19・初のオフ会
七星高校の敷地内は、どこにいても爽やかな潮風が吹き抜ける。だが、校舎の巨大な影に沈んだ体育館の裏手だけは例外だった。
海からの風が遮られ、空気は重く淀んでいる。爽快さなど微塵もなく、ただ肌にじっとりと張り付く塩のべたつきだけが、不快な熱を持って神経を逆撫でする。
もともと、不潔さと湿気が同居するこの場所には近寄りたくもなかったが、今日はいつにも増して、ここが忌々しい。一歩進むごとに、自らの社会的死が確定していくような感覚。このべたついた空気を吸い込むたびに、胃の奥が毒を飲まされたかのように重く沈んでいく。
「……離せよ、武田。行きたくないって言ってるだろ……」
信也の抵抗は虚しく、袖を掴む武田風火の力に強引に引きずられていた。
普段なら軽口を叩き合う親友だが、今の彼女の瞳には「逃がさない」という鉄の意志が宿っている。非常階段の錆びた鉄の匂いが鼻を突き、信也の心臓は、昨夜から続くパニックの残響で嫌な音を立てていた。
「気持ちは分かるけど、行くよ。……こればっかりは、避けて通れないでしょ」
風火は短く告げると、信也を非常階段の手すりがあるデッドスペースへと押し出した。
そこには、二人の女子生徒が待ち構えていた。
一人は、市香と同じ一組の生徒。名前までは知らないが、市香と一緒にいる姿を何度か見かけた記憶がある。整った顔立ちに、どこか近寄りがたい知性的な雰囲気を纏ったその少女が、今、信也を射抜くような鋭い視線で見つめていた。
そしてその隣には、昨日までの生意気な面影をどこかへ捨ててきたかのように、幽霊のような足取りで立ち尽くす市香がいた。
「……揃ったわね」
知的な方の少女が口を開いた瞬間、信也の背筋に氷水のような冷たさが走った。
昨夜、ヘッドセットの向こうから自分たちを戦慄させた、あの「アヤ」の声そのものだ。
「……だね。ええと、じゃあ、自己紹介からしようか?……私は武田風火。一年二組。ゲーム内では『ハル』。織田……こっちの織田の親友で、ギルドマスターだよ」
信也の隣の風火が、苦々しく口火を切った。続いて、凛とした少女が一歩前に出る。
「私は上杉彩。市香と同じ一年一組で、ゲーム内では『アヤ』を担当しているわ。ナガ……いえ、織田信也くん。あなたが私を学校で見かける時は、ただの『双子の妹の友達』だったんでしょうね」
「……上杉、さん」
「アヤで良いわよ。どうせ、本名と同じだし」
信也は、喉の奥がカラカラに乾くのを感じた。
上杉彩。市香の隣を歩く姿を見かけた事がある、あの涼しげな横顔。もし、もしもイチの中身が市香じゃなくて、この目の前の美少女だったとしたら。画面の向こうで自分に甘えてくれていたのが、この知的な少女だったとしたら、今日のこのオフ会はどれほど幸せな、あるいは誇らしい時間だっただろうか。
だが、現実は残酷だ。
彩の横で、市香が俯いたまま、スカートの裾を指が白くなるほど強く握りしめている。同じ四月に生まれ、同じ家で育ち、今は同じ高校の一年生として別の教室に通う、たった一人の双子の妹。
「……次は、あなたたちの番よ」
彩が、促すように顎をしゃくった。
信也は吐き気を堪えながら、搾り出すように声を出す。
「……一年、二組……織田信也。……ナガ、だ」
自分の口から「ナガ」という響きが出た瞬間、信也は舌を噛み切りたい衝動に駆られた。学校の、この現実の空気の中でその名を名乗ることが、これほどまでに屈辱的で、全裸で校庭を走るより恥ずかしいことだとは思わなかった。
今すぐ逃げ出したい気持ちを堪えて市香を睨むと、潮風にかき消されそうな小さな声が呟かれた。
「……一年、一組。織田、市香……。……キャラ名は……い、イチ……」
そこまで言うのが精一杯だったのか、市香は再び深く俯いた。
彼女の白いシュシュが、淀んだ空気に微かに震えている。
「改めて、自己紹介の必要はないと思ったけれど、これで確定したわね」
彩が、まるで有罪判決を下す裁判官のように、冷徹に言い放った。
「ここにいるのは、ギルド『戦国』の主要メンバー四人。……そして、この二人については」
彩の細い指が、信也と市香を交互に指し示した。
「ゲーム内での『夫婦』であり、現実世界での『双子の兄妹』。……あまりに出来すぎた、悪趣味な喜劇ね」
彩の言葉が、体育館の壁に跳ね返って信也の鼓膜を叩く。
非常階段の下、淀んだ空気と塩のべたつきに支配されたこの空間が、完全に逃げ場のない「処刑台」へと変貌したのを、信也は肌で感じていた。




