表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/29

能面ノ美少年

 時計の長い針が一周をもうすぐ回ろうとしている。しかし命は完全に課題の前で白旗をあげていた。イスの背もたれに寄りかかり、呆然と問題を見下ろしていた。すでにシャーペンは手元を離れ机の上に転がっている。


「三角関数…サイン、コサイン、タ…タンジェイン?は…ははっ…」


 清々しいほどの分からなさに笑いしか出てこない。いや、しかし実際笑っている場合ではない。授業中自分は何をしていたのかと命は自分で自分を心配した。横目でチラチラと周りの様子を伺ってみるが、みんなも同じように手が止まっている。 よかった。少なくとも私一人じゃない。だいたいこんなところに来ている人たちが、そうそうスムーズに事が運ぶわけがないのだ。できるならこんな場所にいない。だからこんな短時間で問題を終わらせる人がいるはずない。

 そう高を括っていると背後でイスが引かれた音がした。命の真横を藤家が涼しい顔でプリント片手にカバンを肩に背負って通り過ぎていき、蓮見が行儀悪く足を乗せている教卓の前へ進み出た。その足をチラリと不機嫌そうな顔で見下ろし、その足を避けてプリントをばさりと置いた。


「なんだ藤家、もう終わったのか?」


 蓮見は足を下ろすと胸に挿した赤ペンを手に取り採点をはじめる。その様子を藤家は無表情でじーっと見ている。いや、見てはいないのだろうがとりあえず感情の読めない顔でじっとしている。蓮見は三枚の採点を終え、赤ペンにキャップを戻すとうーんとひと唸りしてプリントを藤家にへと返した。


「ミスなし、全問正解、おめでろう。」


 顔を軽く下げてなんの感動もなく藤家はそのプリントを受け取った。


「しかし、分かんねえな。なんでお前こんなところにいるんだ?お前のことだから自主補習…ていう感じでもなさそうだし。」

「寝坊」

「あ?」

「寝坊して数学のテスト受けれなかったんで。」

「あー…まあ、それもお前らしいっちゃらしいかもな。」


 変に納得しちまったのが何ともなあ、とブツブツいいながら蓮見は短い頭を掻いた。

 寝坊して補習ってことは、寝坊しなかったら多分学年上位にいたってことでしょう?同じ人間なのにこうも頭のできは違ってしまうのか。なんと神様は残酷なんだろう。

 命は呆然と二人の会話を聞いていた。運が悪いことにそこでチラリと蓮見と目が合ってしまい、その口がニヤリといつもの悪い予感しかしない笑みをたたえるのを見た。


「じゃ、先生。俺もう帰るんで。」

「ちょっと待て、藤家。」

「はい?」

「どうせ今日このあと暇だろう?」

「…俺が暇だとどうして決め付けるんです?」

「なんだ、用事あるのか。」

「…いや、まあ、今日はないですけど。」

「そうか!それはよかった!いやな、ここに一人どうしようもない奴がいるんだよ。そいつに数学教えてやってくれねえかな?この様子じゃ午前中に終わらせてくれなさそうで、俺の貴重なランチタイムが奪われそうなんだよ。な、頼む!」


 ヘラヘラ笑いながらまるで誠意を感じさせない頼みっぷりである。


「いやです。」


 ピシャリと間髪あけずに藤家が言い放った。


「なんで俺がそんなことしなくちゃいけないんです?」


 最もな意見である。


「そんなこと言うなよ。ほら、これやるよ。」


 蓮見は教卓の机の中をゴソゴソと探して、何かを藤家に差し出した。それを見た瞬間、今までゆっくり優雅な動作だった藤家が、カッと目を見開きそれを急いで奪い取った。少し頬が赤い。


「…こんなもの、どこで拾ったんです。」

「そんなに焦ちゃって可愛いところあるじゃねえか藤家君。別に俺はお前が…」

「分かった。やりますよ。」


 藤家は不本意そうに不機嫌丸出しで言った。蓮見はにぃっと口を横に開き人の悪い笑みを浮かべ、チラリともう一度命の方を見た。


「そうかそうか、それで世話してやって欲しいのがお前の前の席に座っていた榊って奴なんだが。」

「……は?」


 周りの視線が一気に命の方に向けられた。その中でも女子の視線が痛い。面倒なことに巻き込みやがって蓮見の奴…。そして、さも迷惑そうに見てくる藤家。


「い…いや、蓮見先生?私一人で大丈夫で…」

「ほお…じゃあ今すぐ手元にあるプリント見せてみろ。」

「ぐ…」


 正直二問目で止まっているこの状況を見せられるわけがない。命は今日この日が無事に終わらないことを感じた。


「あの…何か本当にすみません」


 ガタガタを無言で藤家はイスを引きずってくると乱暴に腰掛けた。背もたれに深く寄りかかり、長い足を見せつけるように軽々と組んだ。


「いいから早く終わらせろ無駄なことは喋らなくていい。」


 刺々しい口調で一気に言われてしまった。そちらも不本意だろうがこちらも大変不本意なのだ。ああ、蓮見。本当に余計なことをしてくれたものだ。この恨み忘れはせんぞ。

 それにしても、美人の無表情はこんなにも威圧感があるものなのか。かえって顔をしかめられている方がいいというものだ。

 ああ、そうよね、私女だものね。ごめんなさい。

 無駄なことは喋るなと言われたので心の中で誤っておく。しかしこの緊張状態では頭が回るはずがない。ただただ気だけが焦るばかりである。


「ねえ」

「はい!?」


 突然話しかけられたため必要以上に大きな声で、しかも裏声った声が出てしまった。そんな命を藤家は冷たい目で一瞥した。


「これ、何て読むわけ?」

「え?」

「だから、名前だよ。いのち?」


 細く長い指で刺された箇所には『榊命』と書かれた名前だった。


「ああ、私の名前。命って書いて『みこと』って読むの。」

「ふーん」


 藤家は先程までの期限の悪さは一体どこへやら。興味津々といった様子で名前をじっと見つめていた。


「おもしろいね。」

「おもしろい?」

「いいんじゃないの、個性があって。」

「個性、ねえ。」


 そういう言い方もあるのか。命は感心して自分の名前を眺めた。これまで散々変だ、変だとからかわれてきた名前である。あの教卓で好き勝手に黒板でお絵かきし始めている蓮見でさえ、いかつい名前だと笑い飛ばしたのだ。


「そういう藤家君だって面白いじゃない。」

「俺の名前?何が。」

「月音って、一文字変えれば『つくね』でしょう。」


 しばし沈黙が流れた。段々と命は冷や汗が出てきた。最初に無駄なことはしゃべるなと言われたばかりなのに、少し話しかけてもらったから調子に乗りすぎてしまったきがする。いや、間違いなく乗ってしまった。しかも、小学生並みのセンスのない会話のチョイスだった。こういうところでも自分の頭の悪さは染み出してくるのかと自己嫌悪に陥る。

 命が恐る恐る様子を伺ってみると、藤家は俯いたままその肩を小刻みに揺らしていた。起こっているのだろうか。


「あの…。」

「………」

「………」


 やだ、この人静かに笑っているんだけど。そんなに肩を震わすほど笑いを押さえ込んで苦しそうにするならいっそのこと大声で笑えばいいのに。そのほうがこっちも対処が楽だというのに、こんなのどういう風に反応したらいいか分からないじゃない。それにしても…


「藤家君、その笑い方不気味なんだけど。」

「……笑って、いない…」


 嘘つけ!声が震えているし、なんでそんな片言なのよ!顔を覗き込んでみると、目が会った瞬間藤家は吹き出した。そのまま大声で笑い出す。


「何なのよ!失礼じゃない!私の顔見たとたん吹き出すとか!沸点分かんないし!」


 しかし笑い声は止まらない。教室中の人が手を止めて藤家を信じられないといった目で見ている。それはそうだ。無口、無表情、無愛想な藤家がこんな大声で笑うなんて誰が想像しただろうか。しかし、藤家の笑いが止まらない限り、その傍にいる命への視線も止まらない。

 再び教室が落ち着くまでしばらくの時間がかかった。その頃には笑い疲れた藤家だけでなく命も完全にげっそりしていた。


「藤家君、大丈夫?」

「……忘れてくれ。」

「あんな風に笑えるんだね。」

「本当に忘れてくれ。恥だ。末代までの恥だ。世間に顔向けできない。」

「そんな大げさな。ちょっとツボちゃっただけじゃない。いやー、それにしてもあの藤家君がねー。」

「もう言うな。ちゃんと勉強も教えてやるから。」


 藤家は睨みながら命にシャーペンを手渡してきた。しかしいくら睨んだとしても先ほどより怖くはない。照れたように頬が少し赤らんでいるからだ。


「ありがとう、藤家君。」

「…別に。それに藤家でいい。」

「え?」

「あんたに君づけされるとイラッとする。馬鹿にされてるみたいだ。」


 照れ隠しのその言いようがどこか可愛らしい。


「うん。よろしく、藤家。」


 実は可愛くていいやつなのかもしれない。命は藤家に対する見解を少し改めた。








 前言を撤回しよう。


「またそこ間違えてる。さっきも説明したよね。」

「………」

「学習能力ないわけ?その脳ちゃんと機能してる?」

「………」

「なんで掛け算間違えるんだよ。もう一度九九からやり直してきたら。」

「………」


 思った以上にスパルタだ。鬼だ、鬼。しかも無表情で淡々と怒られるのって精神的にくるものが大きい。しかし反論はできない。まったくもってその通りだからだ。

 藤家から勉強を教えてもらい始めて早一時間が経過しようとしている。もう周りの生徒もぼちぼち課題を終わらせて、数人しか教室には残っていない。気持ちは焦る。しかし頭は全く付いてきてはくれない。


「ちょっと、手止まってる。」

「あの、手が言うことを聞いてくれないんですよ。」

「言うこと聞かないのは手よりあんたの頭だよ。」


 さすがに藤家も教え疲れたようで先程からため息ばかりもらしいている。しかしこちらは謝ることしかできない。


「で、次はどこが分かんないの?」

「とりあえず、ここ。」

「とりあえず、ね。」


 もうこの『とりあえず』というのが全部が分からないという意味だと理解しているようで、藤家は諦めたようにその部分を見てくれる。受け取る方の能力が足りないだけで、藤家の教え方はその無愛想な性格に似合わず丁寧で分かりやすい。嫌味や文句が一々入ってくるのが残念だが。これは蓮見よりよっぽど教師向きなんじゃないかと思ってしまうほどだ。


「いや、藤家さん、すごいね。」

「褒める暇あったら理解してよ。」


 常人に比べて理解速度は亀の如しだが、徐々に要領も分かってきた。


「あ、もしかしてここはさ、こう?」


 命は自分の力だけで試しに一問といてみた。一応布な数値になったので藤家を伺うと…


「うん、あってる。やればできんじゃん。」


 ふわりと柔らかく藤家は笑った。初めての笑顔だ。いつもピンと張り詰められていた空気が一気に解かれた。こんな雰囲気も持っていたのか。いや、むしろこっちが本当の藤家の持つ空気なのかもしれない。

 思わず命が見惚れていると、一気に藤家の眉間にしわが寄った。


「なに。」

「いや、失礼ながら可愛いな、と思ってしまいまして。」

「可愛い?」


 更にしわは濃くなる。


「そんなこと言われたことない。」

「まあ、藤家って可愛いっていうより綺麗で美人だし。」

「ああ、それは言われるな。」


 どちらにせよ男が言われて嬉しいものではなさそうだが、そちらの方は真顔で藤家は肯定した。よほど頻繁に言われなれているのだろう。それを認めて嫌味にならないというのがまた何というか…。」


「ま、どちらにしても正直まったくもって嬉しくない。」

「だろうね。そういうふうなこと言われるの好きじゃなさそうだし。」

「男でそう言われて喜ぶやつの方が稀だと思うけど。」

「いや、じゃなくてさ。何か藤家って好意もたれるの自体嫌いそうだなーって…」


 しまった。これは言ってはいけないやつだったか。

 人は地雷を踏んでしまったとき、一瞬で周りの空気が変わる。あ…やってしまった、と気づいたときにはもう遅い。紡がれた言葉は戻ってこないからだ。


「藤家、ごめ…」

「何で?」

「え?」

「何でそう思う?」


 てっきり怒られるのかと思ったが、どちらかというと藤家の声は不安げに揺れていて、その瞳には様々な感情が入り乱れていた。怒り、焦り、困惑、悲しみ、そしてかすかな喜び…?この瞳に一体どういった言葉を返せばいいのだろうか。形にならない言葉だけが頭に浮かんでまたはじけていく。


「おい。」


 緊迫した空気が一瞬で解ける。この空気の読めない男の声で。


「もう教室残ってんのお前らだけだぞ。」


 二人共はっと我に返り、周りを見渡せば、確かに教室はガランとしていて、時計を見ればもう昼時を指していた。そう自覚するとおなかが空いているような気持ちになってくる。


「先生、すみません。俺昼過ぎに用事あるんでこれで失礼します。このあとは先生が榊の面倒見てあげてください。」


 俯きがちに軽く頭を下げて、早口でそう言うと、藤家は命の方はチラリとも見ずにカバンを手に足早に教室を出て行ってしまった。藤家を傷つけてしまっただろうか。そう考えて命は自分の手元の目を落とした。


「何か、あったのか?」


 蓮見が先程まで藤家の座っていた椅子に座って尋ねた。


「怒らせちゃったかも。」


 誰にだって人に触れられたくないことはある。命にだってもちろん。ただ、少し話せたのが嬉しくて、短い時間だったけど少し心を開いてくれ多様な気がして、藤家のそんな部分に土足でズカズカと入り込んでしまったのかもしれない。

 目に見えて落ち込んでいる命を見て、蓮見はそっと大きな手をその頭に乗せた。


「でも俺は、あいつが誰かと、しかも女とあんなに楽しそうに話していたのは初めて見たぞ。あいつの担任でもないし、数学を担当していたのも去年だけだったが、いつも一人でぼんやりとただ座っているのしか見たことがなかった。明日また会えるんだ。もう一度話して、何か怒らせちゃったんだったら謝ればいいんじゃないか。」


 あやすようにぽん、ぽんと大きな手で包まれるたび、少しずつ気持ちが楽になった。


「そうだね。ありがとう、蓮見。」

「こういう優しいところがモテるんだろうな、俺。」

「そういうところがモテないんだと思うよ。」

「あ?ほら、早く残りの問題終わらせろよ。あと三十分で。」

「えー。」

「えー、じゃない。」

「はーい、蓮見先生。」


 いつもは腹立つこの軽口もこの時ばかりは本当に感謝した。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ