6・ログイン
自室の椅子に深く腰掛け、パソコンの電源ボタンを押す。
ファンの回転音が静かに高鳴り、モニターが鮮やかな色彩を吐き出した。
デスクトップの中央に鎮座する、剣と杖が交差したアイコン――「プログラムモンスターズオンライン」、通称「PMO」。
マウスのカーソルを合わせ、ダブルクリック。
IDとパスワードを入力した後、スマートフォンのアプリに表示された、刻一刻と数字が変わる「ワンタイムパスワード」を手早く打ち込む。この六桁の数字を正しく入力した瞬間にだけ、日常という名の重力から解き放たれる許可が下りるのだ。
ロード画面が走る数秒間、信也は目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をした。
数学の教科書の重みも、江ノ電の蒸し暑い空気も、ついさっき脱衣所の前で繰り広げられた妹との不快な口論も、すべてはここで脱ぎ捨てるべき「ノイズ」だ。
目を開けたとき、視界には荘厳なオーケストラのBGMと共に、光り輝くログインゲートが広がっていた。
意識がデジタルな光の濁流に飲み込まれ、次の瞬間、視界は抜けるような青空と、白亜の石造りが美しいギルドホームのテラスへと切り替わった。
画面中央に立つのは、背中に黄金の杖を背負った青年。飾りっ気のない、けれど機能美に優れた緑のローブに身を包んでいるヒーラー。それが信也の分身、「ナガ」だ。
ログインした瞬間に、画面右下のチャット欄が激しく明滅した。
『プロっス! ナガ君、おかえりなさい!』
真っ先に飛んできたのは、桜色の花びらが舞うエフェクトと共に放たれた、イチのチャットだった。
ちなみにこの「プロっス!」という挨拶は、ゲームタイトルである「プログラム」と「押忍」を掛け合わせた、この世界独自の定番の合図だ。
画面上のイチが、ナガに駆け寄ってぴょんぴょんと飛び跳ねる。
彼女のアバターは、信也の質素なローブとは対照的に、華やかな「ドレスアーマー」を纏った女戦士だ。
サイドテールをなびかせ、紅蓮を思わす情熱的な赤の甲冑とフリルのついたスカートが組み合わさったその姿。まるで高貴な姫君のような可憐さと、戦場を駆ける女騎士の凛々しさが絶妙に混ざり合っている。
(……いつ見ても可愛いなあ。このデザインセンスも、俺がイチの好きなところの一つなんだよなあ)
信也は心の中で、彼女のセンスに改めて深く感じ入っていた。
「プロっス! ただいま、イチ。今日も一番乗りだね。さすが僕の可愛いお嫁さんだ」
学校での、あの不愛想な「織田信也」はもうどこにもいない。
ナガの言葉は、まるで物語の騎士のように甘く、淀みがない。
『えへへ、ナガ君に早く会いたくて、さっきから待ってたんだよ!』
その隣では、メイド服を纏った金髪の美少年キャラクター――ハルが、あざとく「萌え萌えキュン」のポーズを連発していた。
おそらく中の人である風火が、新しいモーションを試したり、お気に入りの「ハル君コレクション」のスクリーンショットを増やしたりしていたのだろう。ナガの姿を認めると、ハルはやれやれと言わんばかりの吹き出しを出した。
『プロっス。はいはい、ごちそうさま。ログイン一秒でこれって、ナガ、リアルの疲れをネトゲで発散しすぎだよ』
「ハルこそ、先に帰ってから随分満喫してるみたいじゃないか。お前が直帰してスクリーンショット撮影に励んでる間、こっちは掃除当番でこき使われてたんだぞ」
『あはは、そうだっけ。ごめんごめん。でも夕飯までの貴重な自由時間なんだから、有効活用しないと損でしょ。……というか、イチもイチだよ。ナガが来た途端にオーラの色まで変わってない?』
さらにその少し離れた場所、テラスの端で一言『プロっス』と発してから、微動だにせず佇んでいるキャラクターがいた。
純白のくノ一装束を身に纏い、一切の感情を表に出さない無機質な雰囲気を漂わせている。それがギルドの軍師であり、サポーターのアヤだ。
彼女とイチは現実世界でも親友同士であり、その縁もあって二年前のギルド結成時から苦楽を共にしてきた仲だ。
ついでに、このギルドの結成時の話をしよう。きっかけは、全員がリアルの名前に戦国武将が関わっているらしい、という話だったのだ。
信也の本名は「織田」だから、織田信長の『ナガ』。
武田風火は、武田信玄の幼名・晴信から『ハル』。
イチとアヤの二人に関しては、今も本名は知らない。
ただ、どちらも本名から戦国武将に関連づけて命名したことは聞いている。
信長の妹・お市の方から取った『イチ』。
上杉謙信の姉である綾御前から取った『アヤ』。
「全員、リアルの名前に戦国武将が関わってるなんて運命じゃん!」と盛り上がってギルド『戦国』を結成したのだ。
ところで、歴史上では、信長にとってのお市は最愛の妹でもある。
(……ああ、本当に可愛いなあ、イチは)
鮮やかな赤のドレスアーマー姿で一生懸命に自分の帰りを喜んでくれているイチ。
歴史上の関係性も相まって、彼女は信也にとって「理想の嫁」であると同時に、「理想の妹」のような存在でもあった。
風呂上がりで「見るな変態」と罵ってくる、デリカシーの欠片もない実物の妹とは大違いだ。
正直、できることなら、今すぐあっちの「人生の罰ゲーム」みたいな実妹と、このイチを取り替えたいとすら思う。
さらに言えば、ナガとイチがゲーム内結婚をしてから、まだちょうど一ヶ月。
何をしても、何を言ってもお互いが可愛くて仕方がない、まさに「新婚」という言葉が相応しい一番幸せな時期なのだ。
「……まあいい。ハル、飲み物でも取ってこい。今日のボス戦は長くなるぞ」
『あ、そうだね。冷たい炭酸でも用意してくるわ。5分、離席するね!』
ハルのキャラの上に「離席中」のアイコンが灯る。
イチがナガの隣にぴったりとキャラクターを寄せた。
『ナガ君、あのね、今日ね……』
ここからが、信也にとっての「真の始業時間」だった。




