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真紅の女装男子と、薄紅の初恋

作者: 立花ハル
掲載日:2026/08/27

 俺が、高校二年生の時。

 夏休みの終わりが近付いた、午前十時。彼女に呼ばれ、わざわざサンシャインシティまで行った時のことだ。そう、池袋の。

 千葉県から、総武線を丸の内線に乗り換えて。一時間かからないから、別にいい。彼女の突然のラインは、たまにあることだから、まあ行くかと。

 それで、千二百円払って、展望台に登ったんだ。繁忙期料金ってやつで、少し高い。

 千葉県とあまり変わらないビル群だと思って眺めていたら、彼女に別れを告げられた。お互いビル群をぼんやり見ながら、俺も、分かったと答えて。彼女はじゃあね、と言って、展望台を降りて行った。

 俺は入場料がもったいないから、ぐるりと一周する。けれど、三百六十度、そんなに大きな違いを感じなくて、俺もすぐに展望台を降りた。


 なんだかドライに聞こえているかもしれないけれど、少しは俺も考えたんだ。一周している間とか、展望台を降りるエレベーターの中とかで。

 俺にとっては初めての彼女で、告白は向こうからだった。高校一年生の終わりから、半年くらい付き合った。特に断る理由も無いし、見た目も可愛かったから、俺はオーケーをしたんだ。

 でも、恋愛はよく分からなかった。

 放課後、待ち合わせをして一緒に帰って、でも話題に困って。手を繋いでも、浮かれた気持ちには特にならなくて。親のいない家でキスもしたし、夏休みの初めには初体験もしたわけだけれど、感覚だけで。あ、したな、と思っただけだった。

 もちろん、可愛いとか、細いとか柔らかいとかは思ったけれど、それだけだった。

 今考えたら失礼で、申し訳ないと思っている。

 でも、彼女は彼女で、あまり顔に出ないタイプだったから、何を考えているか、よく分からなかった。十六、七の男には、少し手強かったのか、ただ俺が、恋愛に(うと)かったのか。今でもよく分からない。


 展望台を降りて、噴水広場のベンチに座って、まだ少しぼんやり考えた。別に俺も彼女も悪くないけれど、妙に後味が悪かったのだ。

 そうしているうちに、広場に若い女の子が集まって来た。みんなペンライトや、同じマークの入ったティーシャツを着ているから、アイドルのライブでもやるのかな、と、これまたぼんやり考えた。


 中学三年くらいで、国語の授業で初戀(はつこい)って詩をやったのを覚えている?島崎藤村(とうそん)だっけ。

 中学の国語が、結構好きだった。先生が若いんだけれど、なかなか面白くて。

 先生が授業の冒頭で、開口一番、生徒に質問をした。

「みなさんは、恋をしたことがありますか?」と。

 もう、中学三年生なんて、その質問だけで男も女もソワソワして。ニヤニヤと互いの顔を見合った。そうしたら、あとは先生の作戦通り。みんな、藤村(とうそん)の詩と、先生の授業に夢中になったのだ。

 俺は、特にはピンと来なくて。

 文語定型詩だとか、「おのづから」が「自然と」という意味だとか、知識はきちんと勉強した。

 あと、君の白い手とそれが持つ薄紅(うすくれない)林檎(りんご)が、色彩の対比になっているし、かなり技巧の働いた詩だとも、授業で習った。

 でも、詩に込められた心情は読み取れるけれど、共感をするわけでも、興味が()くわけなが、でもなかった。


 なぜ、いきなり藤村(とうそん)の話をしたか?

 目の前に集まった女の子たちのティーシャツに、林檎のマークがされていたからさ。俺はぼんやりと、彼女と付き合ったのは、俺の初恋だったのかと振り返ってしまったのだ。


 すると、噴水広場に爆音が響いた。女の子たちが、にわかに黄色い声を上げ始める。それも、二階からもその声が降り注ぐものだから、俺は考えに(ふけ)ることもできなくなってしまった。

 ならばせめて、そんなに女の子を熱狂させるヤツらを見てから帰ろうと、俺はステージに注目してみた。

 けれど、俺は驚いた。

 ステージに上がったのは、女の子三人組だった。

 金髪と、ピンク髪、センターは黒髪。流行りのフリフリした衣装だけれど、色は真っ黒だった。音楽もかなり激しい。アイドルにしては、ロックテイストというか。

 そして、俺は二度目の驚き、いや、衝撃を受ける。

 男だ。歌い始めたら、その声は男の声だった。

 いわゆる、女装男子だった。悪いけれど、奇妙だ。その辺の女の子よりも、遥かに色白で可愛いのに、歌声は男だ。ただ、歌は上手いと思う。

 多様性という言葉を聞くようになったけれど、こういう形もあるのだなと、不思議と気になって、俺はパフォーマンスを見てしまった。

 それに、俺はもう一つ、気になることがあった。


 ライブが終わると、広場の一角で、男が拡声器で呼びかけ始めた。

「本日はペル・アップルのライブにお越しくださり、ありがとうございます。CD一枚購入で、メンバーとの握手会に参加できます。」

 女の子たちは、声を上げて行列を作る。俺も、その行列に並んだ。男は俺以外にも、何人かいた。

 列が進み、CD一枚を購入した。ジャケット写真は修正しているだろうけれど、すぐ近くに見える本人たちは、別に見劣りしない。

 やがて、俺が握手する番が回ってきた。

 ピンク髪のメンバーが、はしゃいで言う。

「え、男の子だっ。男の子ってレアだから嬉しい。」

「そうなんだ。」

 目の前にしても、派手で赤いカラコンにちょっと違和感があるだけで、普通に可愛い女の子に見える。ただ、握った手は硬い。球技でもやっていたのだろうか。

 次に、黒髪のメンバーが微笑(ほほえ)んで言う。

「今日は、来てくれてありが」

「お前、篠原だろ。」

 目の前の女装男子が、一瞬真顔になる。そして、すぐに笑顔に戻り、首を(かし)げる。

 俺は後ろの男に引っ張られて、金髪のメンバーと握手する。会話は覚えていない。

 三人との握手を終えて、俺はステージを降り、家に帰ることにした。


 俺の頭は、もう別れた彼女を忘れていた。

 篠原だ。センターで歌って踊っていた、黒髪ロングの女装男子。あれは、同じクラスの篠原だ。

 なんだか気難しそうで、クラスでも浮いているけれど、芸能活動をしているという噂を聞いたことがあった。確かに、遅刻や早退が多い印象だ。

 学年の女子たちは遠巻きに篠原を見に来て、コソコソとその活動情報を探していた。けれど、見つからないと言う。

 篠原(けい)。本名で活動していないのかと、女子たちは名前をアルファベットにしたり、苗字を篠田にしたり、あの手この手で情報を探した。それでも、篠原は見つからない。今時、SNSをやっていない芸能人なんているのかと、まだ売れていない原石なんだと、女子たちがヤイヤイ騒ぐのを男子は呆れて眺めていた。

 見つかるはずがない。本人は女装をしていて、活動名はアリムだった。

 俺は帰りの電車や、家に帰ってから、それに、夏休みが終わるまで、篠原のことを考えた。

 真っ赤な口紅と、白くて細い指の感触が、妙に頭から離れない。


 夏休みが終わって、高校へ行く。クーラーと二度寝に慣れた体が重くて、気だるい気持ちで登校する。

 教室に入り、友達三人と軽く挨拶をする。友達と言っても、夏休みの始めに映画を一回観に行ったくらいの、浅い仲だ。

「涼太、お前、(れい)ちゃんとはどうよ?」

 友達の一人が耳打ちしてきた。他の二人も、興味深そうに俺を見ている。

「それがさ…、フラれちったあ。」

 俺がわざとらしく笑って言うと、三人は驚いた。

「なんでだよ、夏休み前、何も無かったじゃん。」

「さあ、理由は聞いてないけど。」

「もったいな。玲ちゃん、可愛いのに。」

「ちなみにさ。」

 また、耳打ちされる。

「ぶっちゃけ、どこまで進んでた?」

 男たち三人が、ギラギラとした目を向けている。

 俺は目を()らして答える。

「なにも。」

「はあ?お前さあ、もっとこうさあ…。」

「男らしくねえな。」

 別に、あった事を話しても、何がどうなるわけではない。俺は嘘をついたが、後ろめたさも無い。

 ただ、一応は付き合った相手が、そういう目で見られるのに抵抗しただけだ。


 そんな話をしていると、教室の女子の視線が動いた。篠原だ。篠原が入って来て、後ろのほうの席に着いた。

 篠原は教室を、スーッと視線を動かして観察した。そして、俺と目が合う。

 すると、厚い前髪に隠れた眉毛が動く。眉根を寄せて、明らかに怒って見えた。

 しかし、すぐに荷物を整理して、スマホをいじり始める。篠原はそうして、話しかけるなオーラを(まと)うのだ。こうして見ると腕に筋もあるし、喉仏もあるし、ちゃんと男に見える。

「あーあ、俺もあのくらい顔が良ければなあ。」

「彼女ほしー。」

 友達がグチグチと話しているが、俺は気にせずに、篠原の黒目がちな瞳をジッと見ていた。


 そんな九月の頭、ある日突然、篠原が声をかけてきた。昼休みの始まりの時だ。

「ちょっと来てもらえる。」

 もらえる?ではなく、もらえる。だ。質問ではなく、強制する口振りだ。友達は目を丸くして、女子たちは不審がるか、興味深そうな様子だった。


 篠原に着いて、食堂の隅に座る。お互いに朝、コンビニで買ったパンやおにぎりを食べる。

「名前、なんていうの?」

「え、俺?澤田。」

「澤田くんか。」

「一応クラスメイトなのに、知らなかったのかよ。」

「俺、クラスに馴染(なじ)んでないし。」

 自覚あったんだ、と思いながら、パンを小さく食べる口元を見る。なんだか、ハムスターみたいだ。

「澤田くんさ、池袋で握手したでしょ。」

「ああ、触れていいの?」

「やめてほしい。俺たち、ミステリアスなイメージを大切にしてるから。」

「あー…、悪かったよ。だから、ホームページに誕生日とかも載ってないんだ。」

 俺がそう、うっかり口を滑らせると、篠原は明らかに一瞬、俺を睨んだ。しかし、すぐに無表情に、視線を逸らす。

「ファンなの?」

「いや、知ってるヤツが、あんなことしてたら気になるだろ。」

「あんなこと、ね。」

「ごめんて。」

「誰にも言ってないよね?」

「言ってない。」

「藤岡さんにも?」

「なんで、玲が出てくるんだよ。」

 俺は驚いて、おにぎりが喉に詰まりそうになった。

「一年の時、同じクラスだったから。澤田くん、藤岡さんと付き合ってるでしょ。」

「いや、別れたけど。」

 すると篠原の大きな目が、さらに大きく丸くなって言う。

「それは、ごめん。」

「いや、特になんとも無いし。」

「ふうん。じゃあ、恋じゃなかったんだ。」

 その言葉に、俺はおにぎりを食べる手を止める。そして、沈黙してしまう。

「どうしたの?」

「篠原、恋って何?」

 篠原はパンをかじりながら、俺を見る。

「澤田くん、中学生?」

「いや、わりと切実に考えている、かもしれない。篠原は、好きなヤツとかいる?」

「アイドルにそれ聞く?」

 あ、そう言えば、アイドルか。目の前で明太フランスパンを食べている男と、あのアリムというアイドルが結び付かなくて、忘れていた。

「澤田くんは、藤岡さんの何が良くてオーケーしたの?」

「…特には、分からない。見た目は好みだったけど。いや、篠原、なんで玲から告白したって知ってるんだよ。」

「俺と藤岡さん、仲いいんだ。俺の、学校で唯一の友達。インスタも繋がってる。」

「ああ、あの更新少ないインスタね。ていうか、アイドルってインスタやってもいいの?」

「事務所には内緒の、鍵付きの裏アカ。」

「それ、意味あるのかよ。」

「あるよ。こっそり、推しや美容アカをフォローしたり、好きなコスメ載せたりしてる。愚痴とかは(つぶや)かない。」

 俺は男のくせに、と思ってしまったが、たぶんそれは、今時見当違いの考えなのだろう。

「もったいないね、澤田くん。藤岡さん、SNSでチャラチャラと君のこと載せない、奥ゆかしいいい子なのに。」

「いい子なのは分かってるけど。」

「けど?」

「…好き、は、分からない。」

 俺がそう呟くと、篠原がパンの袋をたたむ音が聞こえた。

「澤田くん。また話そうよ。」

「え。」

「このままだと、藤岡さんが可哀想だから。」

 篠原がそう言うと、予鈴(よれい)が鳴ってしまった。俺は最後の言葉が意味深で、ほんの数秒動けずに、ヤツの後ろ姿を見送る。しかし、篠原がハンカチを出した時、ポケットから何か落ちた。

 俺はそれを追いかけて、拾い上げる。

 ピンク色で、細長い容器の化粧品だ。小さい字でいろいろ書いてあるが、呪文のようでよく分からない。


 その日の夜、篠原が所属するグループのインスタが更新された。それは、「自分の好きなパーツ」とだけ書かれて、三人の写真が載った投稿だ。

 篠原、いや、アリムは、「唇」と写真に書いていた。俺の脳裏にまだ残っている真っ赤な唇が、白い肌に映えていた。


 週が明けて、俺はまだ気だるく登校していた。昇降口で、遠目に玲を見かけた。

 篠原は唯一の友達と言っていたが、考えてみれば、玲も友達がいない。美人の優等生、高嶺(たかね)の花。彼女も彼女で、孤高の存在なのだ。

 玲の唇は少し厚く、口角が下がっている。篠原とは反対だと思った。


 昼休み、遅刻してやって来た篠原に、また誘われた。友達は怪しそうに見て来たが、俺たちはまた、食堂の隅へと行った。


「なあ、これ。」

 俺は、篠原が落とした化粧品をテーブルに置いた。

「ああ、探してたんだ。ありがとう。」

「それ、篠原が使うの?」

「違うよ。」

 そう言って篠原は、少し上目遣い気味に続ける。

「澤田くん。本当に藤岡さんに興味なかったんだね。」

 それは、冷たい声色だった。軽蔑するような、突き放すような言い方だが、俺は反論しなかった。なぜなら、確かに俺は、玲に大した興味が無かったからだ。別れてから、その自覚が増している。

「彼女ね、たぶんブルベ夏。」

「ぶ、ブル?」

「俺は、ブルベ冬。だからこのグロス、俺には似合わないよ。」

「それって、どこにつけるの?」

「唇だよ。」

 唇。そう言葉にする篠原の唇を、俺はジッと見つめてしまった。

「確かに、篠原は真っ赤なヤツつけてるもんな。」

「この前の投稿、見たの?」

 篠原が、苦いものを食べたような、嫌そうな顔をする。

「…篠原は、好きで化粧してるの?」

「そうだよ。俺、母子家庭で歳の離れた姉が三人だから、化粧するって普通のことだと思ってた。」

 なるほど。俺は兄弟というと、弟しかいない。育った環境が違えば、価値観も変わるよな、と思い、俺はふうんとだけ言った。

「藤岡さんとも、化粧品きっかけで仲良くなったんだ。彼女、いろいろ持ってるよ。」

「え、そうなの?」

「澤田くんさあ…。休みの日に会う時とか、気付かなかったの?」

 篠原が呆れたように言う。しかし、もう休日の玲の顔なんて、思い出せない。

「化粧ってさ、自信や勇気をくれる魔法なんだよ。」

「魔法?」

「そう。俺はオーディションとかライブ前に化粧をして、自分を勇気づける。自分なら、絶対大丈夫って。」

「へえ、あんなに堂々としていて、自信たっぷりに見えたのに。」

「そう見えたなら、俺はプロってことだね。」

 そう言って、篠原の薄い唇が微笑む。

「俺はね、藤岡さんに魔法をかけたんだ。」

 俺は、頬杖(ほおづえ)をつく篠原の微笑みや、意味深な言葉選びのせいで、その顔から目を離せなくなっていた。

「移動教室で迷って、困っていたところに声をかけてくれた男の子が気になる。けれど、クラスは違うし、自分からは声をかけられないって。」

 俺は篠原を見つめながら、去年のことを思い出す。確かに俺は一年生の春、理科室が分からない玲に、場所を教えていた。

「藤岡さんなら大丈夫だよって何度言っても、でもでもって躊躇(ちゅうちょ)してさ。」

 そんな玲の一面、俺は知らない。玲はいつもクールで、何を考えているか分からなかった。

「それで、俺はこの魔法をあげたんだ。」

 篠原は、ピンク色のグロスを手に持った。

「姉ちゃんからもらったけど、俺には似合わなかった、薄紅(うすくれない)。思った通り、藤岡さんにピッタリだった。それに、塗ったのを鏡で見た瞬間の彼女の笑顔は、それまでで一番可愛かったんだ。」

 薄紅(うすくれない)。初戀の詩で、島崎藤村(とうそん)は林檎の色を、そう表現した。まだ秋の始めで、赤く染まり始めたばかりの薄紅の林檎。それは、主人公に恋の始まりを予感させた色だったはずだ。

 玲は、俺に恋をしてくれたのか。どんな思いで、告白をしてくれたのだろう。どんな思いで春と夏を過ごし、別れに行き着いたのだろう。

 俺は自分の記憶力を悔やむ。告白をしてくれた時の、玲の様子を思い出せないのだ。

「でもさ。」

 篠原の静かな声が、俺の思考を(さえぎ)った。

「夏休みが終わって、俺の下駄箱にこのグロスが置いてあったから、何かあったんだろうなって思った。」

 そう。たぶん、玲のなかで、恋が終わったのだ。理科室の場所を少し教えただけの平凡な俺に、玲は釣り合わなかったのだ。

「篠原は、なんでその話を俺に?」

「最初は、俺の活動を言いふらさないよう釘を刺すだけのつもりだった。けど。」

 篠原は、俺から視線を外して言う。

「藤岡さんの好きになった人が、なんかお子様に見えてさ。」

 そう言うと、篠原は席を立った。

「俺は言いたいことを言えて、スッキリしたよ。澤田くんは、教室戻る?」

「いや、もう少しここにいる。」

 分かった、と言って、篠原は食堂を出た。


 いろいろ考えようと思ったが、考えの整理がつかない。そもそも、玲のことや恋について考えられるほど、俺には経験値も材料も無い。

 篠原の言う通り、俺はお子様なのだ。

 なんだか、あと一つのおにぎりに手をつけられず、俺は教室へ戻ることにした。


 こういう時、タイミングは悪いものだ。

 通りがかった女子トイレから、玲が出て来たのだ。別れた日以来、俺たちは会話も連絡も、目線を合わせることすらしてこなかった。

 玲が、静かに立ち去る。

「玲。」

 気付いたら、声をかけてしまっていた。玲が振り返る。

 俺は、その先を躊躇(ためら)ってしまった。

 玲は、こんなに綺麗だっただろうか。少し驚いて油断した顔が、俺の記憶より幼く見えた。しかし、陽射(ひざ)しを受けた長い髪が、振り向き様に揺れて、ストンと落ちるのは大人っぽい。肌は透明感があって、学校指定の水色のシャツが、本人九 へいり似合っている。

「涼太くん?」

 鈴のような声が、俺を呼ぶ。少し茶色がかった瞳が、妙に懐かしい。

 俺は何の言葉も用意していなかった。

 けれど、頭よりも先に心が動いた。

「玲、今までありがとう。」

 声に出したそれは、自分でも情けなく聞こえた。

「私も、ありがとう。涼太くん。」

 玲が目を細めて、優しく微笑む。


 たぶん、俺はこれが、この瞬間が、初恋だった。

 恋に落ちた瞬間だった。

 篠原が言う「お子様」でなければ、俺は玲と向き合えたのかもしれない。彼女が勇気を振り絞るために塗った、薄紅(うすくれない)に気付けたのかもしれない。

 玲は、ずっと俺の記憶に存在することになる。けれどそれは、少しの後悔と、それを上回る甘さと優しさで、年々美しさを増していく初恋の思い出だ。

 

 篠原は、冬を迎える頃に転校した。担任から俺たちへは事後報告だったが、生徒たちは予感をしていた。

 篠原が所属するグループの動画が、SNSで、いわゆるバズりという現象を起こしていたからだ。それはライブ映像だが、撮影禁止のはずのイベントを隠し撮りしたものが、拡散されてしまったのだ。

 ヤツも、遠くの存在となってしまった。ヤツの場合は、テレビやスマホでいつでも目にできるが、俺の知る篠原とは違う。

 篠原は、甘い顔をしながら、気が強くて言葉が厳しい。なんだか、甘酸っぱい林檎のようなヤツだった。

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