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21・初のオフ会3

 その鼓動の間を縫うように、隣で拳を震わせていた市香が、ついに呻くような声を漏らした。


「……ありえない」


 数秒の、永遠にも感じられた沈黙の果てに、市香がようやく唇を割った。


「ありえない。……最悪。……死にたい。……何で、よりによって、こいつなの。信じたくない。神様、呪ってやる……」


 その言葉の一つ一つは、確かに拒絶の意志に満ちていた。昨日までの生意気な妹としての、正当な反応だ。信也も、その言葉を聞いてどこか安堵する自分を期待していた。そうだ、こいつは俺を嫌っている。俺もこいつが嫌いだ。それでいい。それでこの喜劇は終わるはずだった。


 だが、その声には、いつもの兄妹喧嘩にあるような「冷たさ」が欠落していた。鋭く刺すような罵倒ではなく、どこか熱に浮かされたような、湿り気を帯びた響き。


「……おかしいわね。市香」


 静かに、しかし逃げ場を塞ぐように、彩が口を開いた。


 彼女は組んでいた腕を解き、冷徹な観察眼を親友である市香へと向ける。


「クラスメイトとして、あなたの親友として言わせてもらうけど……あなたのその反応……言葉だけを聞けば拒絶だけれど、声に力が籠もっていないわ。何となく、違和感がある。本当に心の底から嫌悪しているなら、あなたはもっと冷徹に、事務的に彼を切り捨てるはずよ。『今日限りでギルドを抜ける』と、即座に宣言するくらいにはね」


「そ、それは……っ」


「そうなんだよね。私もそう思う」


 風火が、眼鏡の奥の瞳を細めて畳みかけた。彼女の表情からは先程のふざけた様子が消え、女としての、あるいは「ハル」というギルドマスターの人格を通して培われた鋭い感性が剥き出しになっていた。


「勘だけどさ……イチちゃん。本当に、心の底から……一ミリも残らず嫌がってる? 織田が『ナガ君』だったこと。あの、君を全肯定して、優しく守ってくれた理想の旦那様が、実のお兄ちゃんだったってこと……本当に、不快感だけなの?」


「やめて……言わないで……」


 市香の声が、湿った空気に溶けるように弱まっていく。


 信也は、隣に立つ妹から発せられる熱量に圧倒されていた。彼女の肌からは、怒りとは明らかに違う、何かもっと根源的な、熱病のような熱気が立ち上っている。


 市香は、震える手で自分のスカートを掴み直し、ゆっくりと顔を上げた。


 その瞳は潤み、頬は夕焼けを閉じ込めたかのように赤く火照っている。彼女は信也を見ているようでいて、その実、信也の中に残る「ナガ」という幻影を必死に追いかけているようだった。


「……だって、こんなの、ずるいよ……」


 市香の唇が、わななく。


「……あんなに優しくて、かっこよくて……私のこと、誰よりも分かってくれて。……昨日の夜だって、あんなに……あんなに恥ずかしいこと、たくさん言わせて……」


 市香の脳裏には、昨夜のチャットログが、あるいは音声通話で交わした甘い囁きが、濁流となって押し寄せているのだろう。信也もまた、自らがイチに捧げた「愛してる」「お前だけだ」という言葉の数々を思い出し、喉の奥が焼けるような羞恥に襲われた。


 やがて、市香は逃げることを諦めたように、絞り出すような小さな、しかし凛と響く声を漏らした。


「……正直、兄と結婚してるとか……そんな漫画みたいな展開に……ほんの、ちょっとだけだけど……興奮、してるとか……私……ヤバいじゃん……」


 その言葉が、重く淀んだ体育館裏の空気を切り裂いた。


 潮風に乗って、三人の耳へと滑り込んだその告白は、あまりにも純粋で、あまりにも倒錯的だった。


 再び、世界から音が消えた。


 風火と彩は驚きに目を見開いたまま、言葉を失った。


 そして信也は。


「…………っ!」


 雷に打たれたような衝撃が、全身を駆け抜けた。


 嫌悪でもなく、怒りでもない。妹が自分に対して、あるいは自分たちの関係性に対して「興奮」という言葉を向けた。その異常な事実に、信也の背筋には未知の戦慄が走った。


 だが、同時に。


 今、このべたついた不快な体育館裏で、涙を溜めて自分を見つめる市香の姿が、画面の向こうで自分を頼りにしていた「イチ」と、完全に重なってしまった。


(……こいつ、本当に……イチなんだ)


 双子の妹という現実のラベルを一枚剥げば、そこには確かに、自分を愛してやまない少女がいた。


 信也の胸の奥で、正体不明のざわつきが急速に膨れ上がる。それは「自分でもよく分からない」カオスな感情だった。不潔で、不謹慎で、それでいて否定しがたい、甘美な毒のような何か。


 潮風が、再び湿った熱を持って吹き抜ける。


 三人の沈黙は、今や拒絶の沈黙ではなく、誰も触れることのできない「禁忌」の扉が開いてしまったことへの、畏怖の沈黙へと変わっていた。

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