第2話:漆黒の馬車と、皇帝陛下の過保護すぎる誓い
意識の底から浮き上がる瞬間、セレスティーヌが感じたのは、これまでの人生で一度も触れたことのない「柔らかさ」だった。
(……温かい。ここは、天国かしら……?)
重い瞼をゆっくりと持ち上げる。
視界に飛び込んできたのは、アステリア帝国の王宮にあるような、けばけばしい金細工の天井ではない。
夜の闇を切り取って磨き上げたような、深く艶やかな黒檀の天蓋。そこに、細氷のように繊細な銀糸の刺繍が施されている。
身を横たえているのは、雲のように柔らかな絹の寝具。微かに香るのは、冷たくも芳しい、雪解けの森のような清涼な香り——。
「……目覚めたか。私の至宝」
鼓膜を震わせる、深く、低い声。
驚いて視線を巡らせると、すぐ傍らに「彼」がいた。
漆黒の軍服の第一ボタンを外し、椅子に深く腰掛けたアルスター・ヴァン・クロムウェル。
北の帝国の若き皇帝は、一睡もしていないのであろうか。その蒼氷の瞳は、セレスティーヌを射抜くように見つめ、一瞬たりとも逸らそうとしない。
「……あ、陛下……。私は……」
「喋らなくていい。まだ熱がある」
アルスターが身を乗り出し、その大きな手がセレスティーヌの額に触れる。
あまりの熱心な視線に、セレスティーヌの白い頬が、病のせいではない赤みを帯びた。
彼の手は驚くほど優しく、まるで壊れやすい硝子細工に触れるかのような、細心の注意が払われている。
「ひどい雨だった。君を見つけた時、君の心臓は今にも止まりそうだったんだ。……あのまま、誰にも見つからずに消えてしまうつもりだったのか?」
「それは……。私は、もうどこにも行く場所がありませんでしたから……」
セレスティーヌが俯き、震える声で答える。
すると、アルスターの瞳に昏い焔が灯った。それは怒りではなく、狂おしいほどの独占欲を孕んだ熱情。
「場所ならある。ここだ。……私の、腕の中だ」
彼はセレスティーヌの手を引き寄せると、その指先に、誓いを立てる騎士のように唇を落とした。
熱い。吐息が触れた場所から、痺れるような感覚が全身に広がる。
「アステリアのエドワードは、君を『無能』と呼び、泥の中に捨てた。……愚かすぎて笑いも出ないな。君が、私を何十年も苦しめていた呪いの痛み(死の魔力)を、触れただけで一瞬にして消し去ったことも知らずに」
「……え?」
「君の力は『無能』などではない。崩壊を食い止め、あるべき姿に固定する……この世で最も神に近い、修復の概念だ」
アルスターは、セレスティーヌを抱きしめたい衝動を必死に抑え込んでいるようだった。
彼の周囲には、常に制御不能なほど強大な魔力が渦巻いている。誰も近づけない「死の皇帝」。
だが、セレスティーヌが傍にいるだけで、その荒れ狂う魔力は、凪いだ湖面のように静まり返るのだ。
その時、寝室の重厚な扉が静かに開かれた。
「陛下。薬湯と、セレスティーヌ様のためにお作りしたドレス一式を持ってまいりました」
現れたのは、モノクルをかけた凛々しい女性。女官長のヒルダだ。
彼女はセレスティーヌを一目見るなり、そのあまりの美しさと、彼女の周囲に漂う清冽な魔力の香りに、息を呑んだ。
(……なんてこと。この方が、あの腐敗した旧国で虐げられていたというの? この、世界の奇跡そのもののような美しき方が……!)
ヒルダの心臓は、今までにない高鳴りを見せていた。
有能すぎて、これまでの人生で誰かを「推す」などという感情を知らなかった鉄の女官長が、初めて膝を折り、心の底から忠誠を誓いたくなる存在に出会ってしまったのだ。
「セレスティーヌ様。私は女官長のヒルダと申します。……陛下から『何があってもこの御方を世界一の幸福に浸らせろ。さもなくば国を畳む』との厳命を受けております。何なりとお申し付けくださいませ」
「えっ、国を畳む……!? い、いえ、そのような、大げさな……っ」
「大げさではない。君を泣かせるような世界なら、私には必要ないのだ」
アルスターが真顔で言い切る。その瞳は本気だ。
セレスティーヌは、あまりの急展開に戸惑いながらも、自分を包み込む「全肯定」の温度に、凍てついた心が少しずつ解けていくのを感じた。
「さあ、まずはその汚れたドレスを着替えよう。……ヒルダ、私が選んだ最高級のものを」
「はっ。こちらの、セレスティーヌ様の瞳と同じ『紫の雫』をご用意しております。大陸で最も希少な絹で織り上げた、光の衣でございます」
差し出されたドレスは、ため息が出るほど美しかった。
アステリアでの自分は、いつも妹の残り物か、数年前の古い布を纏っていた。
今、目の前にあるのは、一国の予算にも匹敵するような、輝きを放つドレス。
「私が……こんな、綺麗なものを着てもいいのでしょうか……?」
「いいも悪いもない。君に相応しいのは、世界で最も美しいものだけだ。……いいか、セレスティーヌ。これからは、誰も君を傷つけない。君を捨てた者たちは、やがて地を這い、自分たちの愚かさを呪うことになるだろう。だが……」
アルスターは再び彼女の手を握り、独占欲の滲む瞳で囁いた。
「君は、そんなゴミ屑のことは忘れて、私の愛だけを食べて生きていればいい。……逃がさないぞ。君を拾ったのは、私だ」
その重い、あまりに重い愛の誓いに。
セレスティーヌは、初めて「捨てられたこと」への悲しみを忘れ、この漆黒の帝国の腕の中で、甘やかな安らぎを感じ始めたのだった。
お読みいただき、ありがとうございます。
ついに陛下による「超過保護モード」がスタートいたしました。
「国を畳む」と平然と言ってのけるアルスター陛下、これぞ溺愛ヒーローの鏡ですわね。
そして、鉄の女官長ヒルダも、心の中ではセレスティーヌ様のファンクラブ会長に就任しそうな勢いです。
一方、セレスティーヌを捨てた旧国アステリアでは、彼女がいなくなったことで
「小さな、しかし致命的な崩壊」が始まろうとしています……。
「陛下、もっと甘やかして!」「旧国の絶望が見たい!」と思われましたら、
ぜひ【ブックマーク】や【評価】をいただけますと幸いです。
皆様の熱い応援が、この物語をさらに輝かせる宝石となりますわ。
次話、ついにセレスティーヌが「無自覚な奇跡」を宮殿で披露し、国中が彼女を拝むことになります。
どうぞお楽しみに!




