することには敏感なのだ。
そのようなことを知らないイレーネは呆れたように言う。
「だって、管理する機械の名前を呼ぶ必要なんてあるの? 私の出身地のティタンは、名前を呼ぶ機会なんてほとんどないよ。勝手に管理してくれる、それでいいじゃないか。呼びたい時は居住区の管理機械とでも呼べばそれで済む。だから、名前なんて必要ないんだ。必要意義さえも感じないね。しかもその名前――キュベレーって土地を守る古い神の名前じゃない。偶然にしては、あまりにも寓意的すぎる」
彼女は機械一般について行っているわけではない。あくまで、管理機械について行っているのだ。ペットと居住区の管理を行う機械は違う。管理する機械は、個人に呼ばれる機会の多いペットとのような名前はいらない。隣を見ると、カイルの表情も緩んでいる。彼も納得はしたようだ。
それにしても。キュベレーの名前の由来については初めて聞いた。響きがよいとかそのような理由かと思いきや、由来が土地の神の名前とは。そんな凄い名前だったのか。プラーナに住む人間が意味を知らないのでは寓意的も何もないと思うのだが。
「まあ、君達にとっては普通のものかもしてないけど、余所から来た私にはこの『人柱』というものが異常な物に見えた。だからこそ、研究テーマに選んだわけ。今まで『人柱』を研究する人間もほとんどいなかったようなんだ。そもそもプラーナ自体学業に優れた居住区でないからね、わざわざ外からこんな居住区に来る学生も少なかったんだろうね。で、もうわかっただろうけど、その研究のために実際最近『人柱』になった人間なんて、とにかく貴重な存在でね。是非とも研究に協力してもらいたいんだ」
これはサンプルになれということなのだろうか。チトにイヤフォンとコンタクトの実験台にされたヒミキも、あまりいい気はしなかった。まず、容姿のレベルが違いすぎているのだ。美人の実験台ならいいが、年上の女性は好みでもない。少々強引なことをする人間のサンプルとは、何をされるかわかったものではない。だが、イレーネは続けた。
「拒否権はないよ、だってもう研究助手として君たちを選んで登録しちゃったんだもの」
「研究助手?」
「え、オレも?」
自分には関係ないと油断をしていたカイルが、名前を呼ばれ思わず訊き返した。イレーネは当然といった様子で、頷く。勝手に友達の場所を教えた罰だ、いい気味だ。自分だけ高みの見物なんて許されないさ。
しかし、研究助手と言う物は一体何なのだろう。助手と言うことは、雑用係と言うことだろうか。この人は、人使いが粗そうだからな――。
「研究助手を知らないの? まったく最近の学生は……」
まだあなたも学生でしょう、と口をはさむ勇気はなかった。
「研究助手ってのは、カレッジの生徒が研究のために、任意で助手を選べる制度だよ。助手に選ばれた人は、その間仕事を有給で休むことができるし、学生なら授業を受けなくてもいい。当然だよね、助手になることで、学校で教わる以上のことを知れるのだから」
つまり、カレッジの研究生は自由に助手を選んで、有給休暇や欠席をさせることができるというわけか。この制度、どうも悪用が出来そうだが……。そんな簡単に助手は選べるものなのだろうか。
悩んでいると、左耳から言葉が聴こえた。〈研究助手って、助手に選ばれた本人の同意が必要のはずだけど……〉
やはり同意が必要なのだ。もちろん、ヒミキには彼女の助手になる同意をした記憶はない。となると、おそらく正規の方法とは異なった方法で、同意を得たことにしてしまったのだろう。同意を得たことにするために、一体何をしでかしたのだか。
どうもこの女性は、勝手なことをしでかす傾向にあるらしい。
「話を聞いて、研究助手について少し聞いたことがあるのを思い出した。なんか助手になる人間は同意が必要だと聞いたのだけど?」
ヒミキに指摘されると、イレーネは頭をかいた。意地で嘘をつきとおす、というつもりはないらしい。素直に白状してくれた。
「本当はね。でも――いや、大したズルはしてないよ。ほら個人情報とか調べるとわかるからね。何せ片方は『人柱』に選ばれた人間ですし、ちょこっと検索すればね。友達の方も、まあ親戚です、なんて言って学校の生徒に訊いてみれば、親切な子は教えてくれたよ。署名なんてものは、ねつ造してね」
結局、この人は書類をでっちあげて、自分とカイルを同意したことにしたわけか。ヒミキはじっとイレーネを見た。彼女にも、申し訳ないという感情が生まれることがあるようで、顔を背けた。いや、助手が辞めようとしているから、研究が上手くいくか不安になっただけかもしれないが。
〈ねつ造なら、簡単にやめることは出来るわね〉
上手いやめ方も、チトは知っているのだろう。同意なくしては、彼女も二人を従わせることは出来ない。だから、従うこともあるまい。
断り方を考えていると、カイルが口をはさんだ。
「ちょっとやり方は汚いけどさ、ヒミキ、これはいい機会なんじゃないのか」
「何が?」
いい機会とは、断りやすい――ということではなさそうだ。カイルの言わんとすることがわからなくて、その意図を訊ねる。
「どうせ、お前は学校に行けないだろ。だったら、この研究に協力すりゃ、無断欠席にならなくて便利じゃないか」
確かにそうだが、もうすでに一週間以上休んでいるのだ。あれが「人柱」の特例で欠席扱いにならないのならばいいが、きっと一度死んだと誤解された――その原因はキュベレー自身が彼を海へ落下させたことにあるのだが――後のヒミキは「人柱」でさえもない。となると、どう判定されたのか彼自身は知らないのだが、おそらく行方不明扱いではないだろうか。そしてその行方不明も、学校は欠席扱いなのだろう。今更無断欠席だの気にはしない。
その上、この女性に従うのは癪なのだ。身勝手で接しにくいし、一度自分を脅してきた相手だ。手助けをする気にはならない。
「お前が『人柱』になった理由もわかるかもしれないし、書類偽装したことを知ってるんだから、いざという時裏切られることもないんじゃないか」
ヒミキが頷かないのを見て、カイルはさらに説得を続ける。どうしても彼は彼女に協力したいらしい。イレーネにこれほどまでに肩入れするとは、何か理由があるのか。もしや彼女に惚れたのか。まさか。
――まてよ。
「人柱」のことを詳しく知ることは、サブユニットを探すことに繋がるではないだろうか。危険を冒さずとも、サブユニットを探し出すことができる。チトが、カイルの説得に対し〈合理的ね〉と呟いたことが最後の決め手となった。
「わかった、とりあえず研究助手として協力しよう」
「そうこなくっちゃ」
早速、と言いながら彼女は「人柱」として呼ばれた時のことの詳細を次々と訊ねる。それは難しい質問が多くて閉口した。乗った車の車種なんてわかるはずもないじゃないか。ヒミキも話せる限りのことは話した。だが、チトに関することだけは説明するわけにもいかず、その間彼はずっと寝ていたことにした。気づいたらプラーナに戻って来た、というわけだ。その代わりチトに関係しないことは、キュベレーによって海に落とされたことも、隠さずに説明してしまった。プラーナにおいては、反社会的な考えかもしれない。しかし真実なのだから、仕方がないのだ。キュベレーに対する不信感が募っていたこともある。イレーネは無表情で聴いていたが、カイルは息をのんだ。
彼にとってキュベレーは疑いを抱く対象でなかった。プラーナの住人にとって、その居住区を管理する機械は絶対の存在だった。それを友人が否定するような発言をしたのだから、彼の心の中は複雑な物であっただろう。いくらそれが真実であろうとも、カイルには、ヒミキが嘘をついているか、それともありのままを話しているのか、その判断が出来ないのだ。でも、何も彼は言わなかった。おそらく、信じてくれた。
話せることの全てを説明したが、説明できたことはたいしたことではないように思われた。重要な事は何もわからないまま。キュベレーも馬鹿ではない。たとえあの機械にとってヒミキが死ぬ予定の人間だったでも、秘密は隠し通した。
「君の言葉からは、たいしたことは得られないね」
イレーネは素直に感想を述べた。たとえそれが真実であろうとも、わざわざ言わなくてもよかろうに。でも、彼女は幻滅した様子ではなかった。
「まあ、ある意味予定通りともいえる」
そして彼女はヒミキの両肩を掴んだ。
「ここからが、本番。君がキュベレーと接してどう変化したのか、調べさせてもらうよ」
実際は接していないんだけどな――いや、調べるってどういうことだ。ヒミキよりも先に、カイルが反論をしてくれた。
「ヒミキに危険なことをするようだったら、オレが友人として許さないんだけど」
表情を引き締めて、イレーネを睨みつける。飼い主の動作につられて、そのペットも警戒をする様子を見せた。エリーは、長い身体を一直線に伸ばし、歯のない口を開く。前日にこの機械魚により、痛い眼にあった彼女はわずかに表情に怯えを浮かべた。
「ずいぶんと血気盛んな友人だね」
どちらかというと、筋肉増強装置を使って人を捕まえ、また偽装を行ったイレーネの方が血気盛んである気がするが、あまり文句を言うと面倒なので、やめておく。
「酷いことはしないよ。なんだったら、ずっと君が見てるといい、君も助手にしといたのはそういう意味もあるんだ」
「わかった、ずっと見てるぜ」
イレーネに乗せられて、何も見逃さないぞといった意気込みで、彼は彼女を凝視する。機械魚も彼女を凝視する。あの白目のない眼で睨まれるのは、かなり恐ろしい。まさかこれも冗談ではないだろうな。
力といった点では、エリーのお陰でこちらが優勢。なんとも心強いペットだ。だが知識という点では、まだまだ心もとない。彼女は大丈夫と言ったものが、危険な事だったらどうするのか。実行に移される前に、それが危険なことだと判断をし、止めることが出来るのだろうか。イレーネがこれからの事を考え、カイルが彼女を見て、両者気を取られている隙を狙って、ヒミキはチトに語りかけた。
「本当に大丈夫だろうか?」
〈まあ、大丈夫なんじゃない〉
随分と曖昧な回答だ。投げやりにも聴こえた。機嫌が悪いのか。もしかしたら、コンタクトレンズをずっと嵌めていないことを気にしているのだろうか。今どのような状態であるかを見ることができないから。
装着する時間がなかったことも、わかっているだろうに。
誰もかれも、ヒミキの身の安全に関しては、雑な態度。自分の身は自分で守れということか。確かに男であればそうであるべきだろうけど、それは理想だ。実際に自分一人で自分を守りきることなんてできやしない。他人の助けがどうしても必要な時はあるのだ。
でも。
なんだかんだ言っても、いざというという時は助けてくれるのだろう。もちろん、それに頼ってばかりではいられないのだが。
検査というと何をするのかと思えば、それはほぼ自動的に行われる何かであった。
一体何をしていたのかよくわからない。機械に通され、何かグラフが出来上がる。それに対して、脳波長がどうだとか説明されてもあまりわからない。隣に座るカイルは、監視する役目はどうしたのやら、話に飽きて眠りこけている。これで検査と言われ怪しい物を入れられたらたまったものではないのだが――彼の代わりにエリーが監視してくれていた。さすが機械であるだけあって、難しい話で寝たりしない。このペット、頭は悪いが総合的には飼い主より優等にできているのだ。
検査の内容の難しさに頭を抱えていると、チトが〈説明してあげようか〉と提案する。良かれと思ってやってくれるのはわかるのだが、彼女の説明はイレーネの説明よりも難しい。全く何を説明したいのかわからないほど。そんなことをされると余計頭が痛くなるため、コンタクトを通して、こっそり、説明はやめろ、と合図を送った。その合図を見て、素直に説明をやめてくれるのが、彼女のいい所だ。無理に情報を押し付けることはない。世の中にはわからない方がいいことも、わかりようがないことも存在している。どんなに理解しようと努力しようとも、ヒミキには理解は出来ないことをわかってくれているのだ。
検査をされている本人が何をやっているかわからないまま、検査は進む。
しかも、そのような難しい検査を続けてわかったことと言えば、何もないのである。
結果は決まって正常通り。つまり、一般の人間と変わらないということ。一度『人柱』になったが、何も変わっていないということ。やはりキュベレーの本体と全く接しなかったことがいけないのか。
検査の結果が出る度に〈当然よね〉とチトが感想を述べる。何も意味がないとわかる検査は、予め言ってくれればいいのに、後になって言うのだ。一度、先に言えばいいと抗議したが、先に言ったところで検査を止める術もないから、後でも先でも構わないでしょう、と言われてしまった。確かに検査が意味のないことを、イレーネに説明することは不可能だろうが、先に説明しない理由もないではないか。どうも、困らせたいだけなのではないか、とヒミキは思う。そもそも、この検査で意味のある結果が得られるとは思ないのだ。エネルギーの無駄だと思う。
この検査、何の意味があるのか。
検査を行うために、一人で平穏に過ごせる部屋が与えられたのは嬉しいが、その部屋に相応の結果が、自分から得られたようには思えない。なにも貢献できていないし、何も得ることはできていない。
検査を面倒と思う気持ちが半分、何も役立てなくて申し訳ないと思う気持ちが半分だ。
無意味な検査の代わりに、意外な収穫があったのは、機械端末を用いた情報収集だった。
イレーネの情報収集能力はもの凄い。大量の情報、それもいくつものディスプレイに映し出される情報を同時に流し見て、有益な物だけを抜き出すことが出来る。この方法を使って、彼女はヒミキが「人柱」であることや、一度死んだことになっていたこと、その他の個人情報を集め出したのだ。一般人はこんなにも早く、情報を集めることは出来ないだろう。誰にだってできると言うものではないのだ。
だが、どうやら彼女にはこの情報収集能力が時別であるという自覚がないらしい。一度、カイルに情報収集の手伝いをさせようとしたことがあった。彼は彼なりに頑張ったのだが、少しやらした後、彼女はその能力の低さに呆れ、さんざん文句を言って、結局自分一人でやることに決めたようだ。怒られたカイルは気落ちしていたが、彼の情報収集能力が特別低かったわけではない。同時に五つのディスプエイを見て、その内容を理解するとは、誰にだってできることであるはずはない。チトでさえも彼女の作業風景を見て〈この人、情報収集の鬼才ね〉と称したほどだ。
「『人柱』について知るために、まずキュベレーについて調べよう思ったわけ。情報は集めようとしたのだけども――」
ディスプレイに並ぶ大量の文字を見つめながら、イレーネは言う。ちなみに、その時は、コンピュータ端末を三台並べての作業だった。この数の作業でも、彼女にとっては休憩中だそうだ。
「プラーナのトップクラスの人間の情報は調べたし、マスコミ関係者も、名の通った研究者も調べた。でも全然だめ。『人柱』の情報は集まらない。キュベレーの尻尾は掴めないんだよ」
「そりゃあ、女神様には尻尾はないから当然だよな」
「とにかく、相手は徹底的な秘密主義なわけだ」
カイルの冗談を無視し、彼女は話を続ける。無視された彼は、面白くなさそうに、頬を膨らませた。
〈やっぱり偉い人間はサブユニットではないわけね〉
不意に左耳からチトが呟く声が聴こえた。
〈もしそうであれば、彼女が関連性に気づいてくれるはずよ。それがわからないということは、やはり彼女が調べたような人間の中にはいないというわけ。きっと、サブユニットは一般人の中に紛れ込んでいる〉
サブユニットは一般人である、と。イレーネのお陰で、サブユニットを絞ることが出来たわけだ。
だが、一般人であることなど大したヒントにはならない。
運が悪いことにプラーナには、多くの人間が住んでいる。人口密度に関して言えば、数ある居住区の中でも高い方なのだ。となると、自然と一般人の数――つまりサブユニット候補も多くなってしまう。その中にいるたった一人のサブユニットを探せとは、暗闇に置かれた石を手探りで探すような物ではないのか。
その疑問を察したのか、チトは言う。
〈あなたを殺そうとしたくらいだもの。サブユニットはあなたを直接見たことのある人、あなたに何らかの感情を抱いている人よ〉
そんなこと言われても、どこで一方的に恨まれているかなんてわかったものではない。キュベレーのことだから、簡単に正体がわかってしまう人間をサブユニットにする危険は冒していないだろうし。
本当にサブユニットが誰かなどわかるのか。
〈なんにせよ、イレーネの情報収集能力は使えるわね〉
チトにしてみれば、彼女さえも利用する対象なのだ。年齢差にも関わらず、彼女の方が一枚上手か。
「おい、ヒミキ大丈夫か?」
「え?」
脈絡もなくカイルが話しかけてきて、戸惑う。
「ぼんやりしているからさ。疲れているなら休めよ――オバチャン人使い粗いから」
最後の言葉は、イレーネに聴こえないよう小声で言う。
「ありがと、別のこと考えてたんだ」
本当は彼女よりも人使いの粗い、美少女がいるのだけれども、それは内緒だから言うわけにもいかない。
カイルが隣にいるためか、チトは黙り込んでしまった。そして隣にいるカイルも何も話さない。無論、休憩を終え、真剣に調査を行っているイレーネはなおさら話しはしない。飾り気のない調査用の一室に、静寂が訪れる。聞こえるのはイレーネが時折端末のディスプレイを叩く音。それさえも滅多に響くものでなく、ともするとこの世界から音が消えてしまったのではないかと思うほど静かだ。
こうなってしまうと、実際はそうでなくとも、話してはいけない気分になってしまい、どうも沈黙が破りがたい物に感じられる。
「はぁ……」
カイルはわざとらしい溜息をついた。いかにも、どうしたのか訊ねてもらいたいといった風情だ。無視することもできるが、これは沈黙を破るきっかけになる。彼もそのつもりなのだろう。あえてその振りに乗ってみることにした。
「溜息なんてついて、どうしたんだ?」
彼は待ってましたと言わんばかりの表情でヒミキとの距離を詰めると、声を潜め人差し指でイレーネを指さす。
「彼女は、キュベレーが普通とは違うだの、『人柱』について調べるだの、熱心に調べてるけどさ、本当に上手くいくと思うか?」
話題を作り出してくれたはいいが、あまり明るい話ではないな。まあ贅沢は言うまい。
「さあ」
検査が失敗してばかりいるのを見ていると不安にもなるが、だからと言って上手くいかないとは言いきれないと思う。頑張れば何とかなるのではないだろうか。いや、ヒミキとしては何とかしてもらいたかったのだ。イレーネが「人柱」について調べることが出来れば、その分サブユニットを探し出す作業が楽になる。
「やってみないとわからないだろうな」
「中途半端だな」
〈中途半端ね〉
カイルとチト、二人から同じ言葉を頂いた。だが、仕方ないだろう、と言いたい。起こってないことを、どうなるか決め付けることは出来ない。
だが、少なくとも眼の前に佇むカイルは不服そうだった。
「もしうまくいかなかったとしたら、この調査や検査が無駄になるんだぞ。これが本当にやって意味のあることか――」
「最初にイレーネに協力することに賛成したのは、お前の方だったよな?」
「あの時はもっと何かやると思ったんだ。でも、実際にやってみると退屈で仕方ない。ただ、オバチャンが調べているのを見ているだけじゃないか」
彼の意見も一理ある。多くの検査を受けているヒミキとは異なり、検査の必要がなく、人並みの情報収集能力しか持ち合わせていなかったカイルにはするべき作業が与えられなかった。手持無沙汰になると、不安になる気持ちはわかる。本当に何もしなくていいのか、余計なことを考えてしまう。それが嫌だから――もしかしたら彼は研究助手として、仕事が欲しいのかもしえない。
しかし。
カイルには友人を守ると言う素敵な役割があったはずでは。
何も起こりそうもないからと言って、その役割はおろそかにされがちだった。うたた寝をしていることが多く、ふらりといなくなってしまうこともある。これでは、ヒミキを守るという役目を果たしているとは言えない。まさかとは思うが、忘れているわけではないだろうな。少なくともエリーはしっかり監視してくれているが、主人の方はペットに任せ満足してしまったのか。
「お前、俺を守るという仕事はどうしたんだ?」
「でも何も起きない。せっかくなら、守る相手がもっと可愛い、女の子だったらよかったのに、ヒミキじゃ守る楽しみもない。いっそお前が、盛大に怪我でもしてくれれば、オレも守りがいあるんだけどなぁ」
「冗談でも酷すぎるぞ」
「いいだろ、冗談でも言わなきゃ暇はつぶれないんだぜ」
「君達、五月蠅いよ」
機械端末を見つめていたイレーネが、ディスプレイから視線をそらさずに話しかけてきた。カイルとの口論に夢中になるあまり、調査の邪魔をしてしまったようだ。ヒミキはついかっとなり大きな声を出してしまった事を恥じた。
しかし、カイルは彼女の忠告を聞き、怒りで顔を赤らめた。
「そもそも、あんたが何も成果を得られていないのがいけないんだ」
これは、やつあたりだ。何もイレーネが悪いわけではないのに。
カイルの言葉に対する彼女の対応は、珍しく年相応に大人であった。
「何も得られなくて、困ってるのは私も同じなんだよ。このままじゃ、良い研究成果を発表することが出来ない」
「良い研究成果を発表できないと、卒業できなかったりするのか?」
「卒業できなくはないけど――」
「じゃあいいじゃないか。あがいた所で、良い結果は得られないな。選んだテーマが悪かったんだよ」
どうも今日のカイルはイレーネに対して厳しい。虫の居所が悪いのか。溜まった欲求不満を晴らしたかったのか。先ほどの冗談を無視されたことを、根に持っているのか。それとも、それら全てか。もしかしたら、もっと特別な理由――彼女に注目されたいという想いがあるのかもしれないが。
けれども、イレーネは彼の想いなど一切気づいていないらしい。振り返ると、カイルが妙に冷たい態度であることは一切気にせずに、右の拳を握り、熱を帯びた声で語り出した。
「卒業できるできないの問題じゃないんだよ。私は知りたいんだ。『人柱』は何か、キュベレーは何を持ってそんなことをしているのか。知りたくて調べてるんだよ。調べてわかりませんでしたってことになったら、知りたいことも知れずじまい。わからないまま、私はティタンに帰らなきゃいけないんだ。私がいなくなったら、誰が『人柱』について調べる? 誰も調べないだろ。それに、こんなにも調べたのに、わからないなんて、悔しい。だって、それってキュベレーに負けたみたいだろ。たかが、居住区の管理を行ってる機械に負けたなんて、悔しすぎる。負けたくないんだ」
全てを語り終えたイレーネは、ふうと小さく息をついた。頬が紅潮している。
これがきっと、彼女の本音なのだ。研究に対する、彼女の思いなのだ。
ヒミキはその熱意に、圧倒された。イレーネはこんなにも熱心にやっているのか。未だにプログラム改変の決心ができていないうえに、サブユニットを探す作業も他人任せの自分とは大違いだ。熱意も使命感もなく、ただ引きうけてしまったから、チトが可愛かったから、といった理由でプログラム改変を計画している自分が恥ずかしくさえ思えてくる。
カイルも彼女の熱意に説得されたのか、もう反論は言わなかった。
「でも、限界かもね。やっぱり相手が悪かったのか。キュベレーの守りは硬いね、これだけ調べて何もわかりやしない」
先ほどとは打って変わって急に弱気なことを言う。熱心な研究にもかかわらず、彼女の得られたことと言えば、ほとんどないのだ。
敵が悪かった。キュベレーは居住区全体を管理している。情報操作もたやすいのだろう。重要な情報は隠され、改ざんされてしまう。一人の人間が太刀打ちできる相手ではない。
となると、サブユニットはどうなのだろうか。キュベレー本体に直接かかわることは、ガードが堅すぎる。だが、本体以外の部分は、強固な防御壁も案外緩いのではないだろうか。
労働力を分散するのであれば、いっそガードが緩そうな場所を集中的に攻めるべきだ。イレーネもそのことはわかっているだろうが、「人柱」やメインのキュベレーについて執着するあまり、付属物のことを忘れてしまっている可能性があるのではないか。余計なことだとしても、一応訊ねてみる。
「本体より、サブユニットについて集中的に調べた方が、意外と情報が得られたりしないか?」
質問をすると、イレーネは首をかしげた。「サブユニット?」と言葉を反復する。サブユニットと言う言葉が通じなかったのか。用語が違うのか。言い換えて、もう一度問うてみる。
「キュベレーに付属する人型の機械があるんだろ。それの調査はどうだったんだ?」
イレーネは腑に落ちないような表情で何かを考え込んでしまった。カイルを見ると、彼も何か言いたげに口を動かすが、結局何も言わずに黙っている。何か妙なことを言ってしまったのだろうか。サブユニットの存在は、チトも隠せとは言わなかったから、話しても問題ないと思っていたが。一般的には知られていないものだったのか。まさか、少女の出任せだったなどということは――。
一度左耳で小さく〈あっ〉と呟く声が聴こえた。
顎に指を当て悩んでいたイレーネが、不意に椅子から立ち上がった。すたすたと、ヒミキの前へと移動する。
「サブユニットといったかしら。そんなものがあるなんて初めて聞いた。ねえ、もしかして、それってキュベレーと接した時に聞いたの?」
「いや、そうではなくて――」
どう説明すればよいだろうか。チトのことを話すわけにはいかないが、彼女抜きにはサブユニットについて知った経緯を説明することは出来ない。イレーネの尋問はなおも続く。
「そのことを知っているということは、実際にそのサブユニットに出会ったのか?」
「あってないけど」
「じゃあ、なんでそんなこと知ってるんだ? どんなに調べても、そんな情報はなかった。嘘じゃないんだよな。何か根拠あるんだよな?」
ヒミキを見つめる彼女の眼差しは、熱を帯びていた。ようやく手がかりが得られると思ったのか。何が何でも聴きだしてやると、瞳が語っている。今の彼女に対し、雑な言い逃れは出来ないだろう。
どうすればいい? どう説明すればいい?
チト、助けて。
けれども、こんな時に限って左耳からの音は一切聞こえてこない。
なぜ彼女は何も語ってくれないのだろう。語りたくないのか。チトは嘘を言ったのだろうか。存在しないサブユニットというものを存在すると言ったのだろうか。プログラム改変すると言う道具も、偽物。全て嘘だったのだろうか。だからこそ、バレそうになった今、何も連絡をくれないのだろうか。
そんなことはない。
ヒミキは脳裏に浮かんだ不信感を振り払おうとする。自分はチトを信じたい。助けてくれた少女を、信じていたい。
「何か知ってるなら、なんでもいい。教えてくれ」
イレーネの真剣な瞳に見つめられることが耐えられなくて、顔を逸らした。
どうすればよいのかがわからない。
もういっそ全てを説明したいと思う。この二人なら、信じられる。きっと話しても大丈夫なはず。話していいのか。話題の中心となるべき人物との連絡がつかないのでは――許可が得られないのではどうしようもない。
何も決められない。自分には決定権もなければ、勝手な判断を下すわけにもいかない。
わからないから、逃げ出した。
彼女の脇を抜け、開いたままの部屋の外への扉を抜ける。驚いた二人も無視し、廊下を走る。追手よりも速く走ることが出来たから、どんどん距離は離れ、最後には研究助手としてあてがわれた自分の部屋へとこもり鍵をかけた。
一人きりになったことへの安心感。いや、何も言わずに済んだことへの安堵か。
しかし、それも長くは続かない。合鍵さえあれば、この扉も容易に開いてしまう。だから、それまでに考えておかなくてはならない。
サブユニットについて、何を話せばいい?
言っていいことと、悪いこと。本当のことと、嘘のこと。
自分一人では、何もわからないのだ。どうしようもならない。
サブユニットはきっと存在している。存在しているはずなのだ。少なくともヒミキはそう考えるが、事実ではないのかもしれない。事実でないことを言うわけにはいかない。サブユニットの存在を信じたいが、それはチトがあると言ったからであり、他に理由があって存在を信じているわけでもない。
せめて、チトが何かを教えてくれればいい。それなのに、左耳のイヤフォンはなおも音を伝えてはくれない。
なぜ、少女はサブユニットという物を知っていたのだろうか。特殊な情報元があったのだろうか。では、それは一体何なのだろう。
あるいは、イレーネが言ったように、彼女はサブユニットに出会ったことがあるのか。だから確信を持ってあると言えたのか。いや、彼女はあの場所に閉じ込められていると言っていた。その言葉を信じるのであれば、サブユニットに出会えるなど――。
そもそもなぜチトは閉じ込められているんだ?
何かしでかしたのだと思っていた。けれども、少女に何が出来ると言うのか。発想が奇抜で、機械技術に優れているとはいえ、ただの少女には違いないはずなのに。
彼女が閉じ込められているのは、危険人物と思われているからでなく、何か別の理由があるのではないか。
もしかして。
考えたくもなかった、ある考えが思い浮かんでしまう。
チト。金糸のように輝く髪、サファイアのように美しい瞳、透き通る程白い肌。美しすぎる少女。まるで、実在の人ではないみたいだった。
彼女は言っていた。キュベレーはヒミキに復讐されない自信があるのだと。だから、戻って来た彼をプラーナの中へと受け入れた。
時々、彼女はキュベレーの思っていることがわかるように話していた。機械が修復されることを望んでいないことなど、なぜ他人がわかるんだ。
考えたくもないが、考えてしまう。
信じたくもないのに、つじつまがあってしまう。
そうだ、つまりそう言うことだったのだ。
ヒミキは頭を抱えた。
自分は遊ばれていただけだったのだ。そもそも、プログラム改変が必要だったのかどうかさえもわからない。改変は必要なのだが、ヒミキに気づかれない自信があったから、あんなものを渡したのかもしれない。なんにせよ、さぞかし愉快な光景だっただろう。改変すべき対象が眼の前にいながらも、何も疑うことなく改変を行うと宣言し、二度と会えない所へと送りだされた人間。素晴らしい道化師じゃないか。
「――チト」
聴いているのかはわからない。イヤフォンが音を拾い届けてくれることを願って、ヒミキは宙に向かって呟いた。
左耳からは何も聴こえない。
「チト、お前は――お前こそがサブユニットだったのか」
彼女は、ただ自分を弄んでいただけだった。
頼られてなどいなかった。自分はただ、彼女の遊び道具にすぎなかった。
「なあ、チト」
何もかも信じられない。ただ、それでも助けてくれたことに、感謝はしている。助けてくれたということは、疑う余地もない事実だから。
だが、待てよ。
ヒミキを海へ突き落としたのがキュベレーの意思によるものだとすると、そのサブユニットが彼を拾うことは自作自演ではないのか。だからこそ、チトは簡単に彼を助け出すことが出来たのだ。きっと、あらかじめ海の中に機械を仕組んでおいたのだろう。周到な準備さえしておけば、溺れた人間でも簡単に助けることが出来る。
全て彼女の仕組んだ舞台。それとは知らずに、台本通りの劇を演じていた。
結局これこそが「人柱」の役割なのだろう。管理機械の退屈を紛らわすために、利用されただけだった。
「黙っててごめん。でも少し違う」
前触れなく左耳から、また音が聞こえた。
「何が?」
もう何でもいい気分だった。今までやったことは無駄だった、意味がなかった。自分は随分と滑稽な役者だっただろう。
「私は、確かに機械よ」
やっぱり。
「でも違うの。ヒミキにはわかってもらいたい」
いまさら何をわかれというのだ。嘘の要求をして、それを達成しようと無駄な頑張りを眺め、楽しんでいたくせに。嘘ばかりついていたくせに。
「私は、キュベレーのサブユニットではない」
嘘だ。
「じゃあ、一体なんだって言うんだ。重要な機械の付属品でないのに、そんな立派な容姿と知能を持ってるとは、よっぽどの物好きが作ったんだろうな」
「物好きではないわ」
確固たる口調で否定する。彼女の声が左耳の奥で、凛と響いた。
「物好きなんて言って欲しくない。彼は大切な人のために、こうするしかなかったの」
それは一体……。
「聴いてくれる?」
また騙されるのだろうか。信じるべきなのだろうか。
彼女の要求を提案する程には、ヒミキの意思は強くなかった。
また、騙されてしまうかもしれない。でも、彼女がきいて欲しいというのだから。
「ああ、聴くよ」
一人きりの部屋の中は、静かだった。少なくともヒミキにはそう思えた。まるでプールの底へもぐった時のように、全ての音が遠く聞こえる。
その中で、イヤフォンから響く少女の声だけが、近くはっきりと聞こえる。
〈私は機械。正式名称は、医療用電子式汎用計算機チト三○二型。本体は――〉
眼の前が暗転する。何も見えなくなり、ヒミキはパニックに陥った。停電か。どうしたんだ。なぜ前が見えない。おかしい。どうして。
と、視界に光が戻った。同時に彼は落ち着く。なんだ、慌てることはない。これはただの映像だ。チトが送り込んでいるにすぎない。
それは、知らない部屋であった。
薄暗い部屋に、二メートル四方ほどの大きさの白い箱が、整然と並べられている。その箱がいくつあるのかは確認できないが、おそらく数十は下らないだろう。箱の表面はつるりしている。並んだ箱同士は、上方の橋のような構造で繋がっており、置かれた全ての箱が一つの物体であるようだった。
ヒミキは、いくつも並んだ巨大な箱に呆然とした。このような物体は見たことがなかった。彼が知る、あらゆる物とも似ていない、謎の物体。大量に並べられたその箱に、恐れさえも抱いた。
「これは……」
〈これが、私の本体よ。私の本体を映すカメラの映像を、あなたのコンタクトに送っているの〉
眼の前に映し出される、数十もの箱。これが――。
ヒミキには、その異様な物体と金髪の少女を同一のものとみなすことは出来なかった。あまりにも無機的すぎる。少女は、実際に存在するとは思えないほど美しい容姿であったが、少なくとも生命感はあった。けれども、この箱には生命の兆しなど微塵もない。ただの箱だ、機械だ。どんなにこの箱が、チトの意思――自信家で少々強引でそれでいながらも少女らしい、あの意識を持とうと、これでは機械として見なすことしかできない。
信じることができなくて、答えがわかっていても再び問うてしまう。
「本当にこれが?」
〈私よ。眼の前にあるこれこそが、私の頭脳なの〉
機械だ。どう見ても機械なのだ。チトが機械であることが理解できていても、心の中では、もっと有機的な物を想像していた。いや、本当は少女の中に機械が詰まっていることを想像していたのだ。
これが本体ならば――。
「じゃあ、あの少女の姿の君は、一体何なんだ?」
〈キュベレーと一緒よ。この機械が動くわけにはいかないでしょう。動く時はもっと小型で、動く時にエネルギーを消費しない、小回りが利く物が望ましい。そのための身体が、あの少女としてのチト。この箱が考えだした全ての思考を、少女の姿の私に送り込んで、その身体を動かしている〉
生命感溢れる少女を操る無機的な箱。
一体この箱が、人間らしい意志を持つことがあると言うのだろうか。なぜ、電気で動くだけのコンピュータが、意思を、感情を持ち得るのだろうか。
〈あるいは――少女の私は、生まれなかった命〉
チトは付け加えるように言った。含みのある、抽象的な表現。
わからないこと、納得のいかないことが多くあって、脳内が混乱している。それでも。
ヒミキは咽から絞り出すように、言葉を紡ぐ。
「教えてくれ」
〈何を?〉
「チト、君が君である理由を」