死者の王国
まえ‐がき〔まへ‐〕【前書】
[名]本文に入る前に簡単に書き添えること。また、その文章。序文。端書き。
過去ではない。
因習は断ち切らねばならず風習は守り継がねばならない。とはいえ自分から進んでやりたがらないのはひとの性、どちらを行うにしろ『全体』の意志は個人のそれを無視して喉元に突きつけられる短刀だった。切っ先はあまりに鈍く、持つ人の朧気な輪郭は、突きつけられる側だけに後味と始末の悪さを残してゆらめくのみである。
父の死を聞き急ぎ帰郷した。久方ぶりに踏んだ故郷の土はあまりに昔と変わらず、子供の私が見た夢の続きであるかのようだった。駅舎だけは無意味に近代化されているが、一歩踏み出すとむせ返るほどの自然に溢れている。迫る山の緑がむせ返るほどに生命の息吹を感じさせる。田の稲はまだ頭を垂らしておらず、風が吹き抜けると爽やかに手を振った。遮るものなど何もない。駅からまっすぐ伸びる道の先、緩やかな勾配の辿り着く先に、古い屋敷が時の流れに鎮座していた。他の家々は都会に比べるとずいぶん大きいが、屋敷の大きさにはかなわない。屋敷を頂きとして自然のカンバスに点在する家。村には厳かな秩序が存在していた。
坂道を歩いて行く。人はだれもいない。昔からそうだっただろうか。私は想い出そうとして、やめた。感傷にひたると村に飲まれてしまう、漠とした不安が胸の中に墨を垂らしたがごとく広がったのだ。見上げる空はあくまで青く、背を伸ばす入道雲が夏の匂いに誘われた巨人のようだ。ときおり吹き抜ける風が汗に心地よい。不安が少しずつ塗りつぶされていく。
屋敷の全景が見えてきた。時の中で練磨された門は開かれている。鯨幕が日常と屋敷を切り離すように続いている。鯨幕は屋敷の両翼に沿って折れ曲がっていた。まるでそこが舞台であるかのように。きっと弔問客は俳優に違いないのだった。葬儀という演目の上演に不可欠な存在なのだ。
観客は誰なのだろう。もちろん父に決まっている。
父は美しい人だった。切れ長の目であるだとか涼し気な鼻梁であるだとか、そういったものは瑣末なものであった。父は、彼は、全てにおいて調和のとれた存在であったのだ。そんな父を幼い頃から私は恐れていた。優しい微笑の奥に見える達観を嫌っていたのかもしれない。あるいは慈しみの底にたゆたう父の引力に恐怖していたのかもしれない。
引力。父は世界の中心だった。たとえそれが一地方の片田舎であっても、紛れも無く彼はひとつの世界を築き上げていた。高校の頃にも父と同じような人物に出会ったことがある。私はこの村にどこか息苦しい物を感じており、県外の高校へと進学した。高校時代は寮に入り、三年間をそこで過ごしたのだが、そこの寮長がそうであった。
壮年の寮長は午前五時になると決まってラッパを吹き鳴らした。学生時分どこぞの楽隊に所属していたというから、そのラッパの音は実に高らかに吹き鳴らされたものだった。そうして一日の始まりを自ずから規定するのである。早朝のラッパに文句を云う人間は誰一人としていなかった。寮の周辺に住む人々でさえも文句のつけようのないラッパの音に一日の始まりを規定されていたのである。
規定された朝は規定された朝食に繋がり、朝食は朝からの勉学へと継ぎ目なく続いていく。私は実用のために支配されることを選んだ。私が三年を過ごした寮の生徒はすべからく賢くあるべしといった風情であり、学内でも自然に地位と派閥を持つことができた。
学校は箱庭である、といつか読んだ物の本に書いてあった。まさしくその通りである、と当時私は思った。その筆者がどう思い書いた言葉かは分からない。けれども箱庭という一つの世界が顕現しているさまをラッパの音と共に刻み込んだ私にとって、その言葉は見て触れられるものと同程度の質量を持って私の心に染み込んだ。
その頃からだった。世界を創りだすことのできる人間を見つけようと努力し始めたのは。関西圏で最高峰の大学に進学したのもそのためであった。私は世界を創りだした人間への恐怖も知っているし、支配される心地よさも知っていた。ゆえに彼や彼女の創りだす世界を外縁から眺めることが一番楽しいものであることも知っている。
けれど大学で私の欲求に答えられる人間はいなかった。世界を創りだす彼や彼女は幾人もいた。だが決まって彼らは内側に篭ることを選択した。父や寮長が神のそれであるのに対し、彼らはあくまで仙人といった境地であった。他人と関わり合いを持つことに無駄を感じていたのだと思う。元来天才とはそういった類の人間に多く存在するものであることも、本能的には知っていた。だがそれでは駄目なのだ。
「洋司か」
玄関から声が聞こえた。涼やかな声だった。刹那、父が私の名を呼んだのかと思った。訃報は冗談で、里帰りしない私を呼び戻すための口実であるのかと思った。
目を上げると玄関の奥の暗がりに喪服を着た男がいた。男は闇に溶けていた。いや、闇が男に溶け込んでいるのだ。
「洋司か」
声は再び問いかけ、一歩外へ踏み出す。暗所から歩出でたのは父の似姿であった。私は息を飲み、男を見つめる。男の顔は思い出から抜けだした父の姿であった。
「そこに立っていては暑いだろう。遠くから来たんだ。さあ、早く中へ」
「兄さん」
私のつぶやきははたして本当に言葉となっただろうか。私は兄の背に招かれ屋敷へと上がった。
あと‐がき【後書】
手紙や文章・著書などの終わりに書き添える言葉。跋。
未来ではない。