17・身バレ
信也はデスクの前に滑り込むと、脱ぎ捨てていたヘッドセットを、まるで戦場へ戻る騎士が兜を被るかのような、どこか神聖な儀式のように装着した。
イヤーパッドが耳を覆った瞬間、外で鳴り響くパトカーのサイレンや、救急隊員を誘導する母親の大声が急激に遠のき、代わりに「PMO」の乾いた環境音と、静かなホワイトノイズが心地よく鼓膜を満たした。
画面の中では、黄金の杖を構え「ナガ」が、ボス部屋の扉の前で静かに佇んでいる。
隣には、同じように動きを止めたままの「イチ」。そして、二人を心配そうに囲み、チャット欄で状況を確認し合っているハルとアヤの姿があった。
(……さて、報告しないとな)
マイクのミュートを解除しようとして、ふと一階のリビングで震えていた市香の顔が脳裏をよぎった。
つい数分前、彼女に対して「特定のリスク」を説き、SNSへの投稿を禁止したばかりだ。その直後に、自分から仲間に事故の詳細を話すのは、理屈としては正しくとも、どこか妹を裏切っているような、奇妙な罪悪感が胸の端をかすめる。
だが、信也はすぐにその思考を振り払った。
(いや、向こうは身元の知れない不特定多数だ。俺が今から話すのは、生死を共にしてきた信頼できるギルドの仲間……何より、俺の「嫁」だ。無事を知らせ、攻略の士気を維持する方が、一プレイヤーとしての責任だろ)
自分に都合のいい正当化を完了させると、信也はミュートを解除し、努めて冷静な声をチャンネルに流した。
「――あー、みんな。待たせた。戻ったよ」
「ナガ! 戻ったんだね! 良かった……大丈夫!? さっきの音、凄かったけど!」
ハルの弾んだ声に、信也は少しだけ口角を上げた。自分の帰還をこれほど喜んでくれる場所がある。その事実が、先ほどの凄惨な事故の記憶を、どこか遠い世界の出来事のように追いやってくれる。
「ああ。正直、今でも膝が笑ってるよ。……家の真ん前、本当に目と鼻の先にある電柱に、大型トラックが正面から突っ込みやがってさ。外は見物人も含めて滅茶苦茶だよ」
「えぇっ、本当にすぐ近くなんだね……。怪我とかはなかったの?」
「俺も家族も無事だ。ただ、あと数メートル突っ込む角度がずれてたら、一階のキッチンに直撃してた。母さんが大慌てで救急車を呼んでいたよ。……まあ、うちは大丈夫だから。あとはイチが戻ってくれば、攻略再開できると思う」
信也がそう語っている最中だった。
ヘッドセットの奥から、ザッ……という激しいノイズが走った。
イチが、戻ってきたのだ。
だが、聞こえてきたのは、いつもの明るい「ナガ君!」という歓喜の声でも、耳に心地よく響く心配の囁きでもなかった。
「……え?」
それは、絶望の沼に足を踏み入れた者が漏らすような、か細く、しかし鋭い響きを含んだ声だった。
「……ナガ、君……? 今……何て言ったの……?」
イチの声が、これまでに聴いたことがないほど冷たく、強張っている。
「あ、ああ。イチ、戻ったか。災難だよ、本当に。さっき言った通り、家の目の前で事故が起きてさ……。そっちは大丈夫か? さっき凄い悲鳴が聞こえたけど……」
「…………嘘…………まさか…………」
イチの声が、震えを帯びていく。
「……そんな、こと。……だって、さっき……」
「……イチちゃん? どうしたの? 気分でも悪くなった?」
ハルの怪訝そうな問いかけにも、イチは答えない。
ただ、荒い呼吸音だけが、マイクを通じて生々しく信也の鼓膜を叩き続ける。彼女は、何かを確かめるように、あるいは何から逃げるように、ぶつぶつと「ありえない」という言葉を繰り返していた。
「……ちょっと。……ちょっと、確認してくる。……すぐに戻るから」
その、地獄の底から響くようなイチの言葉を最後に、彼女のボイスチャットは沈黙した。アバターの横にあるスピーカーのアイコンが消え、イチは再び「離席」の状態になる。
「……イチ? どうしたんだよ、急に」
信也は困惑し、モニターを見つめた。
だが、その困惑が深い疑念に変わる前に、現実の音が彼の思考を上書きした。
廊下を、凄まじい足音が近づいてくる。
ドタドタドタッ、と、床を抜かんばかりの勢いで、何者かが自分の部屋を目指して走ってくる。
バァァァァァァァン!!
蹴破らんばかりの勢いで、自室のドアが開け放たれた。
「……おい。ノックもせずに入って来るなよ!」
信也は、また市香が「やっぱりあのマイク、カビ臭いから変えてほしい」とでも言いに来たのかと思い、うんざりした顔でドアを振り返った。だが、市香は信也の怒鳴り声を無視し、もはや狂気すら感じさせるほどの必死な形相で叫んだ。
「……お兄ちゃん! ちょっとパソコン見せて!」
「な、なんだよ急に……! やめろ、今ゲームの最中だって……!」
「お願い、見せて!! 後で幾らでも謝るから!!」
信也の制止も聞かず、市香はデスクへと詰め寄った。
彼女の視線が、信也の顔を、そしてその向こう側にあるモニターを射抜く。
そこには、黄金の杖を構えた「ナガ」が、画面の真ん中で傲慢なまでの存在感を放っていた。
かつて信也が自慢げにカスタマイズし、イチが「ナガ君」と言って愛してきたそのアバターが、残酷なまでの解像度でそこに刻まれている。
市香の口から、情けない吐息が漏れた。
そのアバターを見た市香の唇が、戦慄に震える。彼女の顔から、一気に血の気が引いていくのが見えた。
「………………お兄ちゃんが…………ナガ君…………?」
その声は、スピーカーからではなく、至近距離の空気を通じて、生の振動として信也の脊髄を直撃した。
信也の思考が、真っ白に塗り潰される。
自分の目の前にいる、この、人生の罰ゲームのような妹。
その妹が今、ヘッドセットの向こう側にいた「最愛の嫁」と同じ言葉を口にした。
信也は、震える喉をどうにか動かし、掠れた声で問いかけた。
「……お前……まさか……。お前が、イチなのか……?」
市香は答えなかった。
ただ、絶望と苦しみに叩き潰されたような、この世の終わりを具現化したような顔で、ゆっくりと、しかし重々しく頷いた。
その表情は、瞬時に信也へと伝染した。
数分前、自分が妹に誇らしげに語った「情報の特定」という言葉が、呪いとなって部屋中に吹き荒れた。
完璧だった仮面は粉々に砕け散り、その破片は、あまりに惨めな「現実」の地べたに、無惨に転がっていた。
自室の窓の外からは、救急車やパトカーのサイレンが重なり合い、野次馬たちの喧騒が混ざり合っていた。その、吐き気を催すほどにカオスな空間は、今この瞬間の、二人のぐちゃぐちゃの気持ちそのものだった。




