18・兄妹という関係2
昨夜の記憶は、ひどく断片的だった。
自室のドアを開け放った市香が、絶望に染まった顔で頷いたこと。窓の外で鳴り響いていた、耳を弄するようなサイレンの音。そして、混乱の極致にあったボイスチャットのヘッドセットから、アヤの氷のように冷たく、それでいて有無を言わさない声が響いたこと。
「――今の状況、ただ事ではないようね。ナガ、イチ。そしてハル。明日、状況確認のためにオフ会をしましょう」
その言葉だけが、脳内の録音テープのように何度も再生されている。それ以外の、自分が何を話し、どうやってログアウトし、どうやってベッドに入ったのかは、パニックの霧の向こう側に消えていた。
翌朝。
重い体を引きずるようにして一階へ降りると、リビングは不気味なほど静まり返っていた。
ダイニングテーブルの上には、仕事に出かけた母親からの書き置きがぽつんと置かれている。
「昨日のトラック、本当に怖かったわね。外はまだ危ないから、警察や救急の人たちの邪魔にならないように、安全に注意して学校に行きなさい。母より」
あまりにいつも通りで、あまりに能天気なその文字を見て、信也はめまいを覚えた。母さんは知らないのだ。昨夜、この家の中で「交通事故」よりも凄惨な、人生そのものを粉砕しかねない大惨事が起きていたことを。
ザクッ。
静寂を裂くように、硬いものを咀嚼する乾いた音が響いた。
ビクリ、と肩を揺らした信也が視線を向けると、そこには既に食卓についている市香の姿があった。
彼女は、まるで魂がどこか遠くへ抜けてしまったかのような虚ろな瞳で、手にしたトーストを無機質に口へ運んでいる。
「…………」
「…………」
言葉が出てこない。
もっとも、兄妹間で会話がないこと自体は、この家ではいつもの光景だ。普段なら、お互いの存在を空気か何かのように扱い、視線を合わせることなくそれぞれの朝を済ませる。
だが、今の信也にとって、目の前に座っているのは単なる「無視していい同居人」ではなかった。
信也は市香の向かいの席に腰を下ろした。
テレビをつける勇気さえなかった。沈黙を破る音が、今の二人の間ではあまりに鋭利な凶器に感じられたからだ。
信也は、無意識のうちに市香の「顔」を注視していた。
昨日まで、その顔は単なる「見慣れた不快な身内」の象徴でしかなかった。しかし今は違う。彼女がトーストを小さく齧るその唇の動き、俯いた時に揺れる髪、咀嚼する際の僅かな表情の変化。
そのすべてに、ゲーム画面の中で愛くるしく笑い、自分を「ナガ君」と呼んで慕い、そしてオンライン上で結婚した「イチ」の残像が重なって見える。
(……こいつが、あのイチなのか?)
トーストを齧る市香の横顔。
その必死に無表情を装っているはずの表情に、信也は奇妙な艶めかしさと、吐き気を催すほどの自己嫌悪を同時に感じた。自分が「愛している」と言い、結婚した相手が、今、目の前で不機嫌そうにパンを咀嚼しているこの女なのだ。
市香もまた、信也の視線に気づいているようだった。
彼女は一度も顔を上げない。だが、パンを齧るスピードが極端に遅く、その指先が僅かに震えているのが分かった。
「……おい」
耐えきれず、信也が声を絞り出した。
市香の肩が、目に見えて跳ねた。
「……昨日の、アヤの話。……何時にどこだか、ちゃんと聞いてたか?」
努めて平坦に、兄としてのトーンで聞いたつもりだった。
市香は、パンを口に含んだまま、喉を詰まらせるようにして答えた。
「……そんなの……あの時、パニックでそれどころじゃなかったでしょ……。お兄ちゃんだって、ボーッとしてたじゃない……」
「俺だって……混乱してたのは認めるけどさ。アヤの声がした時、近くにいただろ。だったら一言くらい内容を覚えておけよ、イチ」
無意識に、口をついてその「名前」が出た。出てしまった。
イチ。
空気が一瞬で凍りつき、そして熱を帯びた。
市香の手が止まり、トーストを持つ指が白くなるほど強く握りしめられる。
「……そんな呼び方しないで」
「……呼びたくて呼んでるわけじゃない。というか昨夜まで、俺にとっての『イチ』は、お前じゃなくて俺の……」
「やめて!!」
市香が、鋭い声で遮った。
ようやく上がった彼女の瞳には、ひどく複雑な色が渦巻いている。
「言わないで……。それ以上、その口から『ナガ君』が言いそうなこと……喋らないでよ」
「喋らないでって……、どう喋ろうが俺の勝手だろ」
「うるさい!喋んないで!気持ち悪い声を出さないでよ!」
「気持ち悪いってなんだよ! じゃあお前のボイチャみたいに、猫撫で声でも出してやろうか!?」
言い合いが、いつもの「兄妹喧嘩」のレールから外れ、泥沼の「夫婦喧嘩」のような、得体の知れない熱を帯び始める。
本来なら、ここで相手を完膚なきまでに論破し、不快感を叩きつけるべき場面だ。だが、信也の喉には、鋭い棘のような羞恥心が刺さっていた。
脳裏に、ボイスチャットでの市香の甘い声が再生される。
「ナガ君、大好きっ」
その事実を意識した瞬間、信也の顔に一気に熱が昇った。小恥ずかしい。いや、恥ずかしいというレベルを超えている。これは魂の公開処刑だ。
喧嘩をしようにも、相手が「イチ」だと思うと、その一挙手一投足に妙な意識が働いてしまい、言葉にキレがなくなる。
「……とにかく、詳細が分からないんじゃ、今日のオフ会に行けないだろ。どうすんだよ」
ガタッ、と椅子を乱暴に蹴るような勢いで、市香が立ち上がった。
その時、信也は初めて、彼女の顔を正面から見た。
「……っ!」
市香の顔は、熟したリンゴのように、耳の付け根まで真っ赤に染まっていた。その瞳には涙が溜まっており、怒りと、羞恥と、そしてもっと言葉にできない複雑な感情がぐちゃぐちゃに混ざり合っている。
「私はアヤちゃんに直接聞くから! お兄ちゃんはハルちゃんに聞いてよ!!」
市香は言い捨てると、リビングを飛び出し、そのまま逃げるように階段を駆け上がっていった。
二階から、自室のドアを文字通り叩きつけるように閉める衝撃音が響く。
静寂が、再びリビングを支配した。
一人取り残された信也は、自分の皿に残った冷めたトーストをぼんやりと眺めた。
「……なんだあいつ。そんなに怒るようなことか?」
信也は呟く。
確かに気まずい。死にたくなるほど恥ずかしい。
だが、市香のあの「顔の赤さ」は、ただの怒りや気まずさにしては過剰すぎる気がした。まるで、憧れのアイドルに不意に間近で会ってしまったファンが、パニックを起こして逃げ出したかのような――そんな、ひどく純粋で強烈な「意識」の表れにさえ見えた。
「……あそこまで怒らなくてもいいだろ。……俺だって、ナガだってことを隠してたのは悪かったけどさ……」
信也は、自分の胸の奥が妙に騒がしいことに気づかないふりをした。
彼女が自分のことを、ただの「兄」としてではなく、あのゲーム内での「ナガ君」として、今この瞬間も猛烈に意識しているのだという可能性に。
だが、それ以上に今の信也を支配しているのは、底知れない憂鬱だった。
これから「ハル」こと風火に連絡を取り、今日のオフ会の詳細を聞き出さなければならない。
(……ああ、クソ。気が進まねえ……)
オフ会。本来なら、ギルドの仲間と初めて顔を合わせる、胸の踊るようなイベントのはずだった。だが、今の信也にとっては、自分の恥部を白日の下に晒し続ける拷問以外の何物でもない。
同じ屋根の下に住む妹が『嫁』だった。
その事実を抱えたまま、第三者を交えて顔を合わせる。その光景を想像しただけで、さっきまで咀嚼していたトーストが腹の底で石のように重く感じられ、急激に食欲が失せていく。
「……武田に、連絡するか……」
信也は震える指でスマートフォンを取り出した。
地獄へ向けて、一歩を踏み出さなければならないという現実に、彼はただ深く、重いため息をついた。




