第1話 「落ちこぼれ魔術師の朝」
朝の王都は、霊脈の鼓動に合わせて微かに空気が震える。
──のだが、それを感じ取れるのは、この都市でごくわずかだ。
リリア・ヴェイグは、また今日もその“わずか”の一人として、通学路の途中で立ち止まっていた。
胸の奥に、小さな糸をぐっと引かれるような感覚。世界の底で誰かが囁いているような、あの不快なざわめきが身体の芯を揺らす。
(……うう。朝からこれって、絶対ろくな日にならないじゃん)
風に揺れる濃紺の学院マントを押さえながら、リリアは急ぎ足で技術学院ラベリウムの門をくぐった。校舎には、魔導計算板の起動音や、魔力式発動の試験音が響いている。
霊脈強度を数値化する巨大観測塔が校舎の中央にそびえ立ち、その金属フレームが太陽を反射してきらりと光る。それは、この学院が“技術派の象徴”である証でもあった。
(こんな場所で落ちこぼれるとか、ほんと、救いがない……)
ぼやきつつ教室へ入ると、すでに授業は始まっていた。
「ヴェイグ。遅刻二回でレポート倍増だぞ」
「ひっ、ごめんなさい教授!」
講壇に立つのはディアン教授。霊脈観測の第一人者と噂される人物で、常に難しそうな数式を背後の魔力板に描き続けている。
「では続きを。計算式魔術は“霊脈からの受信効率”を高める技術だ。才能より計算。感覚より論理。覚えておけ」
その言葉に、リリアは肩をすくめた。
“感覚”が強すぎて苦しんでいる自分には、皮肉のように聞こえる。
「じゃあ次。リリア、ここの式、言ってみて」
教授の指が示したのは、初歩的な魔力流束変動式。
簡単……のはずだった。
「あっ……えっと……ひ、ひずみ定数は……た、確か……」
霊脈のざわめきがまた強くなり、頭の奥で音が軋む。集中しようとするほど、視界の端が白んでいく。
次の瞬間、魔力板がぱんっと小さく爆ぜた。
「うわっ!?」「またアイツだよ……」
「……あれ? お、おかしいな……?」
教室の視線が一斉に刺さる。
リリアは肩を縮め、耳まで赤くした。
「ヴェイグ。お前は優秀とは言えんが、こんな簡単な式で暴発するのは理解できん。後で研究室に来い。検査をする」
「う、うう……はい……」
そのとき。
「ねえリリア。あんた、今日も霊脈に酔ってる顔してるよ」
教室の後ろからぼそっと声が落ちた。
振り返ると、銀灰の髪に眠そうな猫目――セラ・アークライトが座っていた。
「だ、大丈夫……多分」
「多分じゃないよ。あんたさ、顔色が“計算式魔術の試験前”みたいに死んでる」
「ひ、人を試験の犠牲者みたいに……」
「だってそう見えるから言ってるだけ」
淡々とした辛辣な言葉。でも、セラの視線だけはどこか優しい。
リリアが何か言い返そうとしたそのとき、セラは小さく息を吐いて囁いた。
「……今年の霊脈、やっぱり変だよ。私でも分かるくらいには」
その一言に、リリアの心臓が跳ねた。
(やっぱり……私の気のせいじゃない)
けれど答える暇もなく、教授が再び授業に戻る。そのまま午前の講義は慌ただしく過ぎていった。
***
授業後、校舎の外へ出ると、強い光に目がくらむ。
王都は今日も活気に満ちている――が、よく見ると違和感があった。
宗教派の巫士たちが、白と金の衣を揺らして街を早足に移動している。普段は落ち着き払っている彼らが、どこか焦っているように見えた。
「もうすぐ大精霊祭だしね。そりゃピリピリもするでしょ」
隣にいつの間にか立っていたセラがぼそっと言う。
「……セラ先輩、さっきの“霊脈が変”って話」
「ん? ああ。まあ、気のせいかもしれないけどね」
セラは無表情のまま、油で黒くなった指先で髪を耳にかけた。
「でもあんたは気のせいじゃないんでしょ? 顔に書いてあるよ。『世界がヘンな音してる』って」
「……うん。たまに、すごく、嫌なざわざわがする」
「そう。だったら――無理しないでよ」
セラはそう言って歩き出す。
その声音には、彼女らしくない柔らかさがあった。
リリアは胸に触れた。
霊脈のざわめきは、さっきよりも少し強い。
(祭りのせい……? でも、それだけじゃない気がする)
大精霊祭まで、あと十日。
王都が祝祭に向けて浮かれ始める中、リリアの世界だけが少しずつひび割れていくようだった。




