4・掃除当番
「……以上で、今日の授業を終わります」
教壇に立つ教師の、無機質な終業の号令。それが、信也にとってはこの上ない救いの鐘に聞こえた。
だが、その瞬間に椅子から崩れ落ちそうになったのは、単なる怠惰ゆえではない。
一時間目の数学の時間は地獄だった。イチに「ナガ君は勉強もできるんだ」と思われたい一心で、慣れない演習問題に全力投球した結果、その後の信也の脳内はオーバーヒート寸前のゲーミングパソコンのように熱を持ち続けたのだ。
(……やりすぎた。頭が割れそうだ)
こめかみを指で押さえ、深く溜息をつく。
付け焼き刃の集中力は、あっという間に切れた。午後の英語や現代文は、もはや呪文を聞いているのと変わらなかった。イチに良い格好を見せようとした代償は、予想以上に重くのしかかっている。
「織田、お疲れ。なんか顔色悪くない?」
隣の席でカバンを肩にかけながら、風火が声をかけてきた。眼鏡の奥の瞳は、心配というよりは半分面白がっているような、友人らしい温度感だ。
「……ああ。死ぬほど疲れた」
「あはは、知恵熱出しそうな顔してるもんね。じゃ、私は先に上がるよ。織田は頑張ってね」
「頑張ってね、って、何をだ?ボス戦の話ならお前も頑張れよ」
「え?掃除当番の事だけど」
風火のさりげない一言に、信也はピタリと動きを止めた。
……掃除当番?
「……え、なんでそんな、この世の終わりみたいな顔してんの?」
「……今、知った。俺、今日当番なのか」
信也が絶望の色を浮かべて黒板の端を指差すと、風火は「あーあ……」と少しだけ気の毒そうに肩をすくめた。
「どんまい。じゃ、私は一足先に湘南の風を浴びてくるよ」
風火は軽く手を振り、教室を後にした。
信也もすぐにその後を追いたかった。今すぐ駅へ走り、潮風を浴びて、家の自室という聖域に逃げ込みたい。
しかし、非情な現実はそれを許さなかった。
信也は重い腰を上げ、掃除用具入れから古びた箒を取り出した。
ガサガサと床を撫でる箒の音だけが、放課後の教室に虚しく響く。
ふと窓の外を見れば、校舎から出てくる市香の後ろ姿が見えた。見覚えのない、長い黒髪をなびかせた長身の少女と並んで、何気ないお喋りに花を咲かせながら校門へと消えていく。
(……あの子、結構可愛いしスタイルもいいな……)
無意識にそう思った直後、信也は激しく首を振った。
いやいや、俺にはイチという最高の嫁がいる。三次元の、それも妹の友人らしき女子に鼻の下を伸ばしている暇など一秒もないのだ。今日の彼女は、兄と違って掃除当番ではないらしい。ただそれだけの事実に、今の信也はひどく羨ましさを感じた。
(……早く、ログインしたい)
その思いだけが、今の信也を動かす唯一の燃料だった。
「懲役十五分」とでも呼びたくなるような掃除を終え、誰もいなくなった教室に鍵をかける。
信也は駆け出すような勢いで校舎を飛び出し、駅へと急いだ。
ホームへ滑り込んできた江ノ電は、下校ラッシュを少し過ぎており、適度に空いていた。
ドアの近くに立ち、流れていく夕暮れの海を眺める。
疲れはピークに達していたが、その分、ログインした瞬間のカタルシスは大きいはずだ。
待ってろよ、イチ。
信也は、潮の香りが混じる風を受けながら、一刻も早い「帰宅」を願って目を閉じた。




