24・シャワー上がりの妹2
江ノ島の駅から自宅までの坂道。
四月の終わりを告げる晩春の陽光は、夕刻になってもなお執拗な熱を帯びていた。信也は、普段なら潮風を楽しみながら歩くその道のりを、今日も半分駆け足で登りきった。
(……暑い)
前日に引き続いての掃除当番。埃っぽくなった教室で、机を運び、床を掃く。その対価として得たのは、制服のシャツを肌にじっとりと張り付かせる不快な汗だけだった。
思考の端々には、すでに「PMO」の雲一つない澄んだ青空が浮かんでいる。あの世界に行けば、重たい制服も、まとわりつく湿気も、すべてから解放される。何より、そこには自分を「ナガ君」と呼び、双剣を振るって隣に立つ愛すべき嫁・イチが待っているのだ。
その一心で玄関の扉を蹴るように開き、靴を脱ぎ散らかして脱衣所へと直行した。一刻も早くシャワーを浴び、この「織田信也」という現実の殻を洗い流してしまいたい。
だが、脱衣所の入り口にかかる厚手のカーテンを掴もうとした瞬間、信也の指先が止まった。
鼻腔をくすぐったのは、昨日と同じ、あの石鹸の香り。
微かな蒸気の気配が、布一枚を隔てた向こう側から漂ってくる。
「……ああ、そうだよな。昨日もそうだったよな」
独り言のように呟き、天を仰いだ。
昨日も、掃除当番で遅くなった自分が帰宅した時、市香はすでにシャワーを浴びていた。この家に自分以外の人間がいるという、あまりにも当たり前の事実。それが、今の信也にとっては最も認めたくない現実として立ち塞がる。
カーテンの向こう側では、衣擦れの音や、タオルで肌を拭うような微かな音が聞こえる。
本来なら「早くしろ」と一言怒鳴って終わるはずの話だ。だが、今の信也の脳内には、学校の体育館裏で市香が漏らした「兄との結婚に興奮している」という、狂った独白が焼き付いていた。
(落ち着け。あっちにいるのは市香だ。口が悪くて、生意気で、俺をゴミのように見る実の妹だ。……イチじゃない。絶対に、イチじゃない)
そう自分に言い聞かせれば聞かせるほど、脳の回路がバグを起こしていく。
信也は、自分の邪念を振り払うように激しく首を振った。
とにかく、一秒でも早くログインしたい。そのためには、一秒でも早くシャワーを浴びなければならない。効率を最優先した結果、信也はその場で制服を脱ぎ捨てた。
トランクス一丁――いわゆるパンイチの状態になり、苛立ちを隠さず声を張り上げる。
「おい、市香! 早く出ろ。こっちは汗だくなんだよ」
数秒の沈黙。昨日はこちらのこの発言に対して、三倍以上の長さの文句が返ってきた覚えがある。だが、今日返ってきたのは、音そのものが吸い込まれたような不自然な静寂だった。
衣擦れの音さえ途絶え、厚手のカーテンが微動だにしない。
「……ちょっと。まさか今、パンイチじゃないよね?」
ようやく届いた市香の声は、肺から空気を絞り出したように細く、どこか上擦っているように聞こえた。
「そうだけど」
信也がぶっきらぼうに答えると、またもや音が途絶え、数秒後、今度はカーテン越しに、言葉を失った市香が、何か直視してはいけない幻想を必死に振り払うかのように、ブンブンと首を振っている気配がした。
信也には知る由もなかった。
カーテンの向こう側で、市香が「ナガのパンイチ姿」という、ゲーム内では絶対にあり得ないはずの光景を脳内に投影し、自身の心拍数が跳ね上がるのを必死に抑え込もうとしていることなど。
「……信じらんない。昨日もそうだっだけど、デリカシーとか、お母さんのお腹の中に置いてきたわけ!?」
暫くして、いつも通りの刺々しい言葉が発せられた。だが、その声には隠しきれない動揺が混じっている。
「うるせえ。いいから早くしろ」
「……っ。言われなくても出るから! そこで待ってないで、一歩下がっててよね!」
さらに数十秒のバタバタとした気配の後、カーテンが勢いよく引き開けられた。
温かな蒸気が、脱衣所から溢れ出す。
そこで二人は、昨日よりもさらに鋭利な緊張感の中で対面した。
「…………」
「…………」
市香の視線が、パンイチで立ち尽くす兄の体に、吸い寄せられる。
筋肉質とは言い難いが、日々ゲームのコントローラーを握り締め、時に掃除当番で体を動かす、等身大の男子高校生の肉体。それが「ナガ」というアバターの影を伴って、彼女の眼裏に焼き付く。
信也もまた、息を呑んでいた。
風呂上がりの熱気で上気した頬。首筋に張り付く濡れた髪。部屋着の薄い生地越しに伝わってくる、生身の少女の体温。
最愛の存在である「イチ」が、今、手を伸ばせば触れられる距離で呼吸している。
「……早く、しろよ」
信也の声が、自分でも驚くほど低く掠れた。
「……変態。不愉快。最悪」
市香は吐き捨てるように言うと、信也の視線を逃れるように、足早に階段を駆け上がっていった。階段を登る足音が、いつもより激しく響く。
一人残された脱衣所。
信也はむしゃくしゃした気分をぶつけるように、浴室へとなだれ込んだ。
乱暴に服を放り込もうとして、洗濯機の中が目に入る。そこには、先程まで彼女が身につけていたであろう衣類が、無造作に放り込まれていた。
(……考えるな。考えるな、俺)
視線を逸らし、シャワーのノズルを捻る。
だが、そこでもまた「現実」が牙を剥く。
市香が使ったばかりのシャワーヘッドからは、彼女が纏っていた石鹸の匂いが、蒸気に乗って濃密に立ち上ってきた。狭い浴室が、彼女の香りで満たされている。
「……冷水だ。冷水じゃなきゃダメだ」
信也は設定温度を無視し、ノズルを冷水の限界まで回した。
頭上から降り注ぐ凍えるような水。それが、熱を帯びた肌と、それ以上に熱を帯びようとしていた思考を強引に冷やしていく。
タオルで体を乱暴に拭き、Tシャツと短パンを引っ掛けて自室へ逃げ込んだ。
扉を閉め、鍵をかけた。
カチリ、という金属音が、自分を外界から切り離す唯一の儀式。
部屋の明かりもつけず、デスクに鎮座するパソコンの電源ボタンを押す。
静かなファンの回転音。
キーボードが青白く発光し、モニターが暗闇を切り裂くように光を放ち始める。
ログイン画面に並ぶ「ナガ」の文字列。
エンターキーを叩いたその瞬間。
ノイズまみれの現実が、一気に浄化されていく。
網膜に広がるのは、壮麗な景色と、いつも通りの飾りっ気の無い緑のローブを着た「ナガ」の姿。
そして、そのすぐ隣。
舞い散る花びらの中に、鋭い双剣を腰に下げた、赤いドレスアーマーを着た可憐な少女の姿が浮かび上がる。
アタッカーとして誰よりも速く敵陣へ斬り込み、それでいて自分のすぐ隣では蕩けるような微笑みを見せる、理想の嫁・イチ。
(待たせたな、イチ。……今行く)
壁の向こう側から、コト、という音が聞こえた。
市香も今、ログインしたのだ。
5話(シャワー上がりの妹)と比べると、二人の様子が全然違いますね。私の言っている事が気になる方は、再度5話を見に行ってみても良いかもしれません。




