夏ノ始マリ
――――夏。
それはどうしてこんなにも胸を躍らせるのだろうか。日常から抜け出せるかもしれない。新しい出会いがあるかもしれない。何かいつもと違う変化というものを外に期待してしまう。それはここにいる、榊命も同じだった。
「あーあ、どうしてこうなっちゃうのかな。」
クーラーのない教室ではじっとりと汗が肌にまとわりつき、セーラー服がぴったりと肌にくっついているような感覚に陥る。外でけたたましく騒ぎ立てる蝉の声は耳につき、集中力をそぐ。涼しさを求めて机につっぷしてみるが、そこに冷たさは皆無だ。二度目の大きなため息をつこうとしたとき、後頭部にバシッと打撃が走った。
「いった!」
「それは榊、お前がアホだからだ。」
恨みのこもった目線で後ろを振り返ると、ニヤニヤ笑いの男が立っていた。
「蓮見ー…私の脳が壊れでもしたらどうするのよ。」
「まだお前の脳みそに壊れていない場所があったなんて思わなかったな。あーすまん。」
さすがにそれはひどい。イーッと歯をむき出しにして応戦するが、鼻で笑われただけで相手にもされなかった。男、蓮見陽杜はそのまま教壇に立つと、教室中を見渡して盛大にため息をついた。
「こんだけ俺の夏のスタートを遅らせて下さった人がいるとは、あー先生は嬉しい限りです。なんて幸せ者でしょう。」
爽やかな顔で嫌味を言い出した教師に、ここにいる補修組の生徒たちはそれぞれそろっと視線を泳がせた。この男に彼女ができないのはこういうところのせいなんじゃないかと思う。黙って立っていれば、180センチを超える長身にがっしりとした体躯、顔もまあまあ男前なのに。どの学校にもこういった教師は一人はいるもので、年齢も若く大学生くらいにも見えるため女子生徒には大人気である。恵まれた体格は体育教師かという印象を受けるが、これで数学教師というところももしかしたら人気に拍車をかけているのかもしれない。ギャップというやつだろうか。
「おい、榊。何をジロジロ俺のこと見てるんだ。そんなに見とれられたら先生照れちゃうじゃないか。」
しかし口を開けばニヤニヤと、嫌味、からかい、ナルシストである。外見がなまじいいばっかりに勘違い野郎と言えないのがこれまた厄介だ。
「あらやだわ先生。暑いし早く始めて下さらないかしらってガン飛ばしてただけなのに。」
いつものニヤニヤ笑いが少し引きつって一瞬止まり、「ま、お生意気!」とこちらに乗って少しお嬢様言葉で返した蓮見は、気を取り直して課題のプリントを配りだした。こういったノリのいい部分が人気の大きな一つなんだろうな、ということは分かる。命も蓮見のこういう部分を気に入っていた。生徒との距離がほかの先生と比べても近いため、こちらも話しやすく、ついついタメ口で話してしまうのだ。
手元にまわってきた本日の課題は両面印刷A4プリント3枚。終わらせたものから教員に採点をしてもらい、了解をもらえしだい家に帰れる。何としてでも早く終わらせて、夏休みを楽しみたい。家に帰ったら何をしようかな、とニマニマ笑っていると座っているイスに衝撃が走った。蹴られたかのような衝撃。いや、実際にこれは蹴られた衝撃…。恐る恐る振り返ると、作り物めいた美少年がこちらを睨んでいた。切れ長の目元はこの蒸し暑い中でも涼しげで、鼻筋はスッと通っていて、眉毛も綺麗な弓の形を描いている。薄い唇がそっと開かれて…
「おい、プリント。」
「は?」
間抜けな声を出すと、人形の顔がしかめられた。その顔も相変わらず作り物めいた美しさなのだが。
「だから、プリントだって。あんたで止まってるの。早くしてくんない?」
慌てて手元のプリントをまわす。
「ご、ごめんね。」
またその顔は無表情に戻り、淡々とプリントを受け取って後ろに回していった。目も合わせてもらえなかった。
どこかで見たことある顔だな、と思っているとふと隣のクラスの藤家月音だということを思い出した。命は噂に鈍い方ではあったが、さすがにその存在は知っていた。人間離れした美少年ぷりは入学した時からすぐに学校中の噂になった。しかし本人極度の女嫌いのようで、告白してこっぴどく振られた女の子は数知れず。
確かになあ、と命も間近で本物を初めて見て思った。きめ細やかな陶器のような肌はほくろひとつなく、真っ直ぐな肩ほどまである黒髪がその白さを更に強調していた。神様が丹念に1ピース1ピース完璧に作られたものが正確な配置で置かれている感じで、美しすぎてどこか機械的な冷たさを感じる印象だった。それにしても…
「ほーお、榊。名前すらまだ書かずにぼーっとしているとは、よほど余裕があると見えるが、そんなに余裕ならお前には追加で…」
「ああ!すみません!やだなー、私ったらこのプリントにこめられた先生の愛を感じて感動しちゃって、もう!」
「じゃあ、俺の愛にとっとと答えてあげてください。」
「ええ!もう!今すぐに!」
ははは、と命と蓮見はお互い作り笑顔で乾いた笑顔を交換し合った。命は慌ててシャーペンを手に取り名前を書きこんだ。
それにしても、藤家って確か学年主席で合格してきた秀才君だった気がするけどどうしてこんな所にいるんだろう。
「さーかーきー?手がとまって…」
「あらやだわー、この問題難しいわー」
どうやら人のことを気にしている場合ではないようである。