赤イ秘密
「お…終わった」
糸が切れたように命はそのまま机に突っ伏した。蓮水はその身体の隙間からプリントを抜き取ると隣の机で採点をしていった。その丸付けをする手を命はじっと見つめていた。
大きな手だな
あの手で撫でられると、心がくすぐったく、温かな気持ちになるのだ。
手って、『手当て』という言葉があるとおり、色んな力があるのかもなぁ…。
「ん。よろしい。まあ、少々惜しいところはあったが、今日はこれで勘弁してやろう。お疲れ様」
そのまま手が伸び、ぐしゃぐしゃと髪の毛をかきまぜられる。
「ちょっと!おぐしが!」
「頭がよくなるまじないだ」
「いや、脳細胞死ぬって、馬鹿力」
「素直じゃないな、嬉しいくせに。にっしても、お前髪の毛何もやってないんだな」
「何。手抜いてるって言いたいんですか」
「いや。日本人らしく真っ黒、真っ直ぐ、サラサラでいいんじゃない。お前黙ってれば大和撫子っぽいし」
「大和撫子って。いつ時代よ」
「一見頭も悪そうには見えないしな…」
反論しようと口を開いた瞬間、キュルルとお腹が鳴った。
これは、は、恥ずかしい…
顔を赤くし俯く命の様子を見て、蓮見は腕の時計を見ながら笑った。
「もう十二時過ぎたもんな。珍しく頭も使ったようだし。頑張ったお前にご褒美として、蓮見先生が奢ってやろう」
「え!本当?」
「だが、他の奴らには内緒だぞ。たかられたらかなわねェ」
「うん!」
「ただし、期待すんなよ」
「うんうん!」
まさか昼飯奢りというオプションまでついてくるとは。たまには頑張ってみるのも悪くはないかなと思ってしまう。
……が、
「期待してませんでしたよ。」
「ズズズ…」
「期待してませんでしたけど!」
「ズズズズ…」
「これはないでしょう。」
「ズズズズズズズズ……」
蓮見に奢ってやると命がついていって連れてこられたのは数学の準備室。
食堂じゃないのか、と思ったけれど、もしかして出前とってくれるのかな、なんて思っていた私がバカだった。
期待してイスに座って待っていたら、目の前に持ってこられらのは、ダンボールの中から取り出されたカップ麺だった。
「これ、元々ここにあるやつだよね?しかも賞味期限間近だし。全然おごりじゃないじゃん。」
「なんだ、別に食いたくなかったら食わなくてもいいんだぞ。」
「いえ、頂きますけど!」
ぶつぶつ言いながらも命はズズズズ、と音をたてて勢いよく麺をすすった。
暑い。
このクーラーのない暑い部屋で、熱いきつねうどんをすするのだ。何てことだ。それでも食べるけれど!
「ズズズズズズズズズ…」
「まあ、しかし勢いよくすするな。普通女ってもう少し男の前とかだと大人しく食べないか?」
「何か悪いですか?麺はすするのが醍醐味でしょう。」
「ははは。さすが命ちゃんだな。」
「…名前で呼ばないで下さい。」
「嫌いなんだっけ?この名前。いい名前なのに。」
「散々笑ったじゃないですか。」
今だに根に持っているのだ。あんなにも無遠慮に笑ったのは目の前にいるこいつだけである。まあ、もしかしたら今日命も藤家に対して同じくらい失礼なことをしてしまったのかもしれないのだが。
「笑ったっけ?」
「笑いましたー。何きょとんとした顔してるんすか。私の純粋な乙女心はひどく傷付いたんですからね。」
それは悪かったな、と蓮見はニヤニヤ笑いながら言った。この男、絶対悪いとなんか思ってない。
「そういえば榊、お前夏休みどこか行ったりしないのか?」
「ズズズ…何でですか?」
一旦箸を休める。
「いや、おみやげ目当て?」
その答えがあんまりにも蓮見らしく、命は呆れて笑ってしまった。
「とりあえず予定はないですけどー。ていうか、美嘉も有里もちょうど私が補修終わってヒマになるくらいの時に、彼氏と旅行に行っちゃうらしいし。」
「美嘉と有里?ああ、安池と松下か。…榊、お前は彼氏とかいないのか?」
出たよ、と命は盛大に顔をしかめた。
「何だ、お前その顔」
「この顔が答えですよ。どうせ私もてませんし。何です、いなくて悪いの!?」
「落ち着けよ。別に悪かねえよ。むしろ、そういうのに真面目に真剣な方がいいんじゃねねのか。いるからってえらいわけじゃない。自分のこと、やすくしない方がいいからな。」
「ふーん。」
「何だ、ふーんって…。」
「いや、意外だなって思って。」
「そうか?」
「うん。名前のときみたいに馬鹿にされるかなって思った。」
「いや、そん時は悪かったって。それより話は戻ってさ、家族旅行とかはいかないのか?」
「家族旅行?」
そうだ。旅行の話をしてたんだっけ?
「それもないよ。うち空けられないんで」
「何だ?お前の家自営業か何かか」
「自営業っていうか、しきたりっていうか…」
「しきたり?お前そんな古い家柄のいい家のお嬢ちゃんか?」
「いい家はともかく、古い家であることは確かだけど…」
「お前んちか…高校だと家庭訪問なんかもないからな。特別にしてやろうか?」
「いいです!いいです!」
「そんなに拒否されるとますます気になるっていうか…」
「もう、本当!いいって!」
命がここまで拒否するにはそれだけの理由があった。本人の中では。自分の家を誰にも知られたくないし、見られたくもない。別に家自体が見られて困るものではない。言うなればトラウマだ。小学生のときのトラウマのせいで、それ以来どれだけ仲のいい友達も家に呼んだことはない。家が何をやっているかは命の大切な秘密だった。そしてもう一つ、守らねばならない秘密がある。
命は一気に残っていたスープを飲み干した。
「それじゃ蓮見!私もう帰るから。」
「ああ、また明日な。」
「はーい。」
命はカバンを肩にかけると急ぎ目に数学資料室をあとにした。ちらりと振り返ると蓮見がこちらに背を向けたまま、ひらひらと手を振っていた。
学校から電車で四駅。そこから徒歩三十分。少し細い道に入り、山の中を歩く。緑の葉がカサカサと風になびき、少し涼しい風が命の髪を撫でた。葉の間からもれる日の光が地面の上でゆれている。
「んー、気持ちいい」
目を軽く閉じて自然を肌で感じる。都会では感じることのできない気持ちのよさだろう。この静かな和やかな空気が命は好きだった。
しばらく行くと古い石段が見えてくる。
一段、二段、三段…。
その長い石段を登りきると赤い鳥居が見える。くぐった先には二体の狛犬。いや、本来狛犬がいるはずの石が見える。昔から、この神社には何故か狛犬がいないのだ。はじめからそんなものがいなかったのか、それともいつの間にかいなくなったのか。
――――ここは古びた神社。そして、私の家…
「ただいまー」
ガラッと引き戸を開け、歩くたびにギシギシと音が鳴る古い廊下を通り、これまた古びて抜けてしまいそうな階段をを上り、自分の部屋へとたどり着く。カバンを机の上にドスッと置き、ベッドに身を投げる。床の上に落ちているリモコンに腕をグッと伸ばして拾い上げると、クーラーのスイッチを入れて冷房をかける。
「あー…暑かったあ」
大の字に仰向けになって寝そべり、クーラーから出る冷風を直接全身に浴びる。あまり体には良くないかもしれないが、これが一番早く涼める方法なのだ。徐々に体温が下がっていくのを感じる。これで扇風機をプラスすると、さらに効率的なのだが。
扇風機をこっちに持ってくるのも今は面倒くさいので、とりあえずクーラーだけにしておく。
目を瞑って耳を澄ます。ここは少し人気から離れてある場所なので、物音はしない。耳に入るものといったら、虫の声、鳥の声、風の音、すべて自然なものばかりだ。とても静かな場所だ。正月ぐらいは少し騒がしくなるけれど。相当くたびれた神社なので、あまり人も来ない。もしかしたら、知られていないのかもしれない。そんなレベルだ。
―――そう、私は神社の娘…
小学生のとき、友達を家に連れてきた。最初はもの珍しそうにしていた。みんなの家は洋風だし、こんなに古くもないはずだ。一緒に家の中を探索して遊んでいた。
しかし、その中で一人、霊感のある子がいたのだ。そしてその子がこういったのだ。
「ここ、怖い。何かいる」
一気にみんなざわめいた。
どこ、どこ?そんな風に騒いでいると、その子は手を上げて、まっすぐ指差した。
「み、みことちゃんのすぐ後ろ。女の人…」
その途端みんな悲鳴を上げて家を飛び出していった。その話が広がって、大きくなって、しばらく誰も話しかけてくれなくなった。榊命と一緒にいたら呪われるとか、とりつかれるだとか。家に帰ると毎日泣いていた覚えがある。
人のうわさは七十五日ということで、しばらくしたらみんなすっかり忘れていつも通りに戻ったのだけれど。それでも命には立派なトラウマになってしまったのだった。
確かに神社という場所は、少し気味の悪い場所かもしれない。生まれたときからずっとこの場所にいるから分からないが。神と通じている場所ということは、少なからずその反対とも通じているのだ。世間一般的にいう妖怪とか幽霊だとかいう…。そして代々この土地の神を崇め、邪悪な妖気を抑えるのが榊家の慣わしである。だから一般の人と比べると霊力、霊感が強い。榊家の家系の女は、代々巫女としてその霊力でこの土地を陰ながら守ってきた。最近は神を信じている人なんかほとんどいなくなり、神社に参拝しに来る人さえ少なくなってしまったけれど。
ベッドから体を起こし、壁にかけてある鏡の前に立つ。そして目につけていたコンタクトを取る。ごく普通の高校生が鏡の向こうにいる。瞳の色以外は…。
「赤い瞳…みんなとは違う」
命は歴代の巫女の中でも先祖返りといわれる強い霊力を持って生まれてきたと言われている。その証拠がこの赤い瞳である。
榊家の先祖の巫女で一番力が強かった者の名前は『ミコトの巫女』。長い艶やかな黒髪に赤い瞳をしていたといわれている。そしてその傍で彼女を支えていたのが狛犬。世間一般的にそれは犬だと思われているが、実際は狛犬と言う名の守り役、人間である。光の狛と影の狛、二人でひとつでミコトの巫女を守っていた。そう、ある事件が起こるまでは…。
これは古くから家で語り継がれているので本当かどうかは怪しいのだけれど。しかし命の親はその伝説を信じ、ミコトの巫女と同様に赤い瞳を持つ私に同じ名前、命と名をつけたのだ。
「でも、まあ、私の瞳の色がこれなんだから、信じるしかないんだろうけど…」
何度この瞳を呪ったことだろう。何度この家系に生まれてしまったことを恨んだことだろう。普通の子として生活できないのだ、この瞳がある限り。
正直学校の勉強をいくらしたところで、将来は決まっているわけだ。この山奥の神社で、誰にも知られることなく裏ではこの地の平和のために尽くすのだ。一生。学校で学んだ勉強が使われるような場ではない。
週に一度正装をし、山の上のあの世とつながっている場所へ、扉が開かないように力を送る。伝説上、そこにはミコトの巫女がある者を封印した場所と言われているのだけれど。
だからと言っては何なんだが、学校の勉強に対してのやる気と言うものが、命は全く起こらなかった。少なくとも高校卒業できる程度には勉強しなければいけないけれど。
「どうせ夏休みも例年と変わらずに、いつも通りに過ぎていくんだろうなあ。」
しかし今年の夏はいつもとはだいぶ違うものになるのだった。