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3・イチ

 昇降口を抜け、上履きに履き替える。


 コンクリートの床に響く大勢の生徒たちの足音と、新学期特有の浮ついた話し声が、高い天井に反響して不快なノイズとなって耳を打つ。信也は風火と並んで、二階の教室へと続く階段を登り始めた。


「……ねえ、織田」


 風火が周囲に悟られないよう、少しだけ声を潜めて言った。眼鏡の奥の瞳が、どこか呆れたような、それでいて楽しそうな光を宿している。


「昨日のさ、ログアウト間際のイチちゃんのチャット、覚えてる? 『明日も頑張ろうね、ナガ君』ってやつ。あれ、動画で見返したら、イチちゃん、キャラをごしごしって照れさせてるんだよね。……凄いね?」


 信也は、心臓の奥が跳ねるような感覚を覚えた。脳内で、イチの可憐な仕草が鮮明に再生される。


 思い出すだけで頬の筋肉が緩みそうになるのを必死に抑え、素っ気ない顔を保つ。


「……ああ。覚えてる。あいつは、そういうところがあるからな」


「そういうところ、って! 正直ね、織田。あれだけお互いが好き好きオーラを四方八方に出してると、ぶっちゃけ横で見てるこっちは、当てられすぎてちょっと戦いにくいんだからね? まあ、私もゲーム内に自分が実体としていたら、同じようなことをハル君にやりかねないけどさ……というか、絶対やる自信あるわ」


「……お前の場合は実質独り言になるから、結構ヤバいな」


 教室の入り口に辿り着き、二人はそれぞれの席へと向かう。


 信也は自分の席にカバンを置き、椅子に深く腰掛けた。窓からは、朝陽を反射して銀色に輝く海が遠くに見える。


 ふと、信也はイチのことを考えた。


 ギルド「戦国」のメンバーは、実は全員がこの春から高校生になったばかりだ。二月頃、高校受験のために全員がパタリとログインしなくなった時期があった。あの「受験休み」を経て、合格発表の夜に再集結した時の喜びは、今でも鮮明に覚えている。


(イチも、今頃どこかの高校で、こうして授業を受けてるんだよな……)


 そう思うと、不思議な連帯感が湧いてくる。


 廊下を歩く市香や、その友人たちの現実は何の興味も惹かない。けれど、イチが今この瞬間、自分と同じように退屈な教科書を広げ、慣れない高校生活に奮闘しているかもしれないと思うと、胸の奥が少しだけ熱くなった。


(……あいつに、ナガ君は勉強もできるんだって思われたくなってきたな)


 いつもなら机に伏して寝てしまう始業前の十五分間。


 信也は柄にもなく、カバンから数学の教科書を取り出した。


 昨日解けなかった演習問題を眺めてみる。イチも今、似たような数式に頭を悩ませているのだろうか。そう思うだけで、白黒の数字の羅列が、ほんの少しだけ意味のあるものに見えてきた。


「……よし」


 誰にも聞こえないほどの小声で呟き、シャーペンを走らせる。


 その背中を、後ろの席に座った風火が「え、織田が勉強してる……? 天変地異?」と言いたげな、驚愕の目で見つめていたが、今の信也には関係なかった。


 すべては、夜の闇が降り、完璧な「仮面」を被って彼女に再会できる瞬間のために。


 理想の旦那様であるために、彼は退屈な現実の時間を、少しだけ前向きに削り始めた。

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