2・武田風火
織田家の玄関を出て数分。緩やかな坂を下りきると、潮の香りが一気に濃くなる。
江ノ島の駅ホームに辿り着くと、そこには既に、見慣れた後ろ姿があった。
指定の制服を品よく着こなし、手持ち無沙汰にスマホを眺めている女子生徒。武田風火だ。ボーイッシュなショートヘアーに、少し大きめのハーフリム眼鏡がよく似合っている。
彼女は学校でもそれなりに目立つ存在で、その整った顔立ちとスタイルの良さから男子の視線を集めることも少なくない。そして、その内面を誰より知る信也にとっては、気兼ねなく趣味の話ができる唯一の戦友である。
「おはよ、織田」
信也が近づくと、風火はスマホから顔を上げ、穏やかに微笑んだ。その立ち振る舞いは、一見すれば「学校の人気者」そのものだ。
「おはよう。……なあ、お前、また昨日、他校の男子を振ったんだって?」
信也の茶化すような言葉に、風火は「あー、それね」と、心底興味なさそうに肩をすくめた。
「だって、全然タイプじゃないんだもん。筋肉隆々で日焼けした男なんて、私の視界にはノイズでしかないよ。せめてハル君より可愛い男の子じゃないと、付き合う気になれないし。……ねえ織田、現実にあんなに可愛い子がいたら、私、全財産貢いじゃうかもしれないよ?」
さらりと言ってのける風火の言葉に、信也は苦笑した。
ちょうど滑り込んできた江ノ電の車両に、二人は慣れた足取りで乗り込んだ。
四月の下旬。二人は海側のロングシートに並んで腰を下ろす。背後からは、朝陽を反射して銀色に輝く相模湾の熱気がガラス越しに伝わってきた。向かいの席に座った他校の学生が、窓からの反射光に目を細め、眩しそうに手で影を作っている。
「ハル君より可愛い、か。……ハードル高すぎだろ。アレは『PMO』の中でもトップクラスの美少年キャラなんだから」
「そうなんだけどさあ! でもハル君が可愛いのが悪いんだよ! 『ハル君可愛いねぇ! 今の猫のポーズ最高だよぉ!』ってチャットで打ってる時、私、本当に幸せなんだから。客観的な事実を述べてるだけなんだから、開き直って何が悪い!」
風火は眼鏡のブリッジを指で押し上げながら、うっとりとした表情を浮かべる。彼女にとって、ゲーム内で操る『ハル』は単なる自分のアバターではなく、究極の理想の男性像なのだ。そして、その究極の理想の男性に、彼女はこれまでに百種類以上のメイド服コーデを着せていた。信也からすれば間違い探しのような着せ替えに彼女は所持金を毎回使い込んでいるので、ハルが現実にいれば「全財産貢いじゃう」という発言は、冗談ではないのだろう。
「まあ、オシャレは良い事だが……たまには武器も更新してくれ。アレを倒す為に少しでも火力が欲しい」
「毎回一割以上ヒットポイントが残っちゃうよねぇ。でも今は新しいタイツを買ってあげるために貯金したいからなぁ」
「おい」
「冗談だよ。さっさとアレを倒して金策を再開した方がどう考えてもお金が貯まるからね」
「分かっているならいい。だが、無理するなよ。ハルの武器を変えただけでパーティの火力が一割以上増えて勝てるようになるとは思っていないからな」
信也は窓ガラスに映る自分の顔をぼんやりと眺めた。
少し眠そうで、これといった特徴もない普通の男子高校生。これが「素」の織田信也だ。
だが、夜にパソコンを起動し、ネットゲームである「PMO」の世界へ降り立てば、自分は「ナガ」という仮面を被る。
誰にでも優しく、的確に仲間を癒やし、そして何より「嫁」であるイチを全肯定する理想のパートナー。
現実の自分では口が裂けても言えないような甘い言葉を、ナガとしてなら迷わずイチに捧げることができる。
電車が「七星高校前」の駅に停まり、大勢の生徒たちが降り始める。
潮風の吹くホームへと降り立ち、同じクラスの二人は、そのまま並んで校門へと続く坂道を登っていく。
「さてと。まずは一時間目の数学を生き残るとしますかね。織田が寝てたら起こしてあげるよ」
「……お前に言われたくない」
軽口を叩き合いながら昇降口へと向かう。
ふと、前方で友人たちと笑いながら校舎へ入っていく市香の白いシュシュが視界を掠めたが、彼はそれを意識の外へと追いやった。
今はただ、退屈な日常という名のインターバルをやり過ごすだけ。
すべては、夜の闇が降り、愛しい「嫁」に再会できる瞬間のために。




