25・変わらない愛
パソコンの冷却ファンが静かに唸りを上げ、青白い光が信也の顔を照らし出す。
先ほどまで肌に張り付いていた不快な汗の感覚も、脱衣所の前で火花を散らした険悪な空気も、モニターから溢れ出す極彩色の光が強引に押し流していく。
ログイン画面を抜けた先、「プログラムモンスターズオンライン(PMO)」の広大なエントランス。そこは、織田信也という「冴えない兄」が消滅し、ナガという「一人の男」として再定義される聖域だった。
視界が開けた瞬間に、画面中央で鮮やかなエフェクトを伴ってプライベートチャットが弾ける。
「プロっス! お帰りなさい、ナガ君! 今日も一日お疲れ様でした♪」
その一文を目にした瞬間、信也の胸に鉛のように溜まっていた毒素が、一気に霧散していくのを感じた。
(ああ……イチだ。イチは、変わっていない。あいつじゃない、イチなんだ)
そこにあるのは、現実の泥沼のような罵り合いに一ミリも侵食されていない、純粋で無垢な愛の世界。
信也は震える指をキーボードに乗せ、以前と変わらぬ「ナガ」としての言葉を、祈るような心地で打ち込んだ。
「プロっス!ただいま、イチ。……待たせたな。今日も愛してるよ」
普段なら少し気恥ずかしくなるような過剰な愛の囁き。だが、今の信也にとっては、これこそが正気を保つための生命線だった。現実の市香を全否定し、目の前のアバターであるイチを全肯定するための、彼なりの必死な防衛本能。
もしここで「ナガ」を演じきれなければ、あの浴室の蒸気や、市香の濡れた髪の匂いに、自分自身が飲み込まれてしまう気がした。
「……っ! 私も、私もナガ君のこと、世界一愛してるよ!」
画面の中で、赤いドレスアーマーを纏ったイチが、くるくると楽しそうにステップを踏みながらハートのエフェクトを飛ばしてくる。
(そうだ。これが真実だ。俺の嫁は、こんなに可愛くて、俺を必要としてくれている)
壁一枚隔てた向こう側にいるのが「あの市香」だという事実に蓋をするように、信也はマウスを握りしめた。
その多幸感に浸っていたのも束の間、ギルドメンバーのアヤから簡潔なチャットメッセージが割り込んできた。
「プロっス。ナガもイチも遅い。もうボス部屋の前で待機してるわよ。早く来なさい」
「プロっス!二人とも早く来てー。……なんか、いよいよボイチャでの挑戦だね。正直、私、心臓がバクバク言ってるよ……」
アヤの飄々とした催促と、ハルの少し緊張した様子。ナガは「悪い、今すぐ向かう!」と返し、イチと共に転送ゲートへと駆け込んだ。
最深部「機械竜の玉座」。
重厚な金属の扉の前で、二人が待っていた。全員が揃ったのを確認し、アヤの落ち着いた声がチャットではなく、直接ヘッドセットのスピーカーから流れ出した。
「よし、全員聞こえるわね。……まあ、初回だし、気楽に行きましょう。全員、ボイスチャットをオンにして頂戴」
アヤの指示に従い、視界の隅に表示されたパーティアイコンを緑色に点灯させる。
信也は反射的に生唾を飲み込んだ。首筋に、冷水シャワーでは拭いきれなかった嫌な汗が滲む。
そして、鼓膜を震わせたのは、あまりにも聞き慣れた、けれどこれ以上なく可憐な響きを伴った「第一声」だった。
「……ナガ君、聞こえるかな……? ちゃんと届いてる?」
「うわっ!? あ、いや……あー、聞こえてる! 聞こえてるぞ、イチ!」
ほんのさっき、脱衣所の前で耳にした「生身の市香」の声。その声色が、全く同じトーンで、けれど「愛する嫁」の感情を120%乗せて脳内に直接流れ込んできた。
声紋は間違いなく市香のものだ。だが、そこに乗っている「ナガ君を慕う想い」があまりに生々しく、信也は自分でも情けないほど変な悲鳴を上げてしまう。
「ゲホッ、ゴホッ! ……ちょ、急に大声出さないでよ!耳が死んじゃう……!」
信也の過剰な反応に驚いたのか、スピーカー越しにイチが激しくせき込む音が響く。
マイクの感度が良いせいか、彼女の荒い呼吸音や、照れ隠しに小さく舌を打つような音までが、至近距離で囁かれているように聞こえてくる。壁一枚隔てた隣の部屋で、彼女も同じように赤面し、悶絶している気配が、声の揺れから手に取るように分かってしまった。
「……二人とも、大丈夫? 緊張しすぎじゃないかな」
アヤの、冗談を言う余裕もないほど真剣で、それでいて純粋に心配そうな声が届く。
「だ、だよね……。私も緊張しているけど、二人は酷いね。ナガもイチちゃんも、深呼吸して。落ち着いていこう」
ハルもまた、慣れないボイスチャットに声を震わせながら、二人を宥めるように言葉を繋いだ。
ナガは深呼吸を繰り返し、黄金の杖を構え直した。
目の前のアバターは美しい「イチ」だ。耳に届く声も、自分を慕う「イチ」のものだ。
現実の市香が持つ毒気を「PMO」というフィルターが濾過してくれているのだと、自分に言い聞かせる。
「……すまん、アヤ、ハル。もう大丈夫だ。落ち着いた」
『う、うん……。私も大丈夫。ナガ君、行こう?』
イチの声が、少しだけ潤んで聞こえた。それは現実の市香が見せることのない、脆く、守ってやりたくなるような響きだった。
「ああ。イチ……行こう!」
信也の言葉を合図に、四人は巨大な機械の扉へと手をかけた。
重厚な扉がゆっくりと、不気味な地鳴りを立てて開き始めた。




