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22・初のオフ会4

 市香の口から零れ落ちた「興奮」という言葉は、信也の脳内に居座る理性の回路を、一瞬で焼き切るに十分な電圧を持っていた。


(……興奮? こいつが? 俺と結婚してたことに?)


 その瞬間、信也の視界は、抗いようもなく薔薇色に輝いた。


 脳髄に直接、致死量に近い甘い蜜を流し込まれたような、圧倒的な多幸感。


 目の前で頬を赤く染め、潤んだ瞳で自分を見つめる少女。その震える肩も、今にも零れ落ちそうな涙も、すべてが昨日まで画面越しに捧げてきた愛おしき「イチ」そのものだった。


 自分が「ナガ」として注いできたすべての愛情が、現実という肉体を持ってそこに存在し、あろうことか自分を「男」として肯定している。それは人生で一度も味わったことのない、天国のような、それでいて身を滅ぼすほどに甘美な心地よさだった。


 だが、その至福の光景を塗り潰すように、脳の奥底にある「兄」としての冷徹なブレーキが、鼓膜を破らんばかりの悲鳴を上げた。


(違う。騙されるな。こいつは織田市香だ。俺の双子の妹だ。同じ屋根の下で暮らし、同じ血を分け合った、あの忌々しい血縁者なんだぞ!)


 脳内では、理想の嫁「イチ」を慈しもうとする本能と、現実の「妹」を拒絶しようとする理性が、互いの喉元を食い破らんばかりの勢いで激突していた。


 イチを愛している。だが、市香は妹だ。


 この二人が同一人物であるという、世界のバグのような矛盾を、信也の精神は生存本能として拒絶し始めていた。もし、ここで彼女を「イチ」として受け入れてしまえば、家族という概念が汚れ、積み上げてきた日常が内側から爆発する。


 それは、人道という名の崖っぷちから、真っ逆さまに地獄へ飛び込むことを意味していた。


 踏み越えてはならない。その一歩は、信也という人間の魂を決定的に損なう、取り返しのつかない一歩になる。


(ありえない。あっていいはずがない。……殺せ。自分の中の「イチ」への未練を、今すぐここで、完膚なきまでに殺し尽くせ!)


 信也の指先が、怒りとも恐怖ともつかぬ激しい震えで痙攣する。


 彼は自分自身を正気に繋ぎ止めるため、そして眼前の少女に宿る「イチ」という幻影を自らの手で葬り去るために、あえて最も冷酷な言葉を喉の奥から絞り出した。


「……ふざけるな」


 その声は、低く、地這うような拒絶の響きを帯びていた。


「俺は、市香。……お前がイチだったことが、心底嫌だと思った。……嫌なんだよ。お前みたいな生意気で、可愛げのない、口の悪い妹が、俺の『イチ』であってたまるか。最悪なのはこっちだ。今すぐその面影を消せ。反吐が出る」


 それは市香を傷つけるためだけではなく、自分の中に芽生えかけた「薔薇色の昂揚」を自ら去勢するための、必死の防衛線だった。信也はあえて、市香の潤んだ瞳を射抜くように睨みつけた。


 一瞬、時が止まった。


 市香の瞳に溜まっていた涙が、一筋、頬を伝って零れ落ちる。


 ……だが、次の瞬間。


「……だよね! 私キモいよね! あはははは! お兄ちゃんと結婚とか、冗談でもそんなこと考えちゃう私、マジで頭おかしいじゃん! 私……ヤバいじゃん……!」


 市香は、突然腹を抱えて笑い出した。


 それは、憑き物が落ちたような、突き抜けた乾いた笑いだった。彼女は目尻に浮かんだ涙を乱暴に拭い、狂ったように笑い続ける。


「あー、マジでないわ! 今のなし! 全部なし! 忘れて! 私も今、自分で言ってて鳥肌立ったもん。実の兄に興奮とか、どんなバグだよ! ありえない、絶対ありえないから! あははは!」


 拒絶されたことで、彼女は救われたのだ。


 信也が「常識」という鉄槌を下したことで、彼女は踏み越えてはならない境界線の内側へ、安全な「兄妹」という檻の中へと逃げ戻ることができた。拒絶されることが、今の彼女にとって唯一の救済であり、日常を維持するための儀式だった。


 信也もまた、その笑いに縋り付くように同調した。


「……そうだよ。兄妹で結婚とか、現実であり得るわけねーだろ。漫画の読みすぎなんだよ、お前は。……全く、心臓に悪い冗談はやめろ」


 自分に言い聞かせるように、信也もまた乾いた笑い声を絞り出す。


 二人の笑い声は、体育館のコンクリート壁に反響し、不自然に膨れ上がっていく。それは、壊れかけた日常の平穏を、無理やり接着剤で繋ぎ合わせようとする、悲鳴のような笑いだった。


 その様子を見て、風火は無理やり口角を吊り上げた。


「……あ、あはは! そうだよね! 兄妹で結婚なんて、ギャグ以外の何物でもないもんね! イチちゃんも、これに懲りたら二度と変な『夢』見ないことだね!」


「……そうね。私も、少しだけ悪趣味な『夢』を見すぎたようよ。兄妹で夫婦だなんて、およそ正気の沙汰ではないわ」


 彩もまた、冷徹に、わずかに肩を揺らして笑ってみせた。


 四人の、空虚で、不自然で、それでいて切実な笑い声が、体育館裏の淀んだ空気を震わせる。


 誰もが「兄妹が結婚するなどあり得ない」という絶対的な常識を盾にして、その場に口を開いた深淵を、必死に埋め立てようとしていた。


 潮風が吹き抜け、不快な塩のべたつきを肌に残していく。


 それは、日常のひび割れを「笑い」という名の蓋で覆い隠す、残酷な「平穏」の幕開けだった。

ここまでがあらすじの範囲ですね。続きへの期待が高ければ、ブクマで応援してもらえると嬉しいです。高評価とかは……完結してからでもいいかもです。

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